かりそめのまなざし 1.内海の菊
出発の時間だった。
なのに、もう留まる用もないこの界隈を無意味にさ迷っていた。草鞋は泥を落としてふたたび真新しく、旅立ちを待っているのに。雨上がりの濡れた赤土を無意味に踏んで。
気づかなかったが、ほんの一月ばかりいたこの町が好きだったのだ。永らくの旅暮らし、特に不満はなかった。けれども遠い昔、居を構えのんびり暮らしていた頃を思い出したのかもしれない。ここはそんな温かさがあった。
道の脇、花が咲いている。よくある野菊だ。小さくもいきいきとして、どこか幸せそうだ。まるでそっとここで生きることを許されたいと願う、わたし自身のようにみえた。
ではなぜそれでも先を行くのだろう。転々とあてもなく、町から町、関を越え、先のそのまた先に。
・・・仮にたとえばここに居着き、わたしはうずくまるだろう。小さく貝のように巻いて、永遠に動かなくなるだろう。
うずくまるのが己の性なのか、それとも流れ行くのがか・・・
考えながら、道端の小石を蹴った。ふと顔を上げると顔なじみになった売り子の娘が通りすがり、にこりと微笑んだ。名も知らぬ。わたしに気づいて娘の頬がやや赤らんだのを見て、わたしの顔もふと熱くなった。顔をそらすように見やると、黒光りする家々の軒先が連なる向こう、雨上がりの陽に晒された内海がきらきらと光っていた。
瞬間、心情は一転し、すべての想いや迷いは晴れ渡り、その足は新しく一歩、前へ踏み出した。