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私が写真という表現を選んだ理由

ひとつのものを見て、
そこからイメージを膨らませる。
どんな物語が流れているのか
どんなことを伝えたがっているのか
それを掬い上げて、世界観を表現できるような
ヴィジュアルに落とし込んで、伝える。
言葉を添えることもある。

そう言うことがとても好きで、
誰かに説明することもないほど
自然とやっていることなんだと
気付いたのは割と最近のこと。

それが私の強みだよ、と言われることが多いし、
当たり前すぎて気づかなかったけれど、
どうやらみんながみんなそんな風に生きてるわけじゃないと少しずつ理解してきた。

昨年のちょうど今頃、
鋭い視点をお持ちのある方と話す機会があった。
これまで私は
「絵が描けたら絵を描いていた」
と口にすることが少なからずあって、
それを聞いた前述の方に、
「じゃあ、どうして写真をやっているの?
絵は描けないけど、写真はカメラが撮ってくれるから?」
と突っ込まれたのだ。

そして、その人は、こう続けた。
「そこをよく考えてみて。
そこに、みゆきさんの宝物が眠ってるから」

今なら、分かる気がする。
私が、カメラという表現を選んだ理由が。

写真は、リアルだ。
そこにないものは写すことができない。
そして、例え、作り込みをして誕生させた世界であっても、やはり、リアルなんだ。

例えば、ここに、ひとつの指輪があったとする。
それを絵に写しとることは、もちろんできる。
だけれども、写しとったその絵を広告として使うことは、可能ではあるものの、難しい。
写真だとどうだろう。
そのものの存在の魅力を引き立てながら、
それを使う人のライフスタイルや、
その暮らしから感じる感触、感情、温度感、空気感を
表現することができる上に、
絵に比べて、やはり、リアルに近い。
見ている人は、リアルを感じると思う。
きちんと情報伝達としての機能を備えている。

もうひとつ例え話をする。
友達と旅行に行って、行く先々で写真を撮る。
帰ってきてから写真をSNSにアップする。
すると、一緒に行った友達はたいていこう言う。
「こんな場所あった!?」
「同じ場所を見ていたのに、違う場所みたい」
と。

この言葉は、本当に何回聞いたか分からないほどなのだけど、こういう場面で私がいつも思うのは、
「私に見えてる世界をそのまま撮っただけなんだけどな…」ということ。
この場合、演出をしたわけでもなく、
ただただ、自分が美しいと思った場面を、
素直に切り取ったにすぎない。
つまり、私の世界を見つめる視点こそ、
自分では当たり前すぎて気付くことの難しい、
才能なのだと知った。
ただ、私が見ている世界を絵に描いたとしても、
友達は上述のような感動を覚えることはないだろうと思う。

そこまで考えて、ある占い師に言われた言葉が思い出される。
「実質的な経済活動をしながらも、
頭の中はファンタジスタ」
なのだと。

私は昔からファンタジーの世界が好きなのだけど、
ファンタジーのどこが好きかと言うと、
自分のいる世界のすぐ隣に、別の世界があると思えること。

つまり、リアルをそこに感じれば感じるほど、
ファンタジーの要素を、「自分にも起こり得る」と
思えることに、私はドキドキする。

写真は、私の強みを存分に発揮できるとともに、
好みの世界を、ファンタジーの配合料をその時によって変えながらもリアルとして見ることができる表現なんだと、思う。

そして、私は、私の写真を通して、
その体験を、他の人に与えることができているのかもしれない。
あなたの見ている世界は、こんなにも美しいんだよ、と。
(これらの気付きは、自分の中だけを掘っていても気付くことの出来なかったこと。他者からの見え方、他者との比較により気づけたことだなあ。)

私はきっと、リアルとファンタジーの架け橋の存在に憧れているんだと思う。メアリーポピンズのように。

そして、憧れているだけでなく、(これを言葉にするのは戸惑いがあるけれど)実際、写真という表現を通すことで、リアルとファンタジーを繋ぐことができる存在、なのかもしれない。

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