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「死は救済」という言葉についての個人的な考え

ヘッダーはかわいいポケモンです。かわいいね。

「死は救済」とネットスラングとしてよく書かれていたり、そのことで知り合いが憤っているのを見たので、個人的な考えをここに記しておく。

死は救いか、否か。この難問をあらゆる学者が、芸術家が、哲学者が、宣教師が、僧侶が、医者が、そのどれでもない世界中の誰かが、果敢に挑んでいる。ぶっちゃけそういう真面目な意見が知りたいなら、今すぐこの画面を閉じて図書館や書店に赴き、幾つかの本を手に取るべきだ。手に取る本は小説でもいいし自己啓発本でもいい。雑誌でも漫画でも児童向けの絵本でもいい。最近はAmazonなどで電子書籍も利用できるし、青空文庫はそういったテキストを無料で読めてお得だからそういうのをガンガン使っていけ。PRではないです。

その上で、私個人の意見を書かせてもらおう。ここは私のnote記事だからな。



いいよね?


書くよ?

私個人にとって、死は救済であるとか救済ではないとかは、わりとどうでもよい。なぜなら、そもそも人間の人生というものは「死」というものがついて回る状態がデフォルトであり、常に三歩先歩いたところに「死」が存在しているのをたまたまうまく躱せているだけだと考えている。

死そのものは人を救わないが、それを見た人間がどう影響されるのかはわからない。でも、確かに死そのものはそこに存在している。

周りがどんな助言をしようと、自分から「死」に近づく人間はどうやっても止められないし、離れようとしても逃げられなくて悔しい思いを抱える人も同時に存在している。

結局は、その場でたまたま脳というコンピュータの電源が入っていて、「自我.exe」が動いているだけなのだ。そこに身体から伝わる情報があって、記憶があって、感情がある。

脳という機能にとって、自身の死と他人の死は根っこから違うものだ。他人の死はアクセスポイントや通信が途絶えるものだが、自身の死は脳の電源そのものが途切れるのである。そして2度と復活しない。

ただそうである、というだけで、この事実への受け取り方は個人によって千差万別だ。他人が死んでも構わない、という人もいるだろうし、ある人物の死が己のアイデンティティを破壊するほど衝撃を受ける人もいるだろう。それと同じように、自分が自分の意思で突然死んでも構わない、という人もいる(精神疾患などの症状で判断力がバグってそうなる人もいるが、そうではないが自死という行為が常に選択肢にある人間も存在する。精神疾患、身近な人物やペットとの別れ、低気圧、物理的な身体の不調などによって脳にデバフが掛かっている場合は、Googleで症状を調べないで、それに合った病院やカウンセリングへ駆け込んでください)。

つまり、私にとってがそういう考えを持つ「他者」がただそこにいるだけなのだ。

だから、人間が生きていることの良し悪しを自分ではない「他者」が勝手に決めるのもおこがましいし、逆に自分自身だけで生きていることの価値を探さなければならないというルールもない。他者に生きる意味の探し方を頼ってもいいし、自分自身で追い求めてもいいし、生きる意味がなくても生きてていいし、生きる意味を探さないでもいい。

倫理や法律というものはあくまで人間という生物の居住空間を安定させるものであり、個人的な内面を束縛することはできないのだ、という事実だけがある。

それが社会にとって良い、悪いという話ではない。死が人間にどう影響するのかは未知数だが、それに影響される自分自身と、他人は全く違うものだ、という考えを持って、日々生きている。

目の前にたまたまそういう選択肢があって、私はたまたまそれを選んでいないだけ。でも、いつそうなるかは誰にもわからない(不慮の事故とか)。本当にそれだけの話。

無責任な考えだなと我ながら思う。けれど、「人が生きるか死ぬかはその人生の当事者にしかわからない」という前提を持った上で、私はあなたに「生きていてほしい」と願っているのです。無責任な願いだ。

色々書き込んだけど、上に書いているようにこの問題は色んな専門家の意見が本当に、本当に沢山あるので、色々見てみるといいと思います。というかこれを書いてる私もできた人間ではないので、というかインターネットのテキストをその場で深く信じる前に、一度立ち止まるのをおすすめします。

でも読んでくれてありがとね。

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