おいしくるメロンパンのライブレポ風味感情論

 おいしくるメロンパンというバンドのライブに行った。彼らのライブに行くのは数回目だが、毎度感動する。しかし、今まで好きなバンドやアイドルの名だたるライブ(?)でも泣かなかった私がライブをみて泣いたのは今日が初めてだった。

 さて、きっちりバンド名まで出して、今からライブレポートでも書くのかな?それなら、このバンドが好きだから、ライブに行ったから、読んでやろう。と思ってくれた方には申し訳ないが、今から書くのはライブレポートを匂わせただけのただの感情論である。

 私はおいしくるメロンパンの曲を数年前から聴いていて、数回ライブに行っている。ちゃんとそこそこ好きなちょっとしたファンのひとりだ。私にはこれまでにもっと好きなバンドがいたし、今この瞬間も私の好きなバンド第1位が彼らな訳ではない。

でもだからこそ、彼らに頼る義理なんてないからこそ、私は彼らの鳴らす音に救われることができたし、これから先、このバンドの音楽に縋ることだってできる。彼らの鳴らす音楽は彼らだけのものでも、私のものでもない。だけどそのどちらでもあった。

先に述べたようにこれはライブレポートではないから、ここからは私にみえた景色と聞こえた音と感じたことの話をしていく。

 折角、泣いた。という、ライブの感想としては余りにも安直で鬱陶しい語りをしたことだし、そんなこんなも交えながら。

 家から会場までのアクセスがよかった。とか、最近ライブハウスでの開演待ちの1時間も億劫に感じられる。とか思いながら定刻を待っていた。19:05、いつものポップなSEが流れ、やっとステージに現れたメンバーの3人。フロントマンの体型が以前よりは健康的に見えるな。なんて下らないことを考えていた。

 そして曲が始まった。そうだ、このバンドのライブはいつだって最高だったな。楽曲がそうであるように。と、舞台をみながら体でリズムをとっていた。ただそれだけだったのに、4曲目あたりでなんだか泣きそうになった。その時私の目に映っていたのはメンバーの姿だったけれど、脳内には同時に違う映像も浮かんでいた。もう何年間も閉じ込められている、白いだけで何もない部屋。そこにいる状況に寂しいとか苦しいとか、痛みさえ感じなくなっていた今夜、急に天井から一滴の墨汁が落ちてきた。私は白い床に滲む黒を眺めて、なんだか泣きそうになっている。そんな映像だ。でも舞台上の彼らは、今までにも生で見たことのあるバンドで、生で聴いたことのある曲を演奏しているだけでしかなかった。

 結局そこでは泣かなかったが、8曲目あたりで泣いてしまった。10回くらい泣いてやらないと思ったのに、6回くらい泣いちゃったけど、理由なんてないから可笑しい。

 曲を聴きながら、照明の色とそれに照らされるバンドをみながら、色々なことを考えた。例えばもう二度と彼らのライブをみられなくても、仮に私に肉体が存在していなくても。彼らが幻影だったとしても、これから先今日を思い出すことがたったの一度もなくても。「今ここでこの音が鳴っていることだけがすべてだ。」そう思えた。彼らに肉体が存在しなかったならその時音さえ鳴らなかったという当たり前とかも全部、その瞬間はどうでもよかった。

今までに行った大好きなロックバンドのライブ。その時に感じた寂しさとか憂いとか、自分の不甲斐なさによる痛みとか、その全部までどうでもよくなった。

 でも、辛い朝も最高だった夜もあったから今があるとわかっているから、生きていてよかったとも思った。走馬灯という曲があるけれど、本当に、勝手にそんなライブだった。今もこの足で踏んでいるのに全貌のわからない地球を、産まれてから初めて、目前に見たような気がした。

