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よかろう、ならば困難さえも楽しもう!

テーマ:誰にも負けない自信がある自分の一番ダメなところ

「今日は月見バーガーを食べます!楽しみにしてたんです!」

弾むような私の宣言を聞いて、すぐ横を歩いていた人物は一瞬「何言ってんだコイツ」という表情をしかけたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

「そうですね、それがいいと思います」

相手がけげんな顔をしかけたのも当たり前だ。彼は弁護士であり、私たちが歩いていたのは1年近くにもおよぶ離婚調停からの帰り道だったのだから。こちらが有利に進めてはいたものの、相手の攻撃的な態度にうんざりしていた頃だった。

日頃、私が私を「ダメな奴だな」とつくづく感じる、いちばん大きな理由は「楽観的」であることだ。

楽観的=ポジティブでいいことじゃないかと思った人は、私が自分の短所について書き出したマインドマップを見てほしい。

真面目に考えているのだが二言目にはヘリクツがすごい。
ちなみに高校生のころの二つ名は「言葉の魔術師」

このとおり、どんなに謙虚な気持ちで短所をあげつらってみても、「でもなんとかなってるし」で片付けるたちの悪さといったらない。

冒頭の離婚調停のときだって、始まりこそショックと動揺でプルプルしていたが、すぐに初めての法律事務所体験やら初めての裁判所体験やらでワクワクプルプルするようになってしまった。

この楽観的な考え方は、20代の頃に「冗談抜きに全財産が240円になった経験」に基づいていると考えられる。あのときの私はほぼその日暮らしで、アテにしていた日払いの賃金が遅れ、仕事場から帰る電車賃すらなくなったのだ。が、結果なんとかなった。

なんとかなってしまったせいで、50歳を目前にした今でさえ、備えるとか蓄えるということをあまり考えない。人に迷惑さえかけなければ、自分が納得できる最低限の備えで十分だと思っている。

おそらく、なんでもかんでも良しとする超絶楽観主義であることは、自己成長を妨げているのだろう。ときどき自分という人間の浅さにびっくりすることがある。

だが、自分の楽観的な性格を客観的に眺めたときに、ダメダメだなと感じると同時に、やはり「これもまた良し」と思ってしまうのだ。

なぜなら、そのほうがハッピーだから。

私だって、ツラいことはあるし、自分で自分を許せなくなることもある。「楽観主義」は、ネガティブをポジティブに変え、自分を丸ごと受け入れるために必要で、なくてはならない私の一要素なのだ。

「もうダメだ」と思っても、本当にダメな状態であれば思考する余裕も意味もない。「もうダメだ」を「こんなにダメな状態は二度と体験できないかもしれないぞ」に変換するのだ。「ダメ」をその先につなげば、きっと何かしら楽しい。アドレナリン出ちゃう。

ただし、楽観主義の乱用は厳禁だ。私のような人間になりたくなければ、思慮深く計画的に生きるに越したことはない。


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