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『007 NoTimeToDie』肯定的なネタバレ感想

公開後1ヶ月経ち、そろそろネタバレ感想を出してもよさげなのでアップいたしました。よければお付き合いください。
本作への評価は色々と出そろってきていますが、私はとても好い印象を覚えました。007シリーズのファンはともかく、ダニエル-ボンド好きなら見て損はありません。あの刺々しく厳めしいダニエル-ボンドシリーズが、まさかこんなにハートフルな終わりを迎えるとは、『カジノ・ロワイヤル』や『慰めの報酬』を見たとき、誰も想像だにしなかったのではないでしょうか?
特に本作の終盤は、ダニエル・クレイグ自身がジェームズ・ボンドというキャラクターに別れを告げているかのよう。見ているこちらも「ダニエル-ボンドさんおつかれさま」と思わされるような、そういう映画になっています。
また、理由は後述しますが、やはり基本的には前作『Spectre』でダニエル-ボンドシリーズは終わっている感が強く、いわば本作全体がこのシリーズのエピローグなのだという印象を受けました。その意味では本作は、見ても見なくてもよい作品、あるいは、シリーズ最後の作品として勘定してもしなくてもよい作品、と言えるかもしれません。

では本作の存在価値は何か、といえば要するに「もうダニエル-ボンドシリーズは本当の本当に終わりですよ」ときっぱり宣言している作品であることです。
ということで以下、視聴済の方向けのネタバレ感想です。

アヴァンがおもしろい

細かいことはぬきにして、まず本作はアヴァンタイトルとなるシークエンスが素晴らしい。

本稿では、オープニングテーマ曲が流れる前のシークエンスを”アヴァン”と呼ぶことにする。ダニエル-ボンドシリーズのアヴァンはいつも少し実験的な作り方を取り入れつつ、気合の入ったものになっていて、それだけでも充分に映画1本を見た気分にさせてくれる。特に前作『Spectre』のアヴァンは何度見ても惹き込まれるが、本作のアヴァンも前作のそれに劣らず素晴らしく、しかも2つもあるのだ。アヴァンが2本あるというのは、ダニエル・クレイグ版007としては初である。

その2つのアヴァンは、テイストもジャンルも異なる2本の映画であるかのように独立して起承転結しており、それだけに密度も濃い。1つはマドレーヌの自我に深く刻まれている幼少期の記憶を描くシークエンスであり、1つは大人になった彼女がボンドと別れることになった経緯を描くシークエンスである。その2つを「水中」というテーマで結び付けているのも、後々のことを考えると非常に計算された仕掛けになっていると言える。
後々というのはつまり、「本作のボスキャラ"サフィン"が、水中から助けを請う幼少期のマドレーヌの姿にすっかり憑りつかれている」そして「そのサフィンの存在を、現在のマドレーヌも振り切ることができていない」という事実を観客が知ってから、という意味である。

さてその水中演出の面白さはやはり、ヴェスパーの墓の爆発でボンドが陥る一時的な難聴状態の音響演出に凝縮されていよう。爆発のショックで眩暈や聴覚障害が生じている様を"ピーーッ"という効果音で表現することは一般的である。だが本作は、深海に沈没していく戦艦の内壁が歪んでいくような、くぐもった強烈な水圧音を、そうした難聴表現として前面に響かせる。この2つ目のアヴァンは「大人のマドレーヌが海中から顔を出すシーン」から開始されており、これはもちろん、最初のアヴァンの終わりで「幼少期のマドレーヌがサフィンによって湖から引き上げられるカット」から続いている。

この"水中"というものが表現しているのは......
・マドレーヌは物理的にはサフィンによって湖から引き上げられたが、むしろそれゆえに、彼女の魂は暗い水中に囚われたまま誰からも救ってもらえておらず、彼女は未だ本当の意味では生きてはいない
・一方サフィンも、家族の復讐相手として殺すべきマドレーヌを、思わず救い出してしまい、今更殺すこともできないままであり、遂げられない復讐心だけが行き場なく彼の魂に憑りいている
というような、2人の生存を深く形づくるトラウマの重なりである。したがって、ボンドが経験している「難聴=水中」という状態はつまり、マドレーヌとサフィンとの生存が絡まりあっているこのやっかいな過去(水中)へと、ヴェスパーの墓の爆発を契機として、彼自身もまた巻き込まれていく様を表現していることになる。
......のだが、さすがにこの難聴シーンを見ているときには、そこまでは観客の理解が追い付かないように思われる。本編の中盤辺りで、大人のマドレーヌの所へ訪ねてきたサフィンから、「氷床下の水中から助けを求めている幼いマドレーヌの姿に、まだ自分が魅入られている」という告白を聞いて漸く、この水中というモチーフに上記のような意味合いが込められていることが判然とするのであって、同時にアヴァンの印象的な難聴表現の意味性にも気が付けるのである。正直、この水中の意味合いはもう少し早く観客側にはっきりと認識させてほしいところだが、逆に言えば、本編中盤に至ってもなお容易に思い出せるほど、冒頭の難聴演出は印象的なのである。

