見出し画像

演劇よ、どうか私を嫌いでいて

演劇/微熱少年vol.3
『小医癒病』中医癒人大医癒世
無事終演。
ご来場いただいた皆様、ご検討いただいた皆様、本当にありがとうございました。
誰一人かけることなく上演できたこと、心から安堵しています。

さて、ここから先は、私の長ーい長ーい独り言。

1年目研修医「宮澤比呂美」として、「みずだけ豆太」を生きた2か月だった。

今年の6月、ディズニー映画の「リメンバー・ミー」を見ていたら、主人公のミゲルがとにかく私に似ていた。性格と蚊じゃなくて、顔、昔からピクサー顔といわれていはいるけど、ほんとそっくりで笑ってしまった。
その旨のツイートをしてすぐ、主宰の加藤真史さんから連絡が来た。

「無理を承知で出演のオファーをしたい。”宮澤比呂美”というキャスティングをずっと決めあぐねている。先程のツイートを見て、ミゲルとみずだけさんのビジュアルを重ねた瞬間、なぜかスクラブと白衣を着たみずだけさんの姿になって浮かび上がった。」

最初は本当に何をいっているんだと思ったし、私今新潟に住んでいるんだが物理的にそれは可能か?
そもそも加藤さんは私が演技をする姿を見たこともなければ(正確に言えば大学3年の時のゼミ公演を配信で見ているが、あれは自分が自身が立つ作品のため、演技はしていない)、大前提として加藤さんにリアルでお会いしたこともない、しかも私の業種はホテルのため、定期的な休みを取れない、どう考えても不可能では。
いろんなことが頭をよぎったが、長く演劇に携わり、きっと県内でもえれえすんごい人たちを知っているであろう加藤さんが、わざわざずぶの素人である私に声をかけてくださった、という事実が私の中では天に舞い上がりそうなほど嬉しかった。

演劇を好きになって殺されるまで

少し話が逸れるが、私は今年で演劇活動11周年を迎えた。
小6のとき、初めて「劇団夢への架け橋(以下:夢架)」という児童劇団に参加してから、舞台に立つ快感に取り憑かれ、ずるずると今日まで演劇を続けてきた。
夢架が活動休止してからも、地元沼田にある「田舎芝居わら座(以下:わら座)」で役者を続け、将来の夢は大女優だった。沼田という田舎で本格的に芝居をしている人はほぼおらず、”みずだけ豆太”だから出演して欲しいではなく、”できる人がいないから”出演して欲しいという状況にずっと身を置いてきた。わら座自体も若い人は私ししかいなかったし、そもそも田舎など、若くて活気があって、多少動けて歌えれば誰でも地元スターだ。
だから私はもうそりゃ鼻高々の天狗だった、井の中の蛙だった。才能があると思っていたし、例え大女優で売れなかったとしても、演劇は続けていくだろうと高を括っていた。大学は東京に出て、演劇の大学に行って、演技とスタッフの仕事を学んで、わら座の大人たちみたいに自分でスタッフ業務ができるようになろうと意気込んで東京に出た。

4年かけて崩れていく、折れていく

結果、私は4年間演劇に殺された。

桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修。創設者は青年団の平田オリザさんである。
私が進学したこの大学は、大きな授業公演(OPAL)の出演者は全てオーディションで、私は1年に3回ほどあるオーディションで、4年間一度もオーディションに受からなかった。
劇場を自由に使うことができ、学生団体として1年に20団体近く公演がなされるが、私が出演者としてオファーされることはなかった。正確に言えばあったのだが、自身の自尊心により出演することはなかった。

