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ユダヤ人としての私

私は、生まれも育ちも東京の、
正真正銘の日本人だ。
しかし、過去20年ほど、
ユダヤ人として、生活している。


ユダヤ人の夫の影響は大きいが
出会った頃、彼は他のアメリカ人と
外見も内面も、全く同じように思えた。


2回目のデートの時、彼に、
実は、僕は、ユダヤ人なんだ、
と言われた。


私は、それが何を意味するのか
よくわからなかった。


多くの本を読み漁り、
私は、ユダヤ教に
どんどんのめり込んでいった。


ユダヤ教について、詳しく語るのは
今は、控えようと思う。
あまりにも、膨大で、深い思想と
数々の戒律について
分かりやすく書く事は、
今の私には、不可能としか、思えない。


私は、リアルの生活では
ユダヤ人コミュニティの中で
ユダヤ人として生きている。
日本人は全く居ない。
日本語を話す機会もほとんど無い。


そして、Xやnoteの世界では
思いっきり、日本語で日本人としての
自分を発信している。


ありがたい事だと思う。


しかし、時々、
いや、かなり頻繁に、
2つのアイデンティティを持つ自分に
耐えられなくなる。


「安息日」になると、私は、
完全にユダヤ人で無ければならない
と思う。

ユダヤ教には、生活にリズムと、
それに伴う深い意味が存在する。
その代表的なものが
「安息日」という休息の日だ。


旧約聖書の創世記に、
神は6日間で世界を造り、
7日目に休息した、と書いてある。
それが安息日だ。


安息日には、仕事、家事などの労働は
一切禁止なので、
安息日の料理は前もって作っておく。
そして、
運転も、スマホ使用も、執筆も、楽器演奏も
固く禁じられている。


最近の私は、
ユダヤ教を緩く守っているので
安息日でも、Xにポストする。


noteも毎日投稿を決めたので
安息日にも書く事になる。


しかし、書けないのだ。

安息日の朝は
シナゴーグというユダヤ教の教会に行き
祈り、聖書について学び、
とても神聖な気持ちで、帰宅する。


スマホをオンにして
記事を書こうと思っても
気持ちが、執筆モードにならない。


戒律を守っていない自分を
心の奥底で、
戒める自分がいるのだろうか?


それなら、
安息日をきちんと守れば良いのだが、
それも出来ない弱い自分がいる。


ユダヤ教の1日は
日没から始まり、
夜の訪れで終わる。


私は、書けない自分を
無理やり日本人に引き戻すのを辞めて、
辺りが暗くなり
安息日が終わったのを確かめてから、
改めて、
スマホをオンにして
書き始めた。


今度は、
面白いほど
スラスラ書ける。


2つのアイデンティティが
私の中で、
何とか仲良く生きていけるように
今日も
そういう自分を
書き、
発信する。


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