それはあなたの欲望ですか?
欲望と欲求の違いとは
ALOHA! みゆひょんです。今回は(第1回なのですが)、欲望について考えてみたいと思います。
まず似たような言葉に「欲求」という言葉もございます。欲求と欲望を比較すると、欲望の意味が鮮明になるかと思い、ググってみました。
noteにすばらしい説明をしてくださっている方がいました。うぇい@哲学さま、ありがとうございます。レヴィナスを読まれるんですね。マジですごいです。シェア&引用させていただきます。ついでと言っては語弊がありますが、スキとフォローもさせていただいたのでお許しください。
レヴィナスによれば「欲望は限りない」ということのようです。一方で欲求は、食欲だろうが睡眠欲だろうが性欲だろうが、満たそうと思えば満たされるものということのようです(まあ、お金や時間がないと欲求不満になるわけですが)。
「限りないもの、それが欲望」(「限りない欲望」、井上陽水)ということで、陽水先生もレヴィナスを踏まえていたのでしょうか。
それはさておき。欲望は限りないからこそ、煽ることに成功すればビックビジネスとなり得ます。欲求も煽れますが、それは広告宣伝の世界の話。日本一得意なのが電通さんですね。煽るのが得意なら、欲求(もしかしたら欲望?)も強いみたいで先の東京オリンピックではその一端を発揮しておられました。別に批判ではなく、ある意味人間らしいなと思った次第です(善悪はまた別の話として)。
では欲望を煽るのは誰でしょう。自己啓発セミナーの先生方であります。
「欲望は他人の欲望である」
齊藤環さんという方が『生き延びるためのラカン』という「知的に早熟な中学生ならすいすい読める」日本一わかりやすいラカンの入門書(本人曰わく)を書いておられまして、そこからの引用です。欲望も必要ということですね。確かにそうです。ただし、それが「自分の欲望」ならば。
ラカンと言えば難解なことで有名でして(先のレヴィナスもそうです)、日本語訳を読んでも、わたしなどには何を言っているのかさっぱりわかりません。ただ、この本にも出てきますが、「欲望は他人の欲望である」「欲望は、それを他人に認められることではじめて意味を持つ」という言葉は、確かにそうだなと納得できたりします。
たとえば「成功」という言葉。成功の定義は人によって違いますし、日常の小さな成功から世界レベルの大きな成功まで様々なレベルの成功があります。
これは本当に偶然なのですが、私のスマホにたった今noteからの通知が来まして、タイトルに「同じ経験をしていても、成功できる人としない人を決める習慣とは?」とありました。びっくりです。反射的に開いてしまいました。発信者は「フォレスト出版」さんです。おお、自己啓発セミナーの先生なら、ぜひとも著書を出したい出版社の1つですね(って、わたしもフォレストさんのゴーストライターをしたことがあるので恩義しかありません。けっして悪口ではありませんよ)。
すばらしい! 具体例を探していたのですが、向こうから来てくれました。フォレストさん、いつもありがとうございます<(_ _)>
これですよ、これ! ”ビジネスパーソンなら仕事で成功したい”ということが大前提になっていますよね?
でも、本当にそうでしょうか? すべてのビジネスパーソンが仕事で成功したいのでしょうか。
わたしにはそうは思えません。もちろん失敗はしたくないでしょう。でも、仮に失敗したとしても、それで大事に至らず、定期的に一定の収入が得られればいいというビジネスパーソンも実際には多いのではないでしょうか。
少なくともわたしはそんなビジネスパーソンでした。それが管理職になって大失敗し、けっきょく会社組織が嫌になって独立したのです。だから、今どきの若い人が出世したくないという気持ち、むちゃくちゃ共感できます。
それとも出世したくない人はビジネスパーソンではないとでも??? まあ、定義次第ですね。
でも成功を求める人を見ていると自分も成功したくなってくる
もちろん「仕事で成功したい人」も多数いますし、それ自体が悪いことではありません。仕事で成功したくて、日々努力している人をわたしは尊敬しますし、そのような方々のおかげで我が国の繁栄もあるのだと感謝もしています。
だからそういう人になりたいとわたしも願ったことはありました。いま思うと若気のいたりですが、経験値もありませんでしたし。
ビジネスの成功なんてあほくさいと潜在意識的に思っていても、会社はそれを求めますし、周囲にもそれを求める同僚がいます(本心からかはわかりませんが)。それで、自分もがんばらないといけないと思って、自己啓発書を読み、著者の主張に感動してセミナーを受けにいくこともあるでしょう。
そうすると回りは成功意欲に燃えている(少なくともそう見える)人たちばかりで、だんだんと自分も成功したいと思うようになる――そういうことって往々にしてあることです。
ところが、先ほど「成功の定義は人によって違う」と書きましたが、これは成功の定義がないということと同義です。定義がないから、成功したと思っても満たされず、次の成功が欲しくなる。限りないわけです。つまり成功とは欲求ではなく欲望なのです。
そして周囲が成功を欲するのを見ているうちに自分も欲するようになる――これが「欲望は他人の欲望である」ということに他ならないのではないかなと思ったりします(ラカン信奉者はラカニストと言って、日本一怖い人たちの集まりだと聞いています。なので間違っていたらごめんなさい、これは単にわたしの解釈です、語尾も濁しておりますると、先に謝っておきます。だからネガティブなコメントは絶対にやめてくださいね)。
わたしも過去に自己啓発セミナーに行ったことがあるので知っていますが、ほとんど宗教です。成功を欲しない自分は、ネガティブで斜に構えた人間だと思うようになります。そして、みんなの気持ちが一つになったとき、涙を流して感動したりするのですよ。
もうすっかり洗脳は解けましたけどね。
他人の欲望を自分の欲望と思うのが苦しみの始まり
洗脳がハマっているうちは燃えていましたが、でも何か違和感がある。これって本当に自分の求めていることなのか? でもやっぱり人間は多少の無理をしないと成功できないし、成功したあとには大きなご褒美も待っているはず。だからがんばろう!
――という感じで、実際がんばりましたし、ある程度成功の兆しも見えてきました。やりたくないことも一生懸命やれば結果が出てきて、少しずつステージが上がっていく感じもありました。
ところが東日本大震災ですべてがガラガラと崩れ落ちたのです。
背伸びをしていたんですね。実力以上のことを安請け合いしていたら、ビジネスは広がったのですが、いたるところにほころびが出ていたのです。取引先も契約を切る口実を探していたのだと思います。震災後、「ちょっとそれどころでないので」と、立て続けにコンサル契約(当時はコンサル業をしていました)を打ち切られ、わたしはほとんど鬱に近い状態になってしまったのでした。
その後もしばらくは成功への欲望を満たそうと悪あがきしたのですが、3年ほどで力尽きました(我ながらよくがんばったと思います)。そして自分が背伸びしないでやれることを探した結果、フリーライター専業となったのです。
収入はかなり減っていつも不安がつきまといますが(不安についてはまた別の機会に書くつもりです)、「他人の欲望」から解放されたことで気持ちはずいぶん楽になりました。
ビジネスだけでなく、スポーツでもアートでもその他何でも、成功を求めて努力している人は尊いと思います。しかし成功を求めなくても、人間は別の尊さを持っていると思うのです。
どうか他人の欲望を自分の欲望と勘違いせず、本当に自分が求めるものと向き合ってください。特に、自分の人生に違和感を覚えて苦しんでいる方は。
フリーランスのトランス女性にだって、世間は意外とやさしいのです。
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自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。