やさしいひと

今でも時々考える。あの頃の私はファンタジーの世界に迷い込んでしまったのではなかったのかと。

夏の盛りから、冬の真ん中にかけての、ほんの数か月間の出来事。彼と私のつかの間の時間。

「急で悪いけど、明日私の代わりにテニスに行ってくれないかな？」

そんな誘いを受けたのは暑い夏、休みの前日の事。声を掛けてきたのは同僚の女性だった。

「え、そんな急に。どうしてですか？」

私の問いに彼女は、急用で行けなくなったけど穴を開ける訳にはいかないと言った。何人かに声を掛けたけど、都合がつかず私に白羽の矢が立ったのだった。

男性２人と女性２人でテニスをするらしかった。特に断る理由も無いし、暇だし、ラケットやシューズも持っていたので誘いを受ける事にした。

翌日、待ち合わせ場所に行くと３人はもう来ていた。初めて会う人達に少々緊張したけれど、彼が和やかにお互いを紹介してくれた。彼はがっしりしていて、人柄の良さが全身から醸し出されている。４人で少し話してから２台の車に別れてテニスをする大きな公園に向かう。

私は彼の友達の車に乗せてもらった。１時間ほどの道中、無難に話をし大きな公園に着いた。

そこは、テニスコートや屋外プールやシャワー室なども備えた大きな公園だ。

早速、更衣室に行き着替えた。もう１人の子は、話しやすくて助かった・・・と思った。あれこれ話しながらテニスコートへ向かった。

ダブルスで試合をする。お遊びと思いながらも、いざ試合となると一生懸命ボールを追った。久しぶりにテニスをし、大きな声を出してはしゃいだ。楽しかった。

併設されたレストランで食事をして、もう一試合。その後はシャワーを浴び、解散となった。

彼の友達がドライブに誘ってくれた。ドライブして、夕飯をごちそうになった。その後、集合場所まで送ってもらった。お礼を言って別れたけれど、ときめかなかったし、連絡先も交換しなかった。

これで役目は果たしたし、と思っていた数日後。会社に彼から電話が有り私にお誘いがあった。驚いたものの、これも断る理由も無かったので誘いを受けた。

今度もテニスだ。しかも２人で。

約束の日、自宅近くに迎えに来てくれた。ピカピカのかっこいい新車の助手席に乗る。今度は話も弾み、先日の大きな公園へはあっという間に着いた。

今度はシングルスなので、運動量も多くコート内を走り回った。疲れるけど、楽しい。彼はとても愉快な人で、私を笑わせてくれる。そうかと思うと親切で癒される。なんだか不思議な魅力のある人だ。試合をし、食事をし、今度は軽く打ち合いテニスは終了。

帰りはドライブに連れて行ってくれた。彼と話すのが楽しかった。こんなに笑ったのは久しぶりだと思った。

それから、度々お誘いを受けた。

テニスはもちろん、きれいな景色や夜景を見に行ったり、遠出したり。

そして、不思議な事に私が落ち込む事があると、必ず連絡が入るのだ。私がぽつぽつ話す事を一生懸命聞いてくれて、何を話すでもなく、背中をそっとさすってくれた。私はそんなさりげない心遣いが嬉しかった。

そんな彼の事を好ましいなと思うようになった。彼もおそらく私の事が好きだったのではないかと思う。

彼はとても紳士的な人だ。ドライブした帰り道、助手席で寝てしまっても決してどこかに連れ込んだり手を出したりしなかった。私が落ち込んで話をしている時でさえも、背中をさすってくれる以上の事はなかった。もし私が男なら、絶対に落とせそうなこの状況で何もしてこないのが不思議で、少し物足りなくもあった。

それでも、私達は楽しい関係を続けていた。

けれど、楽しかったこの関係も冬が来て終わりを迎える。

私に恋人ができたからだ。

彼になんて言おうか悩んでいたけど、その頃から今まで来ていた連絡がぷっつりと途絶えてしまった。姿も見なくなった。

いったいどうしたというんだろう。気になっていたが、そのままになってしまった。

私に恋人ができる前に、彼に好きって言えば良かったのだろうか。それとも、彼に言ってもらうように仕向ければ良かったのか。それは今も分からない。

彼は本当にやさしいひとだった。

もし、ちゃんと付き合っていたら。私は彼に甘えるばかりの我が儘で嫌な女になっていたかもしれない。だから、あの曖昧な関係のままで良かったのかもしれない。

やさしい彼から与えてもらうばかりで、こちらから何も返せなかったのが心残りだ。どこかで幸せでいて欲しいと思う。やさしい彼に笑っていて欲しいと思う。やさしい誰かと一緒に。

彼は本当に実在した人なんだろうか。もしかしたら、あの時だけ存在した人なんじゃないだろうかとさえ思う。精神的に不安定だったあの頃の私に神様が与えてくれた、つかの間の贈り物だったような気がしてならない。