周りの子たちは本当に上手い子ばかりだった。芸能事務所に所属している子もいたし、大学外でとても活躍している子もいたし、常に出演者として学内の公演で名前を見ない日がない子もいた。そして、何より皆役者として貪欲だった。出演がしたいから、スタッフはやらない。出演がしたいから、外のオーディション受ける。出演がしたいから、自分で学生団体を立ち上げて出演をする。とてもとても貪欲だった。
私はというと、先生や先輩たちの言う「役者はスタッフのことも知っておかなきゃ。」という言葉を真摯に受け止め、1年生の時はスタッフに徹しようと、なんでもやった。2年生になったら役者をやろう、今は勉強期間、真面目に演技の授業受けて、スタッフ続けていれば私のことを見つけてくれる人いる、そんな他人任せの思考で、出演に関してまるで貪欲ではなかった。
先でも述べた、一度出演のオファーがあった時、当時2年生だった私は、「スタッフで小屋入りが決まっているものもあるし、やれるならやりたい」と返した。それに対して相手は「やれるならやりたいじゃなくて、やりたいって言葉が聞きたい。役者やりたいんでしょ。半端な気持ちなら受けなくていいよ。」と返した。私はその言葉に本当にどきりとした。
1年間スタッフに従事していたことが功を奏し、スタッフとしての需要は大分高まっていた。いつの間にか、私はスタッフとして大学内で認識され、先々の予定も全てスタッフとして埋め尽くされていた。才能ある同世代の姿を目の当たりにし、1年の頃から役者としてオファーされいてる姿を見て、自分は出演者として必要とされていないんだということをビシビシと感じていた。大学内の悪いところでもあるが、同世代だからこそ「あの役者下手だよね」「スタッフに敬意がない」といったスタッフからの役者への冷たい視線も多く見てきた。だから、そのオファーが嬉しくもあり、私なんかが出演をしてスタッフをする他の学生に陰で何かを言われることが何より怖かった。そうして半端な回答をしてしまった。結果的に、大学で舞台に立つという私の覚悟は決まらず、そのオファーは受けることができなかった。

スタッフを長く続けていると、そのうちチーフとしてオファーが来るようになった。私が特に専門的に取り組んでいたのが制作で、とにかく大学内の制作人口が少ないこともあり、制作としてのオファーは山ほど来た。自分のキャパシティなどを考え、どうしても断らずを得なかった公演もあったことがとても心残りではある。そうして、私は制作の人として大学内で過ごすようになった。
しかし、さすがにこのままじゃいけないと思い、当時お世話になっていた山の手事情社という劇団のWSによく足を運んでいた。主宰の安田さんがとにかくイケオジで大好きだったとう下心もある。そこでも私は自分の力のなさを痛感した。上手くいかない、できない、そんなことばかりだった。そしてある日、WS担当のKさんと全てのプログラムが終わった時にこんな話をした。
自分が出演者をしたいのに、本当に演技が下手だから、周りの目が怖いこと。誰かに違う自分を演じている姿を見られるのが恥ずかしいこと。やりたいと思うのに、自尊心が邪魔をしてどうしてもできないこと。
それを聞いてKさんはこう答えた。
「今回の姿を見てて、前回の自分から殻を破ろうとしているんだろうなと思った。みずだけさんは地に足が着いていないんだよね。で、多分その考え方は出演者として向いてないよ。」

私の心はぽっきり折れた。ずっと役者として何かを掴みたくて足掻いてきたけれど、自分のこの考え方は捨てられない、それを変えられないのなら、私は演じる資格がないのだと。
出演をしたい、そう思うけれど、私にできることはスタッフに従事することだけなのだと思い、その後はひたすらスタッフとして小屋入りの予定を詰め込みまくった。

大学3年の時、新型コロナウィルスによりパンデミックが起きた。
それにより、先々まで埋まっていたスタッフとしての仕事も全てとんだ。
授業はオンラインになり、授業後に大急ぎで仕込んで行っていた公演がなくなって、ありえないくらいとにかく時間ができた。あ、私こんなに暇なの初めてだ。やっと休んでいると思った。
昔父に、中高の頃も部活をしてから演劇の稽古に向かい、土日などもいろんな活動に勤しみ、隙間があれば家業の手伝いをしていたため、「やることが多すぎから、それを消化しているだけで、一番の思い出ってないでしょ。」というわれ、ぐうの音もでなかった。私は暇があるととにかく予定を詰め込む癖があり、暇が嫌いな性分だった。いろんなことをやったが、特別思い出に残っているわけでもなく、思い出そうとすると頭が真っ白になってしまうほど、日々を消化して過ごしている。
だから、緊急事態宣言が出たとき、大学で演劇を始めてから、やっと自分に向きあう時間ができた。

