文字を持たなかった昭和 二十六(戦後の紡績業と結核―わたしの課題)

 母ミヨ子のストーリーに戻る前にもうひとつ。

 終戦後、20歳前後のミヨ子が佐賀の紡績工場へ働きに行き、結核に罹って帰郷せざるを得なくなったこと郷里の近くの病院に入院し治療したことは書いた。また、母親が結核に罹っていたことを知ったときの、「戦後なのに結核?」と驚いたわたしの思いも。

 これらを書くにあたって、働いていた工場や戦後の紡績業について多少調べたが、戦後の紡績業と職業病としての結核の関係までは調べられていない(軽工業が中心だった戦前の、女工の結核罹患についてまとめた文献は散見される)。

 近代以降の結核の死亡率などをまとめた資料はネット上でいくつか見つかった。それらを簡単にまとめると以下のような内容になる(素人が理解できた範囲です)。

・結核の原因は結核菌の感染。
・明治期に工業製品(主に繊維製品)の大量生産が始まり、工員(主に女工)の間で感染、流行が広がった。多数の工員が集まって作業、生活する環境、低栄養(抵抗力、免疫力が低い)、不十分な衛生などが原因。有効な治療法も確立されていなかった。
・大正期に流行はやや収まるが、昭和の戦争期に再び上昇し終戦まで続く。明治期に比べ戦争期の罹患者や死亡者は男性が多く、原因は重工業従事や戦争。
・予防としてのBCG接種は1942年に開始。
・戦争の終結(平和の回復)により戦後の死亡率は激減、ほぼ同時に化学療法(ストレプトマイシン療法)が始まり効果を上げた。1950年に結核治療薬が国産化、並行して結核予防法など制度の整備が進められた。
・1950年代後半の死亡率は、人口10万人比で50人にまで急減(ピーク時は終戦時の同250人弱。スペイン風邪流行時を除く)、1970年には同20人程度、その後も減少を続けゼロに近づいた状態が継続している。

 平たくいうと結核は、不衛生で人が密集するような労働・生活環境で、過重労働などで体力を消耗する一方、栄養が十分でなく、有効な医療手段がない場合、感染、流行しやすくなる。当然これらと逆の条件があれば、感染しても治りやすいし、流行も起きない。――つまり、どの感染症とも共有するわけですね。新型コロナウィルス感染症の渦中にある我々には、ある意味理解しやすい。

 わたしの疑問は、戦後いろいろな面で復興が進み、生活水準が向上し、医療の制度や技術も整備されていく中で、なぜ母ミヨ子が、当時なりに作業環境が整っていたであろう紡績上場で結核に罹ったのか、という点なのだが、見つけられた資料からは手がかりが見えない。

 もっとも、公害や長時間労働といった問題は経済成長を遂げる中で浮かび上がってきたわけで、それまでは「まず食べられること」「より豊かになること」が優先され、人体や環境への影響は二の次にされたのだから、表に見えない問題も数多くあったことだろう。

 「戦後の紡績業と結核」についてはわたし個人の研究テーマ、というほど大層なものでもないが折に触れ気を付けておく課題として、ぼちぼち取り組みたい。
 
《主な参考》
人口動態統計からみた20世紀の結核対策
日本の結核流行と対策の100年 

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