3年間のバスケノートに詰まったもの
部屋の掃除をしていたら高校時代に毎日書いていたバスケノートが出てきたから、少し広げてみることにした
3年間で10冊以上もあるノート
その中にはたくさんの思い出が詰まっている
それはもちろん厳しい練習の中にも仲間との楽しい思い出もたくさんある
今思えば辛かったことも笑い話だが、その当時は本当に生きるか死ぬかのような地獄の毎日を送っていた
私は入学当初からとにかく怪我の連続で、練習しては怪我をしての繰り返し
同級生たちはどんどん先輩たちと試合に出て経験していく横で、1人ぽつんと置いて行かれたような感覚だったのをとても鮮明に覚えている
先生には相手にもされない、見向きもされない、高校生ながらに私は期待されていないんだなというのを感じていた
それでもこつこつと頑張っていればという思いで必死に食らいついていた時、事件は起きた
忘れもしない高校1年生の冬
練習試合で相手と衝突を起こして、こけた
その瞬間私は察した
立ちあがろうとしても力が入らない、ひどい痛み
歩けない
あ〜、まただ、この感覚は絶対そうだ
私は中学3年生の時に半月板損傷という膝の怪我をして手術をした、その時と逆の膝で全く同じ違和感と痛みを感じていた
いつもは怖くて仕方がない「立て!!!」とコートの外から怒鳴る先生の声が怖いと感じないくらいこの先のことが怖かった、絶望だった
この冬が明けてすぐ新チームの試合があるというのにまた遅れをとるのか、いや、この体ではもう復帰は無理なのではないかと色々なことが頭をぐるぐるした
先生には痛いということを言い出せず、そのままプレーを続行することを選んだ、なにしろ遅れを取りたくないし、コートに立てなくなることが嫌だったからというのもある
気持ちだけでなんとかなるものではないぞと訴えてくるような激痛に必死に目を瞑って歯を食いしばってなんとか試合を迎えた
しかしそれは間違っていたことに気付かされた
コートに立ったはいいものの、練習で無理をした膝に激痛が走り動けない、薬も効かない
私は試合の途中で崩れ落ちて下げられた
そんなメンタルボロボロの私に追い打ちをかけるように「辞めた方がいいんじゃないか」と吐き捨てた先生の言葉が刺さった
試合が終わってすぐに親に泣きながら、病院に行かせてくれと頼んだ
親も何かを悟ったのか泣いていた
後日病院に行くとやっぱり半月板損傷を告げられた
違うんじゃないかという少しばかりの期待が打ち砕かれて、何も言葉が出なかった
手術の怖さとしんどさを知っているからこそ、すぐに復帰を目指すという気持ちにはなれず、手術するかどうかの返事はまたにすることにした
私はそこからバスケを見るのも嫌で、部活にも行けなかった、自分がバスケをできない現実を受け入れたくなかった、怖かったのだ
部活がない毎日はゆっくり寝れるし身体も休まるし快適だったが、何をしていても何か足りない感じがして自分の中のバスケの存在の大きさを実感してばかりだった
何もない空白の毎日は楽かもしれない
でも少なからずまだやれるチャンスがあるのに逃げてもいいのか、私はそれで納得するのか、本当に後悔をしないのか
たくさん泣いて泣いて泣きまくって悩みに悩んだ私に残った気持ちは
「バスケがしたい、コートに立ちたい」
どんだけバスケが好きなんだよ、とツッコミたくなるけど本当にバスケが好きなんです
それは今もその当時も
復帰することを決意した高校2年生の春
人生2回目の手術をした
ここからが私の本当の闘いなのだ
(次の投稿へ)
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