そして、なまっていた身体を一気に開放するかの如く、橋の上からジャンプすると共に難聴状態から回復したボンドは、厳つく硬直したいつものダニエル-ボンド顔でマドレーヌの元へ戻り、それと呼応するかのように、怪しくくぐもった水中音も、ボンドカー内外へ響き渡る銃撃の怒号へとシフトしていく。そうしてマドレーヌはボンドと別れ、007としての本作が始まるのだ。

付記すると、最初のアヴァンで、水中のマドレーヌに銃弾が浴びせられるシーンも幻想的で美しい。おそらく本編であの演出を行うとかなり違和感が生じるだろう。いくら主人公(?)とは言え、あの距離でサブマシンガンを乱射されて掠りもしないというのは、アクション映画としてもかなり奇異な出来事である。しかし、そこはアヴァン特有のマジカルな時空性のおかげか、観客側のノリもあるかもしれないが、後のボンドの難聴表現と同等の、しかしこちらはビジュアルとして印象深い幻想的なシーンとして、はっきりと成立している。

本作全体が、シリーズのエピローグ

本作の主役はマドレーヌである。というと言い過ぎかもしれないが、実際かなりその感触は強い。というのも、最初のアヴァンの主役がそもそも彼女なのである。しかもそこにはジェームズ・ボンドは一切登場しない。私は007シリーズ全般を見ているわけではないが、アヴァンにボンドが登場しないというのは、かなりのレアケースではないだろうか?
そして2つ目のアヴァンの最後も、1枚1枚の車窓(これはフィルムの1コマ1コマに相当する)の向こうへ消えていくボンドを見続けようとする、マドレーヌの視点で描かれている。こんなにも映画(フィルム)的な主観ショットにはなかなかお目にかかれないのではないだろうか。要するに、「皆様この映画は、フィルムの向こうへ消えていくジェームズ・ボンドを見つめ続けようとする、マドレーヌの視点でお送りしております」という非常にわかりやすい、かつ面白いシーンである。

さて本編の内容もマドレーヌが軸になっており、その軸を挟むことで漸く「ボンドvsサフィン」という鏡像的関係が成立する作りになっている。つまりマドレーヌなしでは、ボンドとサフィンとの間には何の関係性もない。言い換えれば、ボンドvsサフィンというスパイアクション映画としての主題をそもそも本作で成立させているのが、マドレーヌなのである。

そうしてボンドもサフィンも、スペクターたちもブロフェルドも消えたラストシーンでは、(冒頭でボンドの座っていた)車の運転席にマドレーヌが、その横には娘が座り、彼女たちがボンドという存在の証をこの世で引き継いでいく、という撮り方になっている。
こうした点に顕著であるが、本作全体の流れは明らかに「幼少期ーボンドと生活している期間ー彼と別れ一人で生活している期間ー彼との再開ー彼亡き後」というマドレーヌのシチュエーション変化に沿って作られている。つまるところ本作は、「マドレーヌの人生の中に、ジェームズ・ボンドという人物が確かに存在しました」という映画なのである。

もちろん、ボンドが脇役に甘んじているというわけではなく、彼自身はいつものごとく大暴れしている。主役感の弱さは、上記の通り、敵サフィンとの関係性の脆弱さに由来する。ボンド側から見たサフィンとの敵対関係は、正式な任務として成立しているわけでも、個人的な感情や因果によって生じているわけでもなく、強いて言うなら「成り行き上そうなった」という類のものである。

しかしサフィンから見るなら非常にわかりやすい。
・彼の持つマドレーヌへの執着心が屈折した先にボンドがいる
・マドレーヌとボンドのつながりを絶対的に証明する存在として、彼女ら二人の娘がいる
・ボンドへ屈折ししているサフィンの執着心は、娘への占有欲にも変質する
といった結果、サフィンの内に「娘を奪ってボンドを屈服させた後に、ボンドの存在を消滅させる」という行動原理が生じている。
(こう箇条書き的に説明すると煩雑に思えるかもしれないが、映画を見ていれば自然と理解できる)

