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父の遺品より

父の一周忌を機に書類を整理していたら、きれいに清書した原稿が見つかりました。まるで「今読んで」と言わんばかりのタイミングで。
母に聞いて、平成6年に野球チームの同志で綴った小冊子用の原稿だと判明しましたが、野球に打ち込んだ若かりし日の思い出がキラキラと伝わると同時に、ジャンルは違えど一つの事に邁進するストイックさが痛いほど共感でき、こちらに全文を写してみました。(野球の専門用語に慣れておらず、変換ミスなどあることと思うので、気づいたらゆっくりと直していきます。また個人名は全てイニシャルにしてあります)
尚、父・丸山浩の旧姓は山本です。


①夏の甲子園への思い

 高校2年夏の大会は10日前にベースの釘を踏んで足の甲に肉離れを起こし、調整不足のまま試合に突入したことが不運な結果を招き、1回戦0:6で敗退してしまった。伝統校が1回戦で敗退するという悔しさをバネに何とかしたい、頑張らねばと心に期す。
 高校3年になって県内の有力校は若狭、敦賀、福井商、我が武生高は3~4番手である。
 夏の前哨戦である春季知事杯の県大会において準々決勝で若狭高と対戦した。腰の調子が悪く試合前のピッチングも体を温める程度にして試合に臨んだ。
 1回表ランナー2塁において強打者3番のO君がセンターオーバーの第2塁打をかっ飛ばし1点が入った。私のピッチングは立ち上がり不安定でカウント2:3の連続ながら持ち堪え、回が進むにつれコントロールが良くなってきた。5回一死から四球をだしたが後続を断ち、あれよあれよという間に9回を迎え、とうとう四球1人にだけというノーヒットノーランをやってしまった。
 昨年当時の監督であるH先生に会った時その話がでたが、未だに県高校球史に記録が残っているということであった。
 夏の大会甲子園を目指す県予選は体調も整え万全で臨んだ。
 2回戦の高志高戦は0:3で敗戦濃く会は進み、7回に1点を取ったものの夕暮れ時で暗くなり始めた。9回裏にショートのエラーで一死2・3塁のチャンスが訪れ、3番の強打者に期待する場面となったがカーブ攻めであえなく三振(ボールが見えなかったと後でこぼしていた)、4番であった私はアウトコースに狙いを定め目を凝らしてみるとサウスポーの投げるアウトコースから入ってくるカーブ、見事ライト線上に放ち同点とすることができた。
 翌朝8時から再試合となり、四球13個三振10個の荒いピッチングながら4:0で勝利を収めることができた。
 3回戦は福井商高で監督から敬遠せよとの指示を無視して勝負に出、ライトオーバーの2塁打を打たれて1点のビハインドのまま回が進む。
 終盤1・2番打者の活躍で漸く2点を取って逆転勝利決定戦へと駒を進めた。
 相手は「春の大会の雪辱を期す若狭高」、緊迫した投手戦で4回まで互いにノーヒットで進んだ。
 5回に四球絡みから無死満塁のピンチを迎え、力んで投げたところ高目に浮き3連続ヒットで3点を失い、なお無死満塁と続いたが4番打者を2-3からど真ん中の直球で三振にとってどうにか3点止まりでおさまった。
 7回にはまたもや無死満塁のピンチを招き、マウンドに呆然と立ち尽くしていた時、実況アナの声(ラジオだと思う)がマウンドまで聞こえてきたことを思い出す。
 8回に進みマネージャーがまだヒットが1本もないぞの声に歯ぎしりをかむ。その直後9番打者に1塁オーバーのヒットが出てノーヒットを免れた。
 この試合若狭高がランナーを出したのは5回と7回の2イニングでヒットは5回に3本、7回に2本の計5本、自チームはチャンスらしいものもなくヒット1本のみでノーヒットノーランを免れたのにすぎず、0:3の完敗となり甲子園の夢は絶たれてししまった。
 後日談として若狭高校は「打倒山本」の一念で夏の大会に臨んだとのことで、山本倒せば甲子園へ行けるとひたすら打倒山本に燃えて猛練習に励んだとのことだった。
 甲子園への執念の差となったのかなと思うとともに社会人野球に入ってから「私の野球道」における執念の礎になったと思われます。


