思いつき宮﨑駿鳥山明論

ムスカ:終点が玉座の間とは上出来じゃないか。ここへ来い。
シータ:これが玉座ですって。ここはお墓よ。あなたとわたしの。国が亡びたのに王だけ生きているなんて滑稽だわ。あなたに石は渡さない。あなたはここからでることもできずに、わたしと死ぬの。
今は、ラピュタがなぜ滅びたのかわたしよくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。
土に根を下ろし、風とともに生きよう。種とともに冬をこえ、鳥とともに春を歌おう。
どんなに恐ろしい武器をもっても、たくさんの可哀そうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。
ムスカ:ラピュタは滅びぬ。何度でも甦るさ。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ。
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バルス前の有名なシーン。


ここでムスカの言ってる「ラピュタの力(=人類の夢)」って2つあると思う。


①「ラピュタの雷」の圧倒的な破壊力
②飛行石の飛翔力


…なんだ、かめはめ波と舞空術のことじゃないか。


つまり、ドラゴンボールはこの2つの「人類の夢」を、極めて高い純度で描いたがゆえに、世界的コンテンツにまで成長したのだ!


でも、宮崎駿はこの力を「滅びをもたらすもの」として否定する。


力を抑制する倫理が働くのが宮崎駿。
一切抑制せずに銀河系吹っ飛ばしたり光の速さ並の飛翔力にまで突っ走るのが鳥山明。


個人的には(この点に関しては)鳥山明の感性のほうが圧倒的に好きだ。
だって舞空術(人間飛行石)やかめはめ波(手から出すラピュタの雷)自在に使えたら楽しいじゃない(笑)


そういう力を持ったり使ったりすることと、それを人を支配するための道具として使うのは別のことなんだけど、シータ(宮崎駿)はどちらも否定してる。


「人が好き勝手にできる巨大すぎる力は、それだけで否定すべき呪われたものなのだ」ってのが宮崎駿の立場。


ムリヤリ図式化すると
宮崎駿…抑制なき力の否定
鳥山明…抑制なき力の肯定
となる。


たしかに「現実的に」考えれば、そんな巨大な力を私的所有してたら「とるにたらぬ人間どもよ!支配してやるぞッ!!」ってなっちゃうだろうし、力を制御しきれなくて世界(人類)を滅ぼしちゃう気もするから、宮崎派の人達がそれを否定したくなるのもわからんでもない。


しかし鳥山明のものすごさは「世界を滅ぼしてしまうから巨大な力を否定する」ではなく「強大な力で滅びてしまう(脆弱な)世界を否定する」という、さらなる「人類の夢」を描いたところにある!


「世界や人類が滅びるのなら生き返らせればいいじゃない」(ドラゴンボールでの復活)
或いは
「世界が滅びても死後の世界で楽しめばいいじゃない」(鳥山作品における、現世とあまり変わらない楽しそうなあの世の世界)


これは「人類の夢」ってよりも「子供の夢」だな。
いや、そもそもムスカの言う「人類の夢」って本来、現実的条件を一切無視した「子供の夢」のはずなのだ!


「現実的」なことを言う大人を批判する人のほとんどは、鳥山的水準の子供目線から見れば大人も大人。
もちろんそれはそれでいいのだけど、自分としては鳥山目線のラディカルさからの大人(常識)批判をしたいと思う。


現代の巨大な分業社会においても、この仕事に適した人材ってなかなかいないみたいなので…😅


※現実で鳥山明的子供の夢を実現させるとヤバいことになるからフィクションの世界でのみ実現が許されてるんだけど、フィクションも現実に汚染されてきたおかげで鳥山明的な「現実のタガの外れた作品」を生み出しづらくなってるように思える(異世界モノやなろう系はちょっと意味が違う。)


Q&Aコーナー

Q.世界や人類を復活させるドラゴンボール(やそれを創造した神様)が滅びた場合はどうするの?
A,バックアップ(別の神様候補のナメック星人)を用意しているので無問題!

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