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社会はどんな構造で捉えられるのか

今回のnoteは【平和学】シリーズの一部です。

このnoteを読み始める前に、まずはこれらをぜひ読んでみてください!

その①:

その②:






Global Dynamics & World Peace

前回の記事では、二人の学者を通して、自分の視点がミクロからマクロへと移り変わっていったことを紹介した。今回の記事では、そのマクロな視点でどのように社会を捉えることが出来たのかについて、新たな学者たちを迎え入れながら説明していく。


垂直な世界

この世界の社会構造をどのように見ることが出来るだろうか。
ファーガソン(Ferguson)は、"発展的時間"(Developmentalist Time)という理論を強く主張する。これは、新自由主義(国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重 視を特徴とする経済思想)が役割を果たすようになった歴史的背景に基づいている。それ以前は、疎外された人々も資本主義の発展に関与していたが、新自由主義が登場すると、彼らは切り捨てられた。世界的な格差は、地球を国家社会の集合体として見た場合、ある特定の国が他の国よりも一元的な近代への階段を上っている結果だと解釈されるかもしれない。

これがファーガソン(Ferguson)のいう「発展的時間」(Developmentalist Time)という理論。
"telos" がすべての社会が目指す、最も発展した状態。最終的な着地点。
BolviaとUSAは授業中に例として出されたため、この図に含まれている。

このイメージの中で、いわゆる後進国が近代的でないとすれば、それは彼らがまだ近代的でなかったからである。最も保守的な国々でさえ、近代化は普遍的な目標とみなされていた。貧しい国々は単に底辺にいるのではなく、むしろそこに住む貧困に苦しむ人々とともに、この階段を上る始まりにいるのだ。(ファーガソン 2005、167-168)

発展的時間(Developmentalist Time)は、こう保証する。「自分の状況に不満があるのなら、ただ待てばいい。あなたが所属する社会は発展し続けており、この階段を確実に上っている。」と。
この理論を学んだ途端、私は失望した。結局のところ、世界はヒエラルキーに基づいた垂直の構造で構成されているのか…と。
そして、私の中に怒りも湧いてきた。この考え方は、全ての国にとって、ましてや各個人にとって公平ではない。ザンビアの鉱山労働者(アフリカ版産業革命としても広く知られるザンビアにて、1970年代後半以降、経済が後退の一途を辿ったことにより、ザンビアの鉱山労働者は多大な影響を受け、生活が困窮化したという事象。これには新自由主義が大きく関係している。)はどうなるのか。彼らの例を無視したままにするつもりなのか。

ファーガソンもこの点に同意している。彼は発展的時間という理論は、学問的な理論の領域だけでなく実際の経済においても、失敗であることが目に見えていると強く批判している。(ファーガソン 2005、17)一人当たりGDPのような従来の指標で測定される最富裕国と最貧国の経済格差は、実際に急速に拡大している。アフリカ諸国の大半は現在、20~30年前の先進国の経済力と比べてほど遠い。かつて第三世界であった(西側諸国にも東側諸国にも属さない)一部の国々では、生活水準が大幅に向上しているとはいえ、アフリカや世界の他の地域では経済学における収束(貧しい国の一 人当たりの所得が豊かな国よりも高い成長率で増加する傾向があるという仮説)が起こっていないことは否定できない。ファーガソンは発展的時間という理論が機能していない様々な根拠を列挙している。すなわち、この階段(発展的時間)の中で苦しんでいる人々がおり、貧富の差は拡大しているということを強く主張している。

また長い歴史の中で見ると、社会構造も均質化(Homogenization:どこの国や環境でも似たような文化が見られること)の傾向にある。1950年代から1970年代にかけての反植民地運動(植民地主義が温存された政治的、経済的、文化的システムを解体していく運動および思想のこと)は、植民地支配者を取り除くことにより、それぞれの地域で自分達の文化や歴史に独自性を持てるようになり、彼らが在りたい姿になれる空間が生まれた。しかし1970年代以降、新自由主義が起こり、世界銀行やIMFのような均質化の動きがますます力を持つようになった。