②入行時の思い出

 北陸銀行に勤務していた叔父から父に銀行に入って野球をやったらどうかの勧めがあったのは高校3年も夏の大会が終わってすぐであったように思う。
 一方、高校の監督からは銀行に入るのか、それとも勧誘としては大丸のほか、関大などの大学からも勧誘がきているがどうするのかと話を掛けられた。なかでも早稲田大学と聞いた時は大いに魅力を感じ、大学へ行きたいとの思いを巡らせたものだ。しかし"大学へやるには余裕がないから諦めろ”の父の一言で、男らしくしなければと思い、あっさりと銀行に入る決心をした。 
 入行する前の月、2月に胸に陰りがあるようなので採用にならないかもとの知らせが入り、再度レントゲン検査を受け診断書を富山へ送り、やっと事なきを得た事件は忘れられない。(後年、胸を患うことになろうとは思いも及ばなかったが、その前兆であったのだろう)
 銀行野球部の練習場は富山中部高校のグランドだった。負けたくなかったのは速球である。しかしエースD氏の重くて速いボール、同期生のT投手・N投手のキレのある速いボールを見て、ノンプロは流石いいボールを投げているなと思い知らされ、自分のボールが思ったより速くなさそうだと意識したものである。
 T監督からは
 1.同じフォーム同じテンポでは投げず、間合いを工夫せよ
 2.ファースト打者に四球は出すな。何がなんでも打ち取ること
 3.良いゲームをして、選手が納得のいく満足できるプレーをしても監督としては勝たねばならない 
などを学び、またアウトステップの癖を直すためにレンガを置いて矯正させられた。
 私が自ら呆れ果てる思いをした試合が二つある。
一つは清峰伸銅との交歓試合で打たれに打たれて、投手にまでレフトフェンスを直撃され、もうこれはダメだと思って、潔くマウンドを降りてベンチまで来たら、T監督から「自分で責任を取れ」と言われてスゴスゴと戻り、完投したことである。ゲームは13:7で負けた。(一選手がピッチャーとしての責任を放棄し、投げ遣りな態度をとるとは全くド阿呆というべきものであると反省)
 もう一つは電々富山線だったか不二越戦だったかはっきりしないが、0:0のまま延長10回二死三塁で、あまりにリードもしていないランナーに牽制球を投げると、それが悪送球になり、結局0:1で負けてしまった。試合後、球場をあとにするとき、口笛を吹いて帰ってきたが、後刻先輩からキツク叱られてしまった。(粗忽者のすることとして深く反省)
 一方、夏の本大会第二次予選では右のH・左のOと好投手ふたりを擁する強豪新潟交通と対戦した。H投手のキレのよい速球と速いカーブが印象に残っている。初回に点を取られ、中継ぎとして私の出番があり中盤を投げ、その後ベテランT投手が大きく割れる縦のカーブとアウトコースへのシュートが絶妙にて、無得点に抑え込み、ピッチングの神髄を見る思いがした。
 結果は初回の6点差が大きく、0:6と完敗だった。
 新人1年生の私は、その年12勝4敗の成績であったと記憶している。


