最近のミヨ子さん(ビデオ通話② )

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 たまに、母の近況をメモ代わりに書いているが、前回から2週間空けて、8月上旬に再びトライしたビデオ通話の