 見えた景色は彼らの一挙手一投足に留まらず、照明の色でさえも初めてみるものだった。そして聴こえた曲は全部が真新しくて、その一音一音が、どれを取っても初めて耳にする音だった。何度も聴いた筈だった。これからだって聴くだろうし、カメラだって入っていたけれど、もうあの時のあの音を聴くことはこの先ないだろう。そしてあの時私以外に同じ音を聴いた人なんていないのかもしれない。

 以前行ったライブで、フロントマンが「これからも音楽を続ける」と力強く言っていたが、現時点では見事に有言実行している。彼の表情や演奏、歌声からも、音楽という言葉通り、それを楽しんでいることが伝わってきた。それに私が喜怒哀楽とか苦しみとか嬉しさとか尊さとか、そのすべての感情を音に引き起こされている時点で、音楽はちゃんと楽しいのだ。個人的に今年は、自覚していたより音楽を愛しているんだなと気づくことが多くて、音楽元年とでも名乗ってやりたいような心もちだ。

 ライブの話に戻って、あのセットリスト。あそこであの秋とスクールデイズを演って、遠き山に日は落ちて、また新しい曲に戻っていくあの感じ。セッション然り演奏のひとつひとつが凄くよかった。

 フロントマンのMC、「音楽を自由に楽しんでほしい」、「4年間この3人でずっと、かっこいいと思うことだけをやってきた」、「これからもブレずに自分たちのいいと思うことを」。って、いいことばかり言っていた。それが言わなくても伝わっていて、調子のいいことだと思われていないのは、彼らがそれをちゃんと態度で示しきっているからより他にない。

インタビューで曲の詞について訊ねられて、説明できないから歌にしていると言っていたことがあった。今宵はちゃんと言葉にまでして愚直なMCだなんて言われていたけれど、でもやっぱりそれよりももっと確実に、彼らはいつだって素直に音楽に触れていた。

「自分の選んだものは誰がなんと言おうと」とも言っていた。自分の信じる限りそれは真実であり続ける。私もそう思う。そしてそんなことを言えてしまうのは、彼らが音楽を信じているからだ。彼らが音楽を愛していて、それに対して不誠実なことをしない限りは、音楽も彼らのことを裏切らないのではないだろうか。

 ツイッターで目にした、バンドマンの下衆い噂。下の世話は余計なお世話で、別に誰が誰をどこで抱いていようが、私には何ひとつ関係がない。

私は今夜あの場所に呼ばれたんじゃなくて、私があの音楽を呼んだのだと少し本気で思ったし、私の選んできたすべては、私にとっては今日も模範解答で正義だった。

 多々屁理屈を並べ立てたけど、ただの最高な夜だよ。なんだかんだ、またライブにも行きたいなと思っているし。それにしても彼ら、特にフロントマン、随分とバンドマンらしくなったな。なんて。

 バンドを追うということは良くも悪くも歴史を積み重ねるということだ。「自由にやりたい音楽をやることは当たり前のようで意外と難しい」そうバンド側も言っていたが、聴き手だって意外といつの間にか柵に囚われてしまっていたりする。だけどやっぱり、自由に音楽を聴き続けられたらいいな。

 そんなこんなで素晴らしい音楽や本や諸々を消化吸収しつつ、余生80年くらいならまぁ生きてあげてもいいよ。

読んでくれた方、いたならばありがとう。あっ、今夜流した涙、舐めてみると殆ど味がしなかったから、嘘泣きだってことにしておくね。ねぇ実は本当なんてもの、唯のひとつすらなかったりするのよ。破壊は創造だとか、現実は夢よりも不確かなのに、時に鮮やかに私たちを攫ってくれるものだとか。続く意味とか理由とか、それ以外のすべてとか。もっと、話したいことは沢山あったのにな。人生は相変わらず垂れ流されて、生活は否応なしに私の手を取って踊り狂う。だけど、いや、だからこそ、偶には委ねてみたっていいね。

じゃあね、バイバイ。また遊ぼうね。

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