③病気と野球

 高校時代の時もそうであったように、ノンプロにあっても夏の本大会に敗れた後の虚しさと、来年こそはやったるぞと思う気持ちの切り替えが出来るまでの間は、何とも遣り場のないものである。シーズンインともなれば、体の中から沸々とファイトが湧きあがってくるのを感じたものだ。
 富山市体育館で柔軟体操・ランニング等で体力づくりを始めた2年目の春、少し風邪気味で微熱があるかなと思いながら練習を続けて3日目、ランニング時に息苦しい感じがするようになり、どうも普通ではないなと思った。診断の結果は肋膜炎で六カ月入院の羽目になった。
 当時越前町支店長と次長から「人事部長とも相談したが野球を断念するように」と言われた。日赤のS副院長に野球は二度とやれないものかと尋ねたところ、十分に直して経過を見ながら判断していきましょうとの回答であった。
 退院後H監督の許に、どうしても野球を続けたい一心からその思いを切々と訴えたところ、漸くカムバックさせていただくこととなった。三カ月に一回はレントゲン検査を受けながらのトレーニング開始となったときは嬉しく、身も心もファイトが燃えてくるのを禁じ得ず、その感激はいまだに残っている。
 昭和40年に入っても約束事は守り、レントゲン検査はきちんと受けフォローしていたが、その分練習はソフトなものになっていたたと思う。二度と病気はするまいと細心の注意をする一方、後楽園出場を目指す二次予選では決勝戦の再々試合までの5連投により漸く優勝にありつけた。(この時の経過は次の項で詳しく述べる)優勝の翌日レントゲン検査を受けたところ再発が判り、即日入院することになったものである。
 気持ちの整理は案外とアッサリしたもので、仕方が無いな、ベストを尽くしたのだからと考え、念願の後楽園出場が叶えられた喜びの方が強く、満足感に浸り養生につとめることになった。病気に負けまい、倒れることはないと自分に言い聞かせ身体を大事にしてきたものの、再発を招き沢山の方々に迷惑をかけることになってしまったことは、まことに申し訳なく不本意であった。またその後1年程で職場に復帰し、今日まで病気らしいものはしていないが、長い間神経が苛立ち集中力が欠けていたことを思うと、健康であることに感謝しなければならないものである。
 昭和47年秋に1年のみという条件でコーチを引き受けたが、短期間に限定したのは健康に対する思いが強く、気持ちが殊の外萎縮していたことによるものである。どうすれば再発を防ぐことができたのであろうかと考える時、肩を痛めたことも一因であろうか、食欲がなくなってきたのが原因であろうかなどと、あれこれ思ってはみたが所詮仕方の無いことであり、体力の限界に挑戦し頑張ったのだから良いではないかと思っている。
 8年ほど前に、今は亡きF氏にお会いした時、あの時はよく頑張った嬉しかったなあと何度も握手をされ、当時の感激が再び蘇って頑張って良かったと思ったものである。
 しかし、やはり病気で倒れたことは非常に残念なことであった・・・。


➃投手として

 投手のトレーニングでは走ることが一番良いと教えられてきた。しかし、やってみたかったものとしてはウェイトトレーニングと握力を強くするものをもっと取り入れたらと思われる。
 腰を痛めていた私として、下半身を鍛えることには余り重きをおかず、インターバル走法によるランニングに努めたのは体力増強・持久力の維持に加え、瞬発力をつけることを主眼として体のバランスを良くするように考えたものである。
 技術的な練習については、これが王道だというものは特にないと考えられ、個々人の差があると思われる。
 投手として生きたボールを会得するにはどうすればよいか。
 1.手首を活かすこと
 2.脚・腰・肩・腕・手首のバランスを良くすること
 3.練習法として、近距離(5m位)によるボールを持っての投球フォームの安定化とシャドウピッチングとの繰り返し
 4.特に球離れの感触、指先にビシッとひっかかるものを大切にしたい
 5.ストレートの走りが悪い時はカーブを5~6球連投し、その後のストレートが走るようになるかどうか十分注意したい。ゲーム中カーブの後のストレートが高目に浮きがちになるのは腕の振りがよくなり、球離れの瞬間におけるスナップ・指先でしっかりとおさえこむことが出来ない状態が生ずるからである。
 6.スライダーは魅力あるボールであるが、指先にしっかりとボールのひっかかるときは良いが、手応えがない時は微調整がきかず、コントロールに影響し手痛い目にあうことになる
 7.カーブは得意とした球種の一つであるが、腕を巻き込んで投げる大きく割れるものと、手首の捻りで早く小さく曲がるものの2種類は会得しておきたいものである。
 8.フォークボールは指の間から抜くコツを覚えれば、案外と投げ易いものである。しかし、芯のコントロールをつけようとすると、相当厄介なもので、指のひっかかりようによっては、右にも左にも曲がることになるので、専ら打者の腰から下を的にして投球、コースを狙うには未完成のままで終えることとなった。