これらの学者の唱えを通して、社会構造がヒエラルキーによって垂直に捉えられるのではなく(発展的時間の理論に基づくのではなく)、人々が異なることを許され(均質化されるのではなく)、それぞれが平等な権利を持つような水平な社会を私は望むようになった。


水平な世界

社会の構造が垂直ではなく、水平であるとはどういうことだろうか。ヒエラルキーが存在せず、各人が平等であるような社会だろうか。このタイトルにある「水平な世界」について、さらに二人の学者を迎え入れて説明していく。

まず、エスコバルは "サバルタン"(subaltern)という言葉を紹介する。これは、抑圧された人々が抑圧から生き延びることによって得る知恵である。エスコバルは視点の転換の必要性を強調し、「この再解釈は、近代の裏側、つまり、近代という考えが敬遠し、抑圧し、不可視にし、失格とした、世界各地のサバルタン=知識や文化的実践の断片を可視化する。」と述べている。(エスコバル、210)エスコバルの目的は、資本主義とグローバリゼーションに対する人々の認識を解体し、国家vs国家、あるいは大規模な集団による解放戦争の概念を変革することである。

初めてサバルタンという言葉を知ったとき、私はとてもワクワクした。これはヒエラルキーを打破する可能性があり、各個人が平等な権利を持てると思ったからだ。

「抑圧された人々の知識(サバルタン)は、どのように評価されるのだろうか。そもそも認識されうるだろうのか。」

このクラスメイトがした質問に、私は考え続けさせられた。
どんなに考えても、出発点に振り戻されたような感覚に陥った。

そんなとき、スピヴァクの言説が私を救ったのだった。
スピヴァクが言及しているように、抑圧と闘い、サバルタンの知識を活用し、あるいは認められ、評価されるためには、根本的な変化をもたらす必要がある。その一つの方法として、人文学の教育者達は、抑圧された人々と抑圧した人々も含めた大きなひとつの集団を作るという重要な仕事に真剣に取り組む必要があると述べている。(スピヴァク2004、537)スピヴァクがここで強調しているのは、特権を持つ人々、つまり植民地支配者と、抑圧の犠牲者の間に大きなひとつの集団を構築しようとしなければならないということである。

これを達成するために、スピヴァクは教育、特に人文科学と芸術の分野に大きな希望を見出す。抑圧された人々が主に暗記するように教育されているのに対し、欧米諸国の人々は主に技術的なことを学び、主にSTEM科目(Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字をとった言葉で、教育分野を総称したもの)に多くの時間を費やすことによって、資本主義で成功するように教育されている。抑圧する側も抑圧される側も、協同するためには、想像力、共感力、創造力、批判的思考などを養う人文学と芸術が必要なのだ。 これは私にとって、水平な社会構造を実現する上で、大きな希望となった。

スピヴァクは、大きなひとつの集団を作ることについてもっと言及している。彼女は、自分が部屋を出るときには必ず電気を消すことに責任を感じている。それは、彼女がこの行動を取るとき、自分がより大きな集団(抑圧された側もした側も協同するひとつの集団)の一部であると強く感じるからである。自分と深く繋がっているコミュニティも、自分から遠く離れた集団も含めて、この大きなひとつの集団との繋がりを感じ、理解しているという状態が、スピヴァクの描く世界である。

これら全て、誰もが平等な権利を持つ水平的な構造として社会を捉えるために、実現するために、私に大いなる自信と希望を与えてくれる理論だった。


最後に

ここまでずーっと理論の話をしてきたので、かなり理想的というか、頭の中の空想の世界の話で分かりにくかった、何が起こってるか掴みづらかったかもしれません。次回は、この理論を用いて、日本をケーススタディ(実際に起こった事例や出来事などを詳しく調べる方法)として紹介していきます!長い文章を読んで下さり、本当にありがとうございました!!


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