私は本当に演劇が好きなのだろうか。その疑問にずっと立ち返っていた。
ただ仕事をするのが好きなだけではないか。
演技は今でもやりたいのだろうか。
親に出演する姿を見せたいけれど、就職して欲しいって気持ちもわかる。
悶々と、悶々と、ずっと考えていた。
そんな中、8月にPARCO劇場オープニングシリーズ、作・演三谷幸喜の「大地」という作品を見た。
その時の衝撃はこちらに→https://note.com/mizdake3/n/nc91fdd0f8402
私は自分が腐っていたことに気づかされた。
出演とか、スタッフとかそんなことはどうでもよくて、私はあの空間が、演劇が、好きなんだと思い出した。

4年経ったらわかっていく

そこからの私は、もう出演に未練がなかった。
今私にあるのは制作としてのスタッフの力、演劇を作りたいから、私は制作として場を作る人材になろうと覚悟が決まった。

大学3年の冬、加藤さんが配信で見て下さったゼミ公演があった。
これは、一人一人が自分史を語り、要所要所に当時流行った歌やダンスといったアクションを挟む、自分の人生を舞台にした作品だった。私はそこに「みずだけ豆太」として参加をして、役者として肩肘を貼ることなく、のびのびと舞台上で自分の人生を振り返った。
まあ、実際はスタッフからの「役者様」という言葉を聞くのが怖くて、とにかく一人一人に差し入れしたし、敬意も挨拶も絶対忘れず、仕込みもバラシも、配信の制作スタッフとして活動した。舞台に立っていない間の方が、人間関係を考えよっぽど緊張した。
私の大学での出演はそれっきりとなり、あとは制作として、外部の当日運営にも多く携わった。

大学4年、無事就職も決まったが、演劇をすることは諦めようと思わなかった。大学内の制作は、当日運勢要素が強く、稽古場作りもほぼしなくて、劇場内にいることがなかったため、自分も一緒に作品を創っているという意識はとても薄かった。
私はそれが寂しくて、プロデューサー的な意味の制作にいつかなろうと考え、今の職場に落ち着くに至った。
自慢したいのは、演劇の授業を誰よりも真面目に受け続けた結果、首席で卒業したことである。

演劇を嫌いになってまた生かされるまで

加藤さんからのオファーが嬉しかったのは、こういうことである。
私が、出演者として真に必要とされていることがどれほど嬉しかったか、他のものにはわかるまい。しかも、出演者20名のうち、その時点で決まっていなかったのは、唯一宮澤比呂美だけ。、加藤さんが、頭がハゲるほど悩んだ結果、私に白羽の矢が立ったのだ。
やりたい、もうほんとやりたい、すべてを投げうってでもやりたい。でも、だけど、物理的な問題が、私は新潟、場所は群馬の太田、休みも取れる気がしない。あ、詳細聞いたら更にやりたくなった、アーツカウンシルってこれ大学で勉強した奴、あ、もうほんとやりたい。
駄々洩れの感情を押し殺して、冷静に加藤さんに返信をして、私は早速支配人に相談を持ち掛けた。あまりにもあっさり支配人から許可が下りて、逆に拍子抜けした。え、本当にいいんですかと何度も聞いてしまった。

あとは私の気力の問題である。
働きながら、通うのか。週2回、新幹線を使っても片道3時間。稽古回数、思ったより少ない。現代口語演劇、やったことない。やりきれるか、ぶっ倒れないか。
否、ここまでお膳立てしてもらって、やらない選択肢などあろうものか、いや、ない!!
こうして、私は宮澤比呂美として、小医癒病に参加することなった。

強者ぞろいの顔合わせ

顔合わせより前に、劇場下見があって、そこで初めて加藤さんにお会いした。やはり只者ではなかった。
共演者の香さんが劇場前でうろうろする私に声をかけてくれた。その優しさ、コミュニケーション能力、只者ではない。
一緒に久保田さんもいらして、舞台上での発声、さすが只者ではない。
制作の嶋村さんは今回が初めての制作だという。それでチーフを引き受けるとは只者ではない。
舞台美術の濱崎さん、大学のOBにあたり、もちろんこの方は只者どころではない。
改めて、既に顔合わせが緊張する日となった。