好投手として自信を持ったエピソードとして、小柄ながら風格が感ぜられた不二越のM監督が、3塁コーチャーズボックスから3塁ランナーであった私に「山本投手のボールは打てそうで打てない。良い投手だ」と言われ、そして当時不二越には大物新人として騒がれたY選手がいたが、彼を引き合いに出され「山本を打ち崩すにはまだ差があるなあ」との寸評をいただいたことがある。
 強気の投手と言われた所以を自分なりに思うと、練習時においてもプライドを持っていたことと、ピンチになった時どのように切り抜けたかをイメージし、強打者を迎えても気力を充実させ、狙い通りに投げることに集中したことにあると思っている。強打者・好投手ほど良い当たりをするが、ホームランされないボールであれば野手の正面に飛んで、ダブルプレーになる機会も多いものだと考えたものである。チームメイトと話をしても弱気は吐かぬことが肝要。打たれても、出会い頭で当たったものだ程度に考えるようにしていたことである。
 特にイメージしていたことと言えば、同じノンプロのレベルの者同士で試合をしているのであり、同じレベルなら、調子の良い者、紙一重でよいからレベルアップしている者が、必ず良い結果につながるものだと考えていたことかと思う。
 試合に臨んでは、相手チームのラインアップを見て好調か不振かを早く見抜くように努め、初顔合わせのときはプルヒッターかライトヒッターか、カーブ打ちがうまいかどうかに注意を払ったものであり、一方では自分のピッチングの組み立てについて捕手とのコミュニケーションを図っておいたものである。9人の打者を見れば、好調3人・普通3人・不振3人という見方をしていたこともあり、強打者・好打者の前にランナーを出さないよう、ファースト打者には十分注意してベストピッチングに心掛けた。
 投手としては、勝敗を争うゲームである以上、点数を与えねば負けることはないことと、勝敗の行方を7割以上は左右するポジションであると位置づけ、細心の注意力を働かせ且つ大胆でなければならぬと思っている。力づくで抑え得るほど力量の差があれば別だが、レベルの同程度の者同士での試合であり、気力を充実させ、常にベストのピッチングで立ち向かうことが好結果につながるものであったと思っている。
 勝利への執念の差は実力以上に勝敗を左右する要因の一つではなかろうか。従って優勝候補と言われる強豪チームと対戦しようとも、良い当たりの連続であっても野手の正面をつけば凡飛・凡ゴロであり、勝利への執念・・・誰よりも余計に練習を積んだという思いを持ち、負けてたまるかの気持ちを奮い立たせ、注意深く且つ自信を持って自己ベストの発揮に努めることである。
 マウンドに立って、凡そ気後れするとか上がってしまうということは、私の記憶には無く、平常心を保ち、集中力を発揮する強い精神力こそ、投手として持たねばならない最も大切なものであると信じている。


⑤後楽園出場がかなえられて

 昭和35年、北陸銀行野球部に入る。
 夏の大会対戦相手は新潟交通。中盤をリリーフでマウンドに立ち、無得点に押さえる。調子も良かったので試合前は内心私の先発もあるのではないかと考えていたことを記憶している。この年後楽園へは新潟交通が出場「佐渡おけさ」による応援団の華々しさが脳裏に焼き付いている。
 昭和36・37年は病気で休み。
 昭和38年夏の大会で三協精機と対戦、0:0の緊迫した試合展開となったが、5回無死で光沢を四球で出し、送りバンドで一死二塁、二死後四番打者Tにセンター前へのポテンヒットで1点を失い、結果0:1で敗退した。
 試合前、H監督とのやり取りで3点以内に押さえてくれれば勝算あり、投手の責任ではないの話に、私は今日は0点に押さえるつもりだし、0点なら負けることはないのだからと言った。監督はニコニコ笑いながら、2点までなら言うことは無いなと言われた。(多分私が気負いこんでいるのを見通し、リラックスさせることを考えての言葉だろうと思う)・・・私はこれを受けて1点ならやむを得ないこともあるから、1点という事にしておいてくださいと答えた。
 このやりとりは良い意味でも悪い意味でも私の脳裏から今も離れないでいる。結果は0:1で負けたことに符合してしまったのは、頭の隅に1点なら仕方がないなという思いが、ピッチングの甘さとなって出たのではないかと思っているからである。最後まで0点に押さえることにこだわりを持ち続けていれば、四球を出さずにすんだのではないか、ポテンヒットをタイムリーに打たれなかったのではないかと悔やまれてならない。
 この年は地元富山での開催にて、ライバルO投手(後に近鉄に入団する)を擁する不二越が後楽園への切符を手に入れた。
 昭和39年、不祥事二上事件が発生、野球の対外試合は5月中旬以降自粛となり、練習のみの一年間となった。