このようなサフィンの行動原理は、要するにボンドへのある種の被害妄想である。そして被害妄想を向けられる者が往々にしてそうであるように、ボンド自身の観点からではなぜそんな執念を向けられているのかよくわからないのだ。
そのため観客としては、ボンド自身がどういう理由でサフィンを敵として認識しているのか(任務上?私怨?)、どんな敵として見なしているのか(テロリスト?かつての女の仇?因縁の相手?)が不明瞭なまま、即ちボンドvsサフィンという構図がどうにも実像を結ばないまま、とにかく「マドレーヌとその娘を助けるためにボンドが行動している」という状況を見せられることになっている。無論、物語設定上は「サフィンをどうにかしないと世界がやばい」という状況をボンドも認識しているのだが、ボンド自身の行動原理に直結する存在としてサフィンが認識されている感は非常に薄い。

そのため、「ジェームズ・ボンドという男が、任務を理由に(税金使いたい放題で)腕白に大暴れしてターゲットを追い、周囲の人間はそれに振り回されつつ、なんだかんだで協力する」という007感はかなり抑制されており、代わりに、マドレーヌが、ボンドという存在によって、忌まわしい過去(サフィン)から解放されるというストーリーが前面に出ている。これが、どんなにボンドが活躍しても"007本編"という感触が薄いままな理由である。
しかしむしろそれゆえに、本作は「ダニエル-ボンドを送り出すエピローグ」という、007シリーズ内でも特異であろう位置を獲得しているのである。

ボンドドウターとボンド、そしてマドレーヌ

ジェームズ・ボンドは最期の瞬間までボンドである。これは、「ボンドは父親という存在にはならない」という演出によって明示されている。いまさら言うまでもないが、ジェームズ・ボンドは男の幻想・妄想を詰め込みまくったキャラクターである。つまり007というシリーズでは、ボンドは色々な女性をとっかえひっかえしなくてはならず、決して特定の1人の女性との関係に固定化されてはならないのである。そしてこれも言うまでもなく、子どもという存在は、その固定化を実現する要素である。
要するに率直に言えば、彼が「マドレーヌとの間の子を自分の娘だと認め、自分を父親として認めること」はつまり、彼がジェームズ・ボンドという存在を止めることを意味するわけである。

もちろん、あの金髪・青い目の娘は物語上も、そしてオープニングシークエンスの終わりで腹を押さえるマドレーヌのしぐさからも、ボンドの子であることは間違いないだろう。
だがここまで条件がそろい、しかも、「娘の青い目に言及しつつボンドが死に臨む」という既定路線シーンまで実行されているにも関わらず、ボンドは依然として父親に見えないのである。理由は判然としないがおそらく、「マドレーヌを自分の妻として彼自身が自覚するカットやシーンがない」ことが大きな要因かと思われる。同時に、マドレーヌもボンドを"夫"として認識している素振りはない。

つまり一言でいえば、"ボンド=夫・父親/マドレーヌ=妻"という見え方がしないように、うまいこと回避されているのである。明白に主張されているのは、「マドレーヌが娘の母親であること」・「その娘がボンドの子であると、マドレーヌが認識していること」である。
そしてボンドの口からも、その娘を自分の子だと認識していたことは告白される。通常、「その娘は自分の子である」と男が言えば、即ち「その娘の父親は自分である」とその男が一種の所有権を主張しているように見えるはずである。だが繰り返しになるが、本作は極めて巧妙にそう見えないように作られている。流石は"True Detective"という超傑作を作り出した監督、「ボンドドウターを明確に成立させながら、ボンドを父親にしない」という奇妙奇天烈な演出をやってのけているのであり、私にはその演出方法を細かに分析することはできないので、この点をこれ以上深堀りすることは避けるが、とにかく、ボンドは父親になっていないのだ。確かなのは、ボンドは死の瞬間までボンドであったということである。

余談かもしれないが本作には、本気のアクションを鮮やかに見せてくれるボンドガールが2人も登場する。彼女たちがボンドガールであり得るのはなぜか、と言えばもちろん先述したとおり、ボンドがボンドであるからであり、誰かの夫や父親ではないからである。
そしてもっと言えば、マドレーヌの「ボンドガールではないし、ボンドワイフにもなり得ない」にもかかわらず主役級ポジションにある女性、という状態は、やはりボンド映画内にいる限り「非ボンドガール」「非ボンドワイフ」という否定的な認識しかされ得ない。だが本作はこうした位置づけを壊すのではなく、うまく活かすことで、ダニエル-ボンド映画を美しく終わらせている。つまり、ボンドと共に過去(サフィン)からも解放されたマドレーヌが、ボンド亡き世界(つまりボンド映画であることを止めた作品世界)の中で本当の自分として生きていくという、全きハッピーエンド演出で、「ダニエル-ボンド映画の終わり」を肯定的に見せているのである。007というマッチョ映画の終わりとして、これ以上綺麗な描き方はそう思い付くものではないだろう。プロットの立て方というか、シナリオの設計の仕方というか、こういう丸く収め方には本当に感心してしまった。