顔合わせの日、よく覚えている。
いざ顔合わせに行くと、最初に話しかけてくれたのは滝川さんだった。滝川さん、もうオーラが違った。宮澤比呂美の出身大学まで覚えている、只者ではない。.
高校卒業ぶりに中村さんに出会った。「頼むよ。」といわれ、正直日和ったが、憧れの中村さんと一緒にできること、只者ではない方の横に並べる喜びを嚙み締めた。
夢架の最後の公演ぶりに、はるきに会った。私と身長が同じで、声の高かったはるきは、すっかり大人になっていた。只者ではない。
ともちがたまたま隣に座って、この日初めて出会った。とんでもねえ美人だ、只者ではない。

他己紹介ゲームが始まって、一通り読み合わせをしながら、他の皆さんのただならぬものも感じた。
初っ端、壮成から始まった。あ、こいつ同族の匂いがすると察した。正直第一印象は悪かったが、只者ではない。
なほち、この座組で最年少10代、その度胸只者ではない。
しのさん、関係ないけど大学の同期にめちゃくちゃ似てる、雰囲気も声も、只者ではない。
ゆうなさん、会社がリストラで職を失ったばかり、既に人生が小説より奇なり、只者ではない。
木田さん、すたりあ倶楽部主宰、すごい演劇やってそうな人だ、只者ではない。
真ちゃん、読み合わせの時の極自然な読み方、すごいうまい只者ではない。
根岸さん、演劇経験がかなりある、大ベテランだ、只者ではない。
亮佑さん、パートナーへの絡み方がえぐい、というか眼鏡で前髪上げてるの只者ではない。
栗原さん、超大人の女来た、スタイル良すぎ、声が良く通る、只者ではない。
荒井先生、もう絶対演劇界の重鎮だ、只者ではない。
つるこさん、可愛い、え、30代??え、現役看護師なの、只者ではない。
酒巻さん、宣材写真が超かっこいい、そう解釈するのか面白い、只者ではない。
聖二さん、元お笑い芸人、雑学王を下した男、ポテンシャルが只者ではない。
監修の鈴木先生、一番役者かと思った、医者ってあんな感じなんだ、只者ではない。

驚きの連続というか、自分がやはりそこにいていいのだろうかと思うような強者がそこには揃っていた。演技ができない自分が果たしてここでやっていけるのか、正直不安と緊張で押し潰されそうだった。

外様かもしれない

稽古を重ねていくうちに、仲良さそうに話す人たち、久しぶりの共演を喜ぶ人たち、自分以外はみんな知り合いがいるようで、なんだか疎外感があった。もちろん、自分が仲良くなるように話しかければいいだけなのだが、稽古場にはいつもシンっとした緊張感があって、私はその空気にあまり馴染めずにいた。
そもそもが、新潟から通う私は、誰よりも早くきて、誰よりも早く帰る。話す相手は大体加藤さん。群馬県の共通の話題を持っているわけでもなし、ユニット稽古のため毎回全員と顔を合わせるわけでもなし、何かを察する能力もない。あ、これ山城先生と同じ外様みたいな感覚だと思った。
もちろん稽古は楽しい、作品を創る渦中に身を置いて、演出の意図を汲み取り、何が面白いのかわからなかった台本がだんだんと色や形を整えていく、演劇を作るってこんなに楽しいのかと感動した。通うのは大変だし、疲れるし、眠いし、でも一度も来たくないと思うことはなかった。ただ、最後まで一人外様のままで終わるのは寂しいなと思っていた。

大学みたいに、スタッフが十分いるわけではないから、演出部的な役割ももちろん自分たちがする必要がある、舞台監督を兼ねる久保田さん、演出助手を兼ねる木田さん、ご自身たちも仕事があってお忙しいだろうに、いつも気にかけてくれていた。私は大学でスタッフを学びながら、そういったことに全く気を回すことができなくて、とても悔しかった。私何のためにスタッフ学んだの、何もできてないじゃないかと、ただ大人の人たちに「いつもありがとうございます」ということしかできなかった。私より年下もいる、私より年上で大人の人がたくさんいる、私は真ん中の立場として、年下の子たちにもっといろいろ教えてあげるべきだったんじゃないか、大人の人たちから仕事を回してもらうべきだったんじゃないか、演者としてここにいながら、思考はやっぱりスタッフの方へと流れて行って、きちんと出演者としての自覚が持てていないことにも、本気でこの作品に取り組めていない気がして、やっぱり外様だなあと新幹線の中で泣いた。