 昭和40年       1番  遊  T谷
          2番  二  Y
          3番  中  T
          4番  一  Y
          5番  左  T
          6番  捕  A
          7番  三  N
          8番  右  S
          9番  投  山本
 第36回都市対抗試合第二次予選優勝戦のラインアップである。選手層は薄く19名ながら、投手の私から見た打撃戦は長打利器を秘めたクリーンアップ、俊足好打の1・2番と誠に心強い限りであり、私が頑張ればまず優勝できる陣容であると思った。病気の前科を持つ私であったが、強力打線をバックに当然ながら大いに張り切り、練習に自ずと力が入って前年覚えたスライダーに磨きをかけ、さらにフォークボールのマスターに取り組んだ。
 5月に入ってからは1日300球のピッチング練習を始めたが、10日ほど続けたところ肩の張りがひどくなり始めた。5月20日から長野大会があり登板したところ、センターから見ていたT監督から投げ方がおかしいと気付かれてしまった。この後の練習はボールを握らず、ひたすらランニングを中心としたもので、6月中旬の一次予選の頃にキャッチボールを始めたものである。
 この年の一次予選(県予選)では、たとえ予選に全敗しても二次予選が地元富山での開催でその出場が決定していたため、試合に登板することは許されなかった。一次予選は全敗し、試合後N副部長からクソミソに怒声で叱られ、非常に腹立たしい思いがした。しかし思い返してみると、これも何クソという反発心が執念となり、以後の頑張りにつながったものであろうか。
 6月下旬二次予選の抽選が行われ、組み合わせを聞くと、私の苦手とする電気化学(春の市長杯では0:5と完敗している)は反対ゾーンで三協精機と一回戦で対戦となっていた。私は肩の痛みも取れ、一か月休んでいたピッチング練習を、湧きあがる興奮を覚えながら再開した。

 7月に入りT君のバッティングが思わしくなく、かなりの重症なのに気が付き、フリーバッティングのピッチャーを買って出た。初めは何とか持ち直してくれと祈る思いで、精一杯の打ち易いボールを揃えていたが、そのうちにポカスカとフェンスオーバーの連発になり、その後は逆に打たれまいとして、渾身の力を込めてアウトローに投げ込みを決めたつもりがショートオーバーやレフトオーバーと簡単に打たれた。癪にさわって苦手のカーブを投げ始めたところ、なんとカーブにもタイミングを合わせてくるではないか。右足の軸がどっしりと動かず、復調が読み取れた次第である。
 私の直球は伸びがあり、若干手元で変化するクセ球なので、いかにフリーバッティングといえども打ちこなされることはないと思っていたが、いとも簡単にレフト前へ運ばれたのには内心ショックだった。プルヒッターであってもアウトローはセンター前が普通なのに、呆れた思いと、改めて凄い打者がいるもんだ、味方で良かったと思ったものである。4番のY君もまたアウトロー打ちの名人で右中間へ運ぶ打撃は素晴らしく、3番のT監督はストライクゾーンはどこへ投げても芯でとらえるセンスの良さは、相手チームにいなくて良かったと思っていたものである。T君とのこの相対練習は、私の本大会における貴重なピッチングに繋がっていったものと思われ、忘れ得ぬ出来事であった。
 長い間試合から遠ざかり、投手としてキメ細かい練習は不十分であったが、本大会を迎え1回戦は東光商事と対戦18:1と大勝。Y君の2本のホームラン(うち1本はバックスクリーン)で5打数5安打は驚きづくめであり、ノンプロではめったにお目にかかれるものではない。
 2回戦はヤシカと対戦、相手打線の特徴は対戦したことがなく不明、長野の古豪である。空模様が曇天から小雨まじりとなり、四球をよく出したもののノーヒットで回が進み、何とかノーヒットでの思いを始めた7回に、Sあたりが2本レフト前に飛び、一気にピンチを招いてしまった。この時高校時代に3:0で勝っていながら、ポテンヒット2本と内野守備の乱れから一挙4点を取られたゲームを思い出し、慎重且つ思いっきりやらねばと考えた。攻めのピッチングで四球を出すことなく無得点に押さえ切り、降雨いよいよ激しくなり、試合の流れが変わろうとしていただけに、コールド勝ちが宣せられたのは幸運だったと思っている。
 またこの試合先制点を叩き出したT君の右中間大3塁打は、カーブを苦手としているものの見事に外角カーブを打ったものであり、必死で追いかけるセンターとライト頭上を、打球が越えて行った時の嬉しさは格別のもので、どんなにか心強く有難い先取点であった。
 決勝戦は電気化学を下してきた三協精機との対戦となった。電気化学には素晴らしい速球を投げる右のH、カーブ・シュートに冴えを持つ左腕Mが居り、打線には私の苦手とするN(なぜかこの人には相性が悪く、私が投げる時は1番打者として登場してくる)と、4番のF(左足をチョコンと上げて打つが、打球はピンポン球になってしまう感じ。アウトローに投げても簡単に打たれた)に加え、5番M本(その後阪急に入団し活躍した)がいて、三協精機で良かったという思いと、38年の雪辱を期す気持ちが強かった。

