誤隠居さん

    読んでいた物語に出てきた女が、行為の最中に辿っていたのは、私が仕事で子どもを学童に送り届けるのに使っている、都営の路面電車だった。その女が辿る道を、私はよその子を連れて辿る。女が男に置いてけぼりにされたあの駅も、私はよその子と一緒に通過する。
映画の冒頭に映る街並みが自分の知っている街になる。都内に住むというのは、ただそれくらいのことで、夜中や土日の昼に関西のローカル番組をみなくなるということで、お散歩番組でタレントが赴いた飲食店が身近にあるということだ。誰かの夢が現実になるこの街で、決して現実になりそうにもない私の夢は、また、夜の深くに消える。

 愛してもいない男に体を許しても、私はふわふわ気持ちが良いだけで、その先のリスクからは目を背けたのに、股から血が出ないと途端に怖くなる。来たらいつも煩わしくて、消えて欲しいと願う癖に。
私自身の体なのに、全身脱毛で下の毛をツルツルにしても良いものなのかとか、そんなことをインターネットで検索する。意外とそれはそれでいいとか、なんだか幼く感じて嫌だとか、そんな、どこかにいるのかすらわからない男の意見なんて、私の人生を左右するべきではない。だけど、そんな幻の男たちに、私は抱かれていたいのだ。

 現実にならない私の夢。それは抽象的には幸せになりたいとかそれくらいで、もっというと、憧れの誰かになってしまいたいというものだ。自分を上手に作れないからって、他人を欲しがるなんて、どうしようもない。恋がわからなくて、愛みたいなどろっとしたものを飲み込んだ。そうしたら、私は、私じゃないあの人に、なりたいと言った。あの人になれたらいいな。そんな戯言を、毎日言った。

 行為に対して受動的だった彼女が、少し雌になって、雄を憎んだ夜を、私はこっそり覗いている。それはただ、誰かの書いた文章を読むという行為だったが、一方で、そこは私の居場所だった。誰かの書いたものを読むこと、それくらいの関わり合いで、私の奥は疼いてしまう。文字に呼ばれて書き続けられたなら、書き続けられるのなら、私はそれだけでいいのかもしれない。わたしはただ、ここを居場所と信じて、それを必死で守っているだけだって、薄々気付いてはいたんだよ。あの人になりたいのだって別に、大して嘘でもないけど、多分それ以上には本気でもない。ここを私の居場所として、以てあなたを匿いたかった。だから書いたの。だけど読まないで。

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