姉の呪い

さて、ここで話は大きく変わるが、私は4人姉妹の3番目である。ここで話したいのは、長女のことである。

私は、今回の舞台、実は本番1か月前まで家族に話せずにいた。
理由は明確、反対されるからだ。

大学まで演劇を続けるにあたって、決して家族がみんないい顔をしていたわけではない。就職をしてどれほど両親が安心したことか。
それにも関わらず、職場に無理やり頼み込んで、新潟から群馬まで週2回通って舞台出演しますなんて言ったら、確実に父は「おまえ途中で倒れて両方に迷惑かけるだろ、やめとけ」母は「本当にできるん?迷惑かける前にやめときな。」というに決まっている。(100%妄想です)
それがわかっていたから、ある程度稽古に通い、もう後戻りができないくらいの期間になってから、やっと両親に打ち明けることができた。まじでめちゃくちゃ緊張した。「実は今こんなことをやっているんだ…」実家に帰って親に告げた時、小中高と私のマネージャーのように送り迎えや手伝いをしてくれていた母は「絶対行く!」といってくれたが、父はやはり「まだそんなことやってるん」と微妙な反応だった。

私の3人の姉妹のうち、次女と末っ子は、何度か私の舞台を見に来てくれたことがある。妹に関してはただ親に連れられてただけだが、次女は握りこぶしくらいには理解がある。
とにかく全く認めてくれないのは、長女である。長女は私が出演する舞台を一度たりとも観に来てくれたことがない。

演劇の大学に行くと決めた時、長女は「大学に遊びに行くんだ。遊ぶために両親に金出して貰うんだね。」と大分きついことを言われた。
「両親は豆太に特段甘いよね。」と嫌味を言われたこともある。
今回の舞台も、長女に直接会う機会があり、一応知らせはしたが「仕事だわ」と一刀両断された。

これだけ聞くと、長女はまるで酷い奴だが、私は姉として長女を尊敬している。
例え、幼い頃、雨の中裸で庭に立たされたとしても、長女が投げたお菓子が地面に落ちて「食べな」といわれても、何をやっても、少し発言をしても絶対に怒られていて、それがトラウマになって安易に長女に発言できなかったとしても、2人きりになると気まずくて話せなかったとしても、私にとっては長女は家族で、絶対的存在だ。(多少脚色っぽく聞こえるかもしれない)

姉からすれば私は一生年下で、何もできない妹で、だからやっていることも認めてもらえないのは仕方ないのかもしれない。演劇以外でも何かを長女に認められたことtってないなあ、そんなことを思っていたら、今の私と境遇が全く似ている作品に出会った。
BE・LOVEで連載していた、「ちはやふる」という競技かるたの漫画だ。

※※※ここから下、最終回ネタバレ注意※※※

最終回で、主人公の千早は見事クイーンとなり、帰りの新幹線に乗るために駅のホームに向かうと、千早の姉、千歳が雪の降りしきる中ホームのベンチに座って千早を待っていた。千歳は千早がかるたをやることを全く認めてくれず、応援にすらきたこともなかった。でもその日、クイーンになった千早を「私の妹すごいじゃん」と泣きながら認め、その姿を見て千早も泣き崩れるというシーンがある。

”誰にでも、この人に認めてもらわないと意味がない核にあたる人がいる”

※※※ネタバレ終了※※※

その言葉を見て、私はようやくなにか腑に落ちた。
私にとっての核とは長女なのだ。
演劇は誰かに応援してもらうために、認めてもらうためにやるものではきっとない。でも、私がどれだけ素晴らしい作品に出演しても、満足のいく演技ができても、なんだか何かが納得いかなくて、ああもっと頑張らなきゃなと思っていた理由はここにあった。
これは私のエゴイズム。
私は長女に舞台に立つ私を見て欲しい。そして、ただ一言「面白かった」といってほしい。ただ、それだけなのかもしれない。