"決勝戦1回目”
S君が2塁から3塁に走り、暴走と思ったときに、送球が彼の背中に当たって外野に転々とする間にホームインし1点を先取した。しかし3番打者村上にレフトへホームラン(スライダーが真ん中高目に入った失投)され同点となり、その後はピンチの連続となった。特に8回は一死2・3塁となりスクイズしかないと考えたが簡単に歩かせる訳にもいかず、インローへ速いカーブを投げたところ空振りとなり、3塁走者を刺すことができ二死3塁となった。小雨模様で暗くなり始めの状況、ホッとしたところをレフトへ大きな当たりを飛ばされた。レフトT君は一旦バックし振り向いた時に足を滑らせ転んだが、執念というべきか地面すれすれで寝転びながらの捕球となり事なきを得た。この回、もし点を取られていたなら、9回表の攻撃に移り敗色濃厚だったと思われたもので、この後降雨に加えて暗さを増したことから再試合となり、幸運は我が方にあったと思った。

"決勝戦2回目”
1回裏光沢にいきなり3塁打を打たれ、3番村上の右犠飛で簡単に1点を取られて、拙い試合展開になったと思った。相手O投手は快調であり、回を追うごとに出来も良くなり、いやな感じになってきたが、西の空を見ると真っ黒い雲がドンドン広がりを見せてくるではないか。6回とうとう雨が降り始め、雷まで鳴り出して待つこと2時間、ノーゲーム再試合が決定した。O投手の出来からして、かなり難しい試合展開であっただけに、恵の雷雨であった。

"決勝戦3日目”
三度目の決戦は雨の心配が全くない空となった。連投の疲れは食欲に表れ、前夜のトンカツは一箸つけたものの食べられず、朝食はパンと牛乳ですませた。前年肝臓を患い5カ月入院歴のA捕手も同様であった。二人とも、かなり頬もこけ体重が減ったように思うが、1・2戦の展開が運は我にあり、気力の充実してくるのを覚えた。
 序盤の緊迫した展開から、4回裏につかまり一死満塁のピンチを迎えた。スクイズはどうかなと思い、ヒッティングならダブルプレーもあると考え、四球は出さないよう思い切り行こうとスライダーを投げたところ、詰まり気味ながら1・2塁間コロコロと抜けてしまい、1点を取られた。打者は固くなっておりバットを振るのがやっとの感じにて、本来のスピードがあれば押さえていたであろうと思われるシーンであった。
 6回の逆転劇は忘れられない。3回から登板のエースOの快調なテンポが6回に入るやボールが高目に浮き、1・2番打者に連続四球を与え、クリーンアップ登場の場面となった。この回投手の心理状況からすると、1点のリードを守っていこうと気力を充実させ、直球を打たれていないことから力でネジ伏せようと、無意識のうちに肩に力が入っていたことと思われる。それにもましてトップのT選手の腰をかがめたストライクゾーンの狭い構えは投手として投げづらい嫌いなタイプの打者であろう。打たれることはないと思っていても、真ん中に投げれば長打を食らうことにもなるから、コーナーを狙い四球につながったものと思う、2番打者のY選手は小柄ながらバントもうまくパンチがありストレート系に強いことから、ここで抑え込まなければ後のクリーンアップにつながるとの思いが強く、カーブもはずれて、より力を入れて投球したことが四球になったのではないか。
 3番T監督は、勝負どころと見て4番Y君・5番T君の両名を呼び、因果を含めて一言二言の後、絶妙の送りバントを決める。(T監督が送りバントをするのを初めて見た。ランナーを進めることが出来る信越No.1の好打者、プロに行っても十分通用したと思う)
 4番Y君は、当たりが止まっており心配される場面となって、たちまち2ストライクに追い込まれてしまったが、アウトハイを上手くバットに乗せてライトフライを上げ同点となった。5番T君は、アウトコースのカーブに一寸タイミングを外された感じがしたが、ピッチャーの頭をワンバウンドで越え、そのまま2・遊間を測ったように抜けて2点目が入った。4番・5番のバッティングは良い当たりとは言えなかったが、執念が乗り移った感じがしたものである。またここぞという時に打ってくれ、投手からすればまことに信頼に足る頼もしさであり、自分も頑張らねばとファイトが湧いてきた。相手のO投手にすれば、北銀の1~5番は気の抜けない、全国に通用するオーダーと思ったのではなかろうか。私には何とも頼もしい強力打線であり、あとはしっかりと抑えていかねばと気を引き締めて6回裏のマウンドに上がる。
 ピッチャーというものはぜいたくなもので、1点のリードを貰ってみると、よしこれで抑えて行けば勝てると思い、どうしても気負いの気持ちが湧いてくるもので、どことなく力が入ってしまうものである。しかし、私の記憶ではこの回は幾分異なっていたようである。即ち体にかなり疲れを感じていたのである。A捕手のリードで間合いを長目にとらされ、一球一球確かめながら捕手のミットを目がけて投げることに集中したように覚えている。
 7回表にはOからAに交替し、エースがマウンドから降りたことから勝てるぞの思いが強くなってきた。追加の一点が入り、あと3イニング9個のアウトを取れば良いのだと思う一方、早く試合終了にならないかと思った。7回裏守備につく時、スタンドには役員の方々も応援に来られ、応援団の熱気はますます盛んになり、気合を入れる。8回に1点を加え4:1となるもスピードがなくなったボールは心許ない。カウント稼ぎにカーブを投げ、ストレートでインハイをつき、スライダーでアウトコースをつく配球パターンであった。何が良かったかと考えてみるとき、コントロールが良く、ほぼA捕手のリードするがままのピッチングになっていたことかと思っている。
 9回表は打者が私に回り、もう打ちたくなかったのに四球となり、一死満塁のチャンスとなった。ここで3番T監督が3塁キャンバスを抜く走者一掃の2塁打を放ち、私は2塁からホームまで走ったが、大変辛いランニングで兎に角体がだるかった。でもこれで勝利を確信、辛くも嬉しいランニングであった。私の経験では3点のリードをひっくり返されたことはあったが、6点差はなかったからである。
 最高殊勲選手・優勝インタビュー・市内パレード・OBも駆けつけての祝勝会と、大変嬉しい晴れがましい一日となった。


