初めて落語をみたよ。的な

 昨日の話は昨日のうちに終わらせろって天は言うけどね。兎も角、今日は落語の話をしようと思う。別に詳しい訳でもなんでもないから大目にみてくださいね。今夜も出かけるので元気ならまたお話しましょう。

 先ずご丁寧に説明すると、私は昨日、縁あって初めて落語というものをちゃんとみた。ちゃんとの基準は知らないが。以前から分野としても、また、興味のある噺家がいることからも一度面合わせておこうと思ってはいたものの腰はえも知らぬ重さを放っていた。そんなところでのご縁だった。気味の良いことに、最近読んだ本でも少し落語について触れられていた時分。

 落語についての知識は浅いもので、また、現在も尚その通りだ。そして私が昨日その分野にハマったのかといえばノーという答えに行き着くのかもしれない。が、存在の面白さを知り得たというのは、不確かな否認より幾分も素直な事実だ。

 大きく、サゲの話と死の話をする。まずは後者、死の話から。

 笑点の司会者と言えば歌丸師匠という時代に生きてきた私。彼が亡くなったときに、俗に言う笑点メンバーは、悲しんだだろう。だがしかし、彼らは笑っていた。それは彼らが強いからとかそういう暴論では片付けられない。野暮な話は承知で書くが、彼らが少なくとも舞台上では笑っている、死をも笑いに昇華して弔っているのは、彼らが噺家だからだ。と思う。ここで、落語に触れた話に戻る。私のみた落語の世界では、人の死がタブーとして扱われることなんてなく、あいつは厄介な奴だった。と、死を受け容れて皮肉を以て弔われていた。人の死に関わるのが長寿により減るのは悪いことではない。だがそれが悲しいからと変に隠したり忘れようとしたり、泣かなければならないものとしたりするのは、正しいことではない。勿論、悲しければ泣くだろう。それも良い。それを経て、その人の死を、それまでの偉大だったり下らなかったりする人生を、如何に憶えていたり語ったりできるのか。その馳せる時間こそが敬愛なる誰かへの弔いだ。と。

 ではもうひとつ、サゲの話。サゲとは、漫才やコントで言うところの大落ち、つまり、やめさせてもらうわ、どうもありがとやしたー。の前の、最後のボケのこと。落語にはサゲがある、らしい。が、これは必ずしも誰しもを笑わせるような立派なものではない。実は私は落語のサゲのような小ボケも好きなのだがそれを言うと話が絡まるので置いておいて。サゲは冷めるから要らないんじゃないか?と言う、落語好きもいるけれど、私はあったほうがいいと思う。落語には大したオチも教えも学びもない。と話に聞いていた。落語の世界は日常と地続きのそれのようだったから、なるほどなと思った。その、日常のひとコマを演じているから、わかりやすく終わりを伝えるチャイムがあるのは、私は良いと思う。チャイムとはつまりサゲのことである。この、終わったよ。の感じと、でもこれからも続いていくんだろうな。と、私だって別に肩肘張らずに。が共存する場所には線香の匂いのような懐かしさや安心感があった。最も、落語好きはどこで落語が終わるかわかるんだよ。サゲなんてなくたって。と言われたら締まるものも締まらず、返す手立ても御座いませんが。

と、真似好きで終わっておきたかったのですがおまとめを。人には死というサゲがあり、それまでには人生があり、そこからも世界は回っていく。同様に、落語には内容があってサゲで噺家は演じ終えるけれど、その主人公、私の人生はまた、死というサゲまで続いて、、、そしてまた器用に、私の死までも誰かの演じる人生の一部。となるようにござらぬ。

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