古い思い出に、姉に唯一認めてもらった記憶がある。
私が保育園生の頃、長女と一緒にお風呂に入っていた。その頃長女はお風呂でオリジナルの物語を語ることにハマっていて、その日は使い切った桃の葉のバスロマンの空缶を使って物語が始まった。空き缶を手に取り始まった桃缶太郎(?)、この缶をどうしようかと長女が聞いたので、「缶を半分にして、片方は桃缶太郎のゆりかごにしよう。」というと「頭いいね、そうしよう」と姉がいった。こんなくだらないことである、長女は絶対に覚えていない。なのに、私にとっては長女が心から私を認めてくれた瞬間で、今でも忘れることができない。

中村さんがこんな話をしていた。「一番大変なのは旦那さんの許可を得ること。今は機嫌がいいかなとかいろいろタイミング計って話してるよ。」長年演劇を続けてこられた中村さんの知らなかった苦労を聞いて、とても驚いた。そこで私は「私も、やっぱり姉妹の理解が得られないのが苦しいです。」といった時、「豆太、あんたはもう家族じゃなくて、理解あるパートナーを探す時だよ。」とアドバイスをされたが、やっぱり私の核は長女なので、私は長女に認めてらもらうまでは一生演劇を辞めることはできないだろう。

そんな話を別の共演者とした時、その人は家族がみんな応援してくれているという話を聞いて、核が姉と気づいたこともあり、なんだかいろんなことがショックで、帰りの新幹線は号泣した。

創作と捜索

そんな日々を過ごしながら、自分が外様じゃないと気が付き、研修医の絆が深まった頃、ついに小屋入りを迎えた。

小屋入りした時の私はそれはもう活き活きとした、久しぶりに照明を仕込める、舞台を仕込める、インパクトどぅるるるるる、楽しいったらありゃしない。濱崎さんの右腕になって、主治医とアシスタントのように次々と舞台をくみ上げていった。最早仕込んで帰りたいとレベルに有頂天だった私は、仕込み中は怪我しなかったのに、休憩のトイレでドアに指を挟んで血豆を作った。

照明にあたる、舞台に立つ、久しぶりの感覚で、もう大興奮でアドレナリンドバドバだった。普段の私であれば、セリフを忘れないか、あそこは練習通り動けるか、とんでもなく緊張するところ、今回は不思議と緊張しなかった。私は誰かを演じるのではなく、宮澤比呂美として舞台上で生きていればいいだけ。何かトラブルがあれば、舞台上で起こったように生きて行けばいいだけ。そう思って積み重ねてきたからか、今までで一番楽な気持だった。

「演劇は違う自分を演じることで、普段使わない筋肉を伸ばすのと同じように、普段使わない自分自身のストレッチである。」
と何かの本で読んだことがある。
みずだけ豆太として生活する中で、そもそも自分がなんなのか全くわからない。私は職場に行けばホテルマンだし、実家にいれば3女だし、好きな人の前なら恋する豆だし、苦手な人の前なら一層丁寧に動くし、人は人生の中で既にいろんな自分を生きている。
私はもとより感情に素直に従って生きているから、普段使っていない自分など存在しないんじゃないか。
だから、舞台上で全く違う自分を演じるとき、まるで段取りで、違う何かを演じることが苦痛だった。本来役者とはそうであるべきなのだろうが、演技は好きだが演じることが苦手な理由はここにあるのかもしれない。

その点、宮澤比呂美とは等身大の人間である。だってモデルがいるもの。研修医の前ではラフに過ごし、年上がいるときはきちんと敬語を使う、ただ生きている人間そのものだ。アニメや漫画のキャラクターのように決められた性格を演じなくていい、その場の状況に合わせて生きて行く一人の人間なのだ。
正直楽だ、でも舞台上でアンテナを張り続けるのは大変で、現代口語演劇の真の面白さを私はやっと理解できた。

宮澤比呂美に、この作品に出会わなければ絶対に気が付かなかっただろう。この舞台を創作をしていく中で、私はたくさんのものを捜索した。

演劇を好きでありたい

演劇が好き、演じるだけじゃなくて、仕込むのも、運営するのも、演じるのも、全部が好き。今回全部をやらせてもらえたからこそ、自分が本当に何が好きなのかはっきりわかった。

演劇が好き、じゃあ私はこれから何を作っていくべきだろう。
加藤さんに言われた、豆太は自分で作っていける力がある、正直まだ自分ではまだその力がないと思う。けれどやる。豆太はプロデュースして、仕込んで演じる、豆太の楽しい演劇を創るよ。

