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母のこと

2022年9月22日、91歳の母が介護施設へ入居した。

20代からキャリアを持ち、昭和一桁生まれの高卒の母は、某保険会社の下っ端から、所長、次長と進み、大きな実績を残し、富を築いた。

昭和20年代後半に故郷の九州から上京し、今で言う、生保レディとなった。東京に知り合いも無く、姉を育てながらの仕事は困難を極めたことだろう。

それにも増して、母は仕事が好きだった。お金は全てを解決すると信じていた。

勉強好きだった母は、大学に行きたかったが、親に女性は大学に行く必要は無い、と言われ断念。経済的理由もあった。

母は、自分の子供には、経済的理由で、したいことが出来ない、という経験はさせまい、と誓った。

入社後、8年で所長となり、私を生んだ。母の妹が上京し、私を育ててくれた。私は乳幼児の頃から、カンの虫が強く、情緒不安定で、指しゃぶりや、オネショも長く続いた。

母の妹は、私を可哀想、と思い、自分は絶対に働かない、と決意し、専業主婦を貫いた。

私は、おしゃれで、仕事が大好きな美しい母を、小さい頃から自慢に思っていた。どこまでもポジティブでユーモアもあり、愚痴や不満を聞いたことが無かった。

仕事の後は、飲み会、日曜日はゴルフ。私は母に会うことが、殆どなかった。小さい頃は、母の帰ってくる時の、ハイヒールのコツコツという音を、心待ちにしていた。

ティーンエイジャーになり、私は母に反抗した。母の帰りが遅いので、私も夜遊びをして、母より帰りが遅くなることもあり、叱られた。叩かれた。

だったら、仕事を辞めて、私のそばにいてよ!

そんな思春期の私の言葉には動ぜず、母は働き続けた。実はこの言葉は、とてもショックだった、と後から知った。

やがて、母は次長となり、勤続30年記念にニューヨーク旅行が贈呈された。私の夢のニューヨークに母が先に行き、ジェラシーを感じた。

ニューヨークから帰ってくると、
良いところだったわよ、行きたいなら行ってみなさいよ、と言って、当時は危険だという噂の街に、私を送り出した。

離れて、母との心の距離は近くなった。ニューヨークでも、ハワイでも、ロサンゼルスでも、嬉しい事、苦しい事は、まず母に知らせていた。

認知症を発症し、介護施設に入ると、電話もままならず、母との会話も無くなり、寂しく切ない。

それでも、母との絆は、しっかりと心の中で結ばれている。介護施設で、きっと母も私との絆を感じていると思う。

ママ、
私をポジティブに
明るく育ててくれて
本当に
ありがとう。



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