消費者は生産者を知るべきか

 いかにも「今から農家の方々の苦労を話します」とか、「道の駅で売っている野菜に農家の方の写真が添えられているのを見たことがありませんか?」という書き出しで始まりそうなタイトルを付けたが、第一次産業について語る授業をする訳ではない。生産者と消費者というそれらしい言葉をつかったのはそれらが大義的だからである。

 つまり何の話がしたいのか。それは、様々な分野において作り手(生産者)の意図や性質を、受け取る側(消費者)は知るべきなのか、という話である。

 ここでは私の関心により、音楽の話をしていく。多くの人は、好きな曲を聞かれてもパッと答えられないくらいには、好きな曲というものがこれまでに沢山存在していることだろう。私はオタク気質で深入りしてしまうタチなので、ひとつ好きな曲ができるとその歌手の他の曲を知りたくなる。これもまぁ珍しいことではなく、そんな人は多いだろう。そこからその歌手の色々な曲に触れて、ファンになっていく。存分に愉快なことである。
 ただ、数多くのヒットソングがそうであるように、そこで注目されたからと言って、他の曲すべてが支持される訳ではなく、流行った1曲を残していなくなる歌手も多い。だがそれが必ずしも悪ではないように思うし、その歌手に興味がなくても、曲を好きで聴く権利は誰にだってある。
 色を例に考えてみてほしい。ひと口に黄色と言っても、レモン色があり山吹色があり、もっともっといっぱいの黄色がある。色を見て綺麗だと思った時に、その色の名前を知りたいと思うのも自然だし、知ってなおその響きや出会いに感動することだってある。ただ、最初の、なんだか綺麗な色だなぁ。という感動もしっかりと尊いものだ。そこでその色をもっと見たい、知りたいと思えば足はそちらに赴くだろう。だが、綺麗だった。それだけで充分でもある。
 つまり、この曲好きだなと思ったなら、それはそれだけで事足りて完結する事象なのだ。作詞曲者がどういう心理状況で作ったのかとかは、知りたい人だけが知ればいい。そして知り手はそのエピソードを、そっとしまって宝物にでもするといい。
 私は曖昧なものが好きだし自分なりの解釈で今まで生きてきたから、きっとこの曲はこういう意味だ、とか、押し付けられるのがどうも嫌いだ。作詞曲者本人のインタビューとかは気になり次第読んで宝箱に詰めていくタイプだけど。私の好きな人たちは受け取る側の自由を尊重してくれるから助かる。まぁ結局、だから長く付き合っていられているのだけど。
 音楽というのは不思議なもので、いや、文学だって建築だってアートだってそうなのかもしれないが、音楽というものは、単純で難しくて、それでいて自由だ。曲を聴いての第一印象、歌詞を紐解いての第二印象、アーティストを知っての第三印象等面倒なしがらみのチャンスが幾つも重なっている。気付かないうちに絡め取られて逃げ出してしまうことも多くて悲しい。「曲に罪はない」というあの言葉が本当なら、私は一体今までどれほどの数の曲を傷つけてきたのだろう。なんて。

 作り手を知りたいと思うのは普通だ。でも知りたくないことだってある。同様に、作り手にだって権利はあって、伝えることも言わないことも、消費者への優しさだったりする。
 数学の証明問題みたいに、というかもっと難解な、答えはわかっているのにまだ証明し切れていない方程式みたいに、なってしまわないでね。国語の問題みたいに、結局採点されるのもナンセンス。私には私の答えやら正義やらがあるのだから。だからねぇ、すべての創作物はちゃんと、そこに自立していてね。それらを結び付けるのは仕事じゃなくて高貴な遊びなの。だから、その結んだ紐で、誰かの首を締めたりしないでね、絶対に。生産者と消費者は利害が一致していればそれでいい。そして消費者と消費者だって、分かり合う義務なんてないのだから。

 我が家の米を作った人はどんな名前でどんな顔かしら。知らなくても炊きたてのご飯はおいしい。だからこそ、覗いてみたいと思えるの。贅沢でしょう?掬い上げる箸を作った誰かがどこの馬でも骨でも、私は我が家にあるものたちが好きよ。私の半径数メートル以内のものに関わった人たちがそれなりに暮らしているといい。その人たちの不幸なんて私には関わりがないけど、でもなんとなく、そんな気持ちになったわ。

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