セカオワはまた始まった

 数年前によく聴いていたバンド、SEKAI NO OWARI。たまに聴いてはいたものの、以前よりは彼らから遠ざかっていた、今年、彼らは久しぶりにアルバムを出した。しかも2枚。「Lip」と「Eye」この2枚は一対になっている。私はアルバムが出たと知りレンタルショップにCDを借りに行った。そうしてiTunesに取り込んだ。2つ並ぶと、アートワーク、つまりCDジャケットも一対になっているとわかる。Lipがポップ、Eyeがダークという位置づけらしいのだが、確かにそう聴くとそうなのかもしれないが、表裏は一体であるとはよく言ったもので、2枚とも、両方の局面をもっているアルバムだ。

 そもそも、セカオワという存在自体がそうだった。聴きやすい声のボーカル、どうしても目に付くピエロ、鍵盤と女性の存在、編曲等多彩な才能をもつNakajin。そんなポップさを携えていながら、世界の終わりを名乗る。だがそれが、一度堕ちた世界の終わりからまた始めようという意味合いだと分かれば、それさえも非常に彼ららしいし、ネガティヴそうな名も前を向けたからこそのものだと分かる。だからこそ彼らは、既存の枠にとらわれることなく、時に敵も作ったかもしれないが、色んなことに挑戦してこられた。インスタントラジオの歌詞を思い出す。「世界が終わって生まれたMelody」は「PopでCuteなセカオワMelody」だった。世界が終わって生まれたメロディーは今日も、誰かの世界の始まりにそっと寄り添っている。

ボーカルの英語が上手くなったのも良い。ANTI-HEROをリリースしたころに、英語の勉強をしていると話してはいたが。それがこうも功を奏し耳に馴染むとは。いやはや。

 彼らの曲には大きなタイアップのついているものも多い。RAINも当初テレビで歌っているのをみたときは、ポップな曲を歌っているという印象だった。だが、ここまでちゃんとシングルをアルバムに落とし込めるのかというくらい、アルバムに入り込み過ぎている。この曲に、こんな役割や力もあったのかと驚いた。何より、それを演出等含めポップにみせていた彼ら自身が、楽曲のことを本当によく知っているのだとわかった。明るく聴こえたり不意にメロディーが泣いているように聴こえたりする。それはどちらもきっと正解で、雨は虹をつくる。温かい気もちにもなるし、泣きそうにだってなる。擽るピアノの音に耳を預く。

 2つのアルバムの良さを語ろうと思ったけれど、私の中では未だあまりにも曖昧だ。ただあの時、アルバムたちを聴いた時、セカオワがまた始まったと思った。忘れかけていた彼らの音楽が、私の中でまた、切れるほどの息を、終わらない溜め息を、そこにあるべき言葉とメロディーを、鳴り響かせた。寝るのが苦手な私を、音楽の世界へ連れて行ってくれた。そのお陰で、幾らか楽に眠ることができた。

 Lipの1曲目、YOKOHAMA blues 。この曲に含まれる切なさ、強さ、弱さ、儚さと情。そのすべてが2つのアルバムを物語っているのかもしれない。なんて、語り切れないのは掴み切れないからだ。認めるのは情けないばかりだが、音楽はそうあるべきでもあるから少し嬉しい。聴きたいときになんとなく、何度も聴いたのにまだ何も明確じゃない。それなのに感情は揺さぶられるし確かに好きだとも思う。だからまた再生ボタンを押す。私の大事な時間を、その曲に捧げたいと思う。こんな純粋な音楽体験がまたできるなんて、生きているのも悪くない。それが彼らの不思議な魔力と青さによるものだと、気づいても気づかなくても、音楽は面白い。だから結局やめられない。


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