死にぞこないの青/乙一(著)

    私はこの物語の登場人物の誰にでもなり得るのかもしれない。そう思った。だけどやっぱり、マサオのように弱くはなれないし、彼のように強くもないのだろう。

 なんてことのないようなきっかけから、クラスのはみ出し者になってしまったマサオ。先生はマサオという機能を教室に作り出して、自分の評判を保とうとする。そこにあるのはわかりやすいじめではない。だから誰もが見過ごして、時に少し悪いと思っていても、笑って誤魔化して、それに慣れていく。不当な扱いを受けている本人でさえ、自分も悪いのかもしれないと思ってしまう。

 そんななか、マサオは、実体のないアオの姿を度々見かけることになる。マサオは、アオが自分の作り上げた存在だろうということに、いやにあっさりと気づき、それを受け容れる。歴史の授業で習った、えた、ひにんのような最下層の扱いを受けて、今までの学校生活とのギャップに苦しむことになるが、その割には、ずっと冷静に自分を分析し続けている。不当な扱いについては、自分の目を誤魔化しているけれど、アオという存在の分析については、とても冷静である。だからこそ、この物語はリアルで、自分の学生時代の風景を思い浮かばせる。教室とはどういう空間であったか、それは職場という空間とどのような差があるのか、あるいは同じなのかについて、考えさせられる。

 家族を心配させたくなくて、今まで通り接してほしくて、情けない姿を晒したくなくて、学校での問題を打ち明けられずにいる。徐々にその痛みは家のなかにいても襲ってくるようになって、苦しくたって、笑っていなければいけない。先生はきっと正しいはずで、僕がだめな生徒なんだ。そうやって自分を散々追い詰めた結果、唯一の味方であるアオと出会った。見た目は奇妙で怖いけれど自分のために怒ってくれる、どこか親しい存在。僕には抱いたことのないくらいの憎悪をもっていて、それでいて紛れもない僕の一部。そんなアオに暴走させられつつも自制する。マサオは、アオのなりたかった姿で、同じくらい、マサオにとってのアオも大切な存在だった。

 アオはマサオがいることで優しくなれたし、マサオはアオに会えて、感情の波を自認できたからこそ、生き続けることができている。アオがマサオの一部であれるというのはそういうことだろう。アオが姿を失ったということは、マサオが体内に彼の住処を作ることができて、また少し、強くなったということだ。

    暗黙の了解は、この社会に数多存在する。家族という最小の社会の先にある、学校という社会では、未熟ながらにしてそれに巻き込まれることは多い。そして、そういった人間関係におけるいざこざを経験しに行っているような感覚すら覚える。私にも、罪のない同級生のことを、なんだか気に食わないという目で見たことがあったかもしれない。先生が生徒に暴力を振るうようなことはなかったが、からかうような扱いをしていたことはあったような気がする。当事者ではないから、その記憶は曖昧だけれど、そのようなことはこの令和の時代にもたくさん存在していることだろう。

 自分のなかにある負の感情と向き合って、外の問題とも向き合って、ぎこちなくなっていた相手と以前のように笑い合う。私は、そんなマサオのようにはなれないし、なれなくてもいい。一度離れた相手と向き合うことは、できないかもしれない。でも、それでもいい。私には、私の生き方がある。離れたくない相手とは離れないように努めるし、離れてしまったときには、十分に悲しんで、滅多に開けない倉庫にしまいこんで、関係を諦めることができる。それは逃げなのかもしれないけれど、20余年で身に着けた、自分と戦う戦略だから、私はそれでいい。誰かに好意を抱いた分誰かを憎んでも嫌ってもいいけれど、人を傷つけることと、感情を諦めることからは、疎遠であり続けたいと思う。自分のわからないを認めて尋ねたり、痛いと声に出して言えるようになったり、いつかそうなれると、美しいのかもしれないね。

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