割れたガラスのように散らばる記憶の断片を観察して、自分は安全であることを知る
ある人の言葉が心に刺さり、そのトゲトゲが抜けなくなった。何をしていてもふとその人の顔が浮かぶ。かき消そうとするともっと大きくなる。トゲトゲを見て見ぬふりしようと思うのに、ちいさな傷だと言うのにやけにじくじく痛い。そのうち、段々に私の体力まで奪い、顔は曇り、疲れ果てていった。
負のスパイラルというものはどこまでも続くもので、普段気にならないことが目につく。いろんな人のいいところが羨ましくなる。
あの子はたくさんの友達に囲まれていていいな。
弱音を吐いたら励ましてもらえるなんていいな。
この子はコミュニケーション能力があっていいな。
同じことをされても、きちんと自分を守っていてすごいな。私はいつもすぐ自分を責めちゃう。
自分責めは無意識のうちに加速していく。
「私、疲れているな。」
そう思って、スマホから離れることにする。
私たちは、情報によって感情をコントロールされてしまう生き物だ。知らなければ何の感情も湧かずにしあわせに生きていられることがたくさんある。
椅子に座る。
目を瞑る。
記憶の断片が、ぶわあーっと脳内を駆け巡る。
これだ、これに振り回されている。
記憶の断片は、割れたガラスのように散らばっている。
触れたら指先を切ってしまいそうな、鋭いものも落ちている。私はひとつひとつを拾い上げ、丹念に観察し続けた。そうするうちに、不思議なことに、渦巻いていた感情の炎は小さくなり、私を包んでいた憂鬱のベールはいつのまにかはらりと落ちて消えてなくなっていた。
ある友達の顔が浮かぶ。
私が「会いに行っていい?」と聞くと、いつも何にも言わず「待ってるよー!」と受け入れてくれる子。それがどんなに長期間であっても。
その子の顔が浮かんだとき、なぜか私は泣いていた。
マイナスの感情に囚われている時、してしまいがちなことがある。それは、「こんな愛がほしい」「こんな関係性の友達が欲しい」と、寸分違わず同じピースを求めてしまうこと。その形以外を受け付けず、「ない」と思ってしまうこと。
そして、気づいたことがもうひとつ。よく言われていることではあるけれど、SNSで垣間見える誰かの充実したライフスタイルは一面でしかない。そして、きっと、私も同じように見られている。ある友達に弱音吐いた時に「うりちゃんはいつも無敵だって思ってた!」って言われて、「そうだよね。きっとそう見えるよね」って。だって、疲れた時や落ち込んだときは、大抵お風呂入って寝ちゃうんだもん。発信にのることって、きっと稀。
私には、大切な友達がいる。大切に思ってくれる友達がいる。大抵の子はオンラインにはいなくて、リアルな場所での交流を大切にしている子が多い。なのに、オンラインでの色々なやりとりを見ていて羨ましくなってしまっただけのこと。
人にはそれぞれの良さがある。
いつもなら心で理解できていることが見えなくなる。
明日からまた、大切な友人のひとりに会いに行く。
うれしいなあ。
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