ダニエルとボンド

終盤、ワンカット(に見える)で何度も戦闘を繰り返しつつ、制御棟の長い階段を登り切ったボンドは、Qに通信する。その時、ほぼ正面からクロースアップで捉えられている彼の顔、これは最高のカットである。「もうほんとに(こんな役は)勘弁してくれ」というヘっトヘトな彼の表情には、もはやジェームズ・ボンドという仮面が剥げて、ダニエル・クレイグが出てきてしまっているかのようなのだ。(見間違えかもしれないが、ちょっと泣いてなかっただろうか...?)
『フレンチコネクション』のジーン・ハックマンのように、「そういう演技をしているのか、本気でイラついたり疲弊しているのか」、そのギリギリの境界に役者が立っていることがある。しかもそれが、物語上の状況設定に完全にフィットしている。ときどき映画作品は、こういう凄い局面を捉えている。ヘトヘトなダニエル-ボンドの顔に映っているのも、この類の瞬間だ。
思えば一作目『カジノロ・ワイヤル』で、ボンドはヴェスパーに「君に鎧を脱がされた」とか言っていたが、その十数年後にまさかここまで素に見える顔をさらしてくれるとは思わなかった。しかもその「鎧を脱ぐ」過程が、ボンドガールとの絡みでもなんでもなく、「ひたすら戦闘しながら階段を登るシーン」だというのだから...もう何と言うかあっぱれである。

そしてそれ(とサフィンの処理)を経て、マドレーヌに最後の通信を行うシーンも、同様にほぼ正面からの顔のクロースアップで編集されている。「君は僕に大切な記憶をくれた」とかそういったことを、そのクロースアップで語り続けるダニエル(-ボンド)は、まるで鏡に映ったボンド自身の顔にそうした言葉を届けているようにも見える。マドレーヌというキャラクターが、ボンドとサフィンを鏡像として成立させる装置だったことも、効いているのかもしれない。ここでもやはり、ボンドの言葉を聞いてくれる彼女こそが、ボンドがボンド自身に語りかける(ようにも見える)重要なカットを作り出す基軸なのだ。
そして彼は「青い眼」と発しながら、つまり「マドレーヌの娘が、自分の娘でもあることを認識していること」を明言しながら、白い画面の中に消えていくのである。ジェームズ・ボンドの向こうにダニエル・クレイグが見えつつ、「父親にならない」というボンドの条件から逸脱していくかのような言葉を発し、しかも、「ダニエル-ボンドが存在した証=青い眼の娘」を作品世界に残していく...という、ダニエル-ボンドというこのシリーズでしか起き得ないであろう奇跡的なカットである。正直クロースアップの連続が過ぎる気もしなくはなかったが、これだけ意味合いが詰まっているので見ていられる。

おわりに

『カジノ・ロワイヤル』の前まで、ダニエル・クレイグにはどちらかというと「変な役で出てくる、線の細めの役者」というイメージも強かったのではないでしょうか(フランシス・ベーコンの愛人役とか)。その彼が、青い眼でブロンドのジェームズ・ボンドを演じることになった当時、各所から非難されていて、ずいぶん気の毒に思った記憶があります。それが007シリーズの中に、その青い眼をボンドの象徴としてしっかりと刻んで去っていくのだから、すごい役者さんだなと思わずにはおれませんでした。もし『カジノ・ロワイヤル』から見ていて、まだ本作を見ていない方がいれば、物語上のネタバレなど些細な問題なので、ぜひ劇場で見ておくことをおすすめします。

ついでに言うと、アマゾンプライムで見れた、ダニエル・クレイグのドキュメンタリーもおもしろかったです。特に『カジノ・ロワイヤル』発表当初、嬉々として彼を非難しまくっていたマスコミ連中が、彼の筋肉を見た瞬間絶賛し始める流れはおもしろすぎます。タイトルは忘れましたが、「007 ドキュメンタリー」とかで検索すれば出てくるでしょうからぜひ見てみてください。

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