演劇が好き、きっといろんな形がある、これは私の演劇が好きな形。ここにたどり着くまでに11年かかってしまった。きっとまた考えが変わる日も来る、まあいいさ、今の私はそれでも演劇が好きだなと胸を張って言えるんだから。

演劇が好き、だから演劇は私を嫌いなままでいてほしい。振り向いてくれないから追いかける、わからないから追い続けるものでいてほしいから。もう満足したなんて、いいたくないから。
私に演劇をやる才能はない、ただ年数ばかり積み重ねているけど、それでいい。私のことなんて気にしない、いろんな人のいろんな解釈をされて、私も勝手に好きでいるから。

さあて、明日から、何をしようかね。

追伸

誰が誰でしょう
  • ともち、毎回送迎ありがとう、なによりも仲良くしてくれてありがとう。顔がタイプです、とても。絶対また一緒にやろうね。

  • 壮成、好きになるまで一番時間かかった、その代わり今は大好きだぜバディ。3年後の宮澤と外間をまた一緒にできますように。

  • はるき、8年ぶりの共演。演劇やっててよかったって心から思った。かっこよくなったのに変わってなくて、お前は可愛いまんまだなあ。

  • しのさん、いつもツッコミが欲しいところに来るおかげでボケ倒してごめんね、超楽しかった。いつか戯曲読ませてね。

  • 真ちゃん、言い辛かったこともたくさん話してくれてありがとう。うちら一生ズッ友だかんね!!!絶対ドライブしに来てよね。

  • ゆうなさん、自由奔放すぎる研修医のリアルお姉ちゃんで、稽古で絶対目を合わせて挨拶してくれたのがまじラブでした。

  • なほち、すっごく真面目で、一生懸命で、臆することなく果敢に攻めていくその姿勢、自分の昔を思い出した。20歳おめでとう。

  • 久保田さん、舞台監督を務めながらの出演、前日には別の本番と超大忙しの中、茶目っ気溢れて疲れた姿を見せないところ見習います。

  • 香さん、劇場下見の頃からリアル白衣の天使でいつも癒されました。人に安らぎを与えられるような存在に私もなりたいです。

  • 木田さん、演出助手として私が怒涛にいろいろ聞いたこともあったかもですが、いつも不敵なその笑顔が素敵な僕らのお兄ちゃんでした。

  • つるこさん、現役看護師として本当にいろんなことを教えてもらって、Twitterでもいつも心配してくれて、もしや私専属看護師の方ですか。

  • 聖二さん、仲良くなれたのが大分後半だったので、まだまだ話したりないです。ワムウのポーズ一生忘れません。

  • 栗原さん、劇中と違わぬプロフェッショナルなお仕事ぶりで、いつも助けられていました。母のような…は失礼ですね。

  • 亮佑さん、いつも気にかけてくれて、テクニック的なことも学ばせていただいて、演劇界を生きて行く術を学びました。漢字覚えました。

  • 酒巻さん、裏で踊っている姿が印象に残り過ぎて、ダンサーとしての酒巻さんを絶対いつか見に行きたいです。東京からお疲れ様でした。

  • 滝川さん、イヲちゃんの名付け親にならせてくれてありがとうございました。滝川さんの言葉遣いがとても好きです。

  • 根岸さん、二瓶さんと関われるのはかなりレアだったので、一緒に最初のシーン作り上げられて最高でした。いい突進っぷりでした。

  • 荒井先生、いつも誰よりも近くで役者を見ており、演出家でありながら、自分のキャラをわかった上の茶目っ気たっぷりで大変楽しい日々でした。

  • 中村さん、最初と最後のシーン、舞台上に入る役者を絶対に見守っている姿に、中村さんの愛を感じました。絶対また一緒にやりましょう。

  • ゆきさん、いろんなことに挟まれながら、大変ながら、最後までやりきってくださり、本当にありがとうございました。次回の微熱少年でまた!

  • 加藤さん、この作品に誘ってくれて、私に演劇を思い出させてくれて心から感謝しています。一人で抱え込み過ぎず、私達にもやらせてください。


「小医癒病」中医癒人大医癒世、Foever




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?