⑥余録

 後楽園行きの切符を手に入れた翌日、本店診察室にてレントゲンを撮ってもらったところ、T監督から呼び出しを受け、肺結核に罹病していることが判明した。試合終了後の体重がベストの68kgから63㎏にまで減っていたこともあり、何となく覚悟してはいたので動揺はなく、満足感は十分すぎる程にて、その日のうちに入院した。
 私がもし病気をせずに、後楽園で投げることが出来たらどうであったかと考えてみると、連投の祟りで再度肩は張っており、むしろ壊れていたといってよく、短期間での回復は難しいし、通用しなかったと思う。ラストチャンスで後楽園行きを手に入れることが出来たのは、勝利への執念であったのだろうか。打撃陣優先のチームであっただけに日頃強がりを言ってきたことから、一生懸命にやったことが好結果につながったのだと思っている。
 1~5番の切れ目ない打線に加え、下位も一発長打を秘めた好守備のA捕手・N3塁手・好守好打の新人S外野手、それに捻挫に悩まされながらもK内野手の打撃センスは素晴らしく、ボールを捉えるバッティングアイは並のものではない。またA選手はリストの返しがうまく打球は速い。手堅い守備リードをみせるS捕手、ベースランニングのうまいH内野手、捕手ながら抜群に足の速いM野捕手、体が堅く選手としては未知数だったM外野手、投手陣では丁寧なピッチングをするS崎投手、大きなカーブを得意としバッティングもよいT田投手、長身のI山投手に加えチームを明るく賑やかにサポートしてくれたSマネージャーという陣容で、まことに素晴らしいチームメイトに恵まれたものと感謝している。
 ピッチャーとしての私は、スピードは残念ながらノンプロクラスでは中位で、変則モーションと手許で変化する曲球を操る好投手の部類であったのだろうと思っている。
 たかが一つのボールを投げ・打ち・走る のゲームに相違ないが、後楽園という目標への思いが叶えられた喜び・感激は未だに忘れ得ぬ最高のものである。
 選手としての寿命は短かったが、青春の一頁を綴ってみると、やはり血は湧き肉は踊るの思いが沸々と幾つになっても沸き立ってくるものであります。

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