春の匂いが運ぶ記憶
春の夜。
昼間、太陽の光をたくさん浴びた道路の匂い。
咲いた花のかすかな匂い。
冬の名残を感じる少し冷たい風の匂い。
春の匂いが運んでくる遠い記憶。
いつかの4月、夜11時前。
私は渋谷駅の真ん中で彼を待っていた。
飲み会帰りで騒ぐ人たちを横に見ながら、山手線に乗る。
会社終わり、みんなが家路に向かうのに、
私は1番のオシャレをして、渋谷に向かっていた。
渋谷は終電近くになっても、たくさんの人がいる。もうすぐ日が変わるとは思えないほど、たくさんの人たちで溢れかえっている。
彼との待ち合わせ時間まであと15分。
ハチ公横の喫煙所でタバコを吸いたいけど、喫煙所に入ったらせっかくの洗い立ての髪の毛がタバコくさくなるから我慢する。
わかりやすい場所で待っていれば、キャッチやら酔っ払いやらに絡まれる。
私は少し建物の影になった場所に隠れるように待っていた。
終電近くになり、吸い込まれるように駅に入っていくたくさんの人たち。
私はその中から出てくる、たった1人の大好きな人を待っていた。
彼が好きだという白いワンピースを着てきたけど、まだ4月の夜には寒かったかも。
少し後悔するけど、彼に会える嬉しさでそんなこともすぐに忘れる。
彼からの連絡は「今日くる?」だけ。
細かい場所も、時間も、いつも決めてなかった。
彼の仕事が終わる頃、渋谷で待ち合わせするのが私たちの日課だった。
彼と明日の朝まで一緒にいられる。
彼の仕事がはじまる朝10時、その1時間前までは私が彼と過ごせる時間。
彼がすぐに寝てしまっても、私は彼と2人の時間を共有できるだけで幸せだった。
仕事の終わりしか会えなくても、デートなんてできなくても、ホテルにしか行けなくてもいい。
彼が私に会いたいと思ってくれる。それだけで私は幸せだった。
彼に会える前はワクワクして、嬉しくて、私の身体中の全ての細胞が喜んでいるのがわかる。
彼は私のすべてだった。
初めて会った時から、彼のことしか考えられなかったし、彼のことが大好きだった。
10年以上経った今でも、彼の顔だけは忘れない。
彼の手や彼の声、彼の髭の生え方さえも覚えている。
毎年、春の夜の匂いが運んでくる彼の記憶。
いつまでも忘れられない遠い記憶。
人混みの中、たった1人の大好きな彼を見つけた。
私は思わず笑顔になって、彼の元へ走る。
お気に入りの白いワンピースをなびかせながら。
春の夜風に、洗いたてのシャンプーの匂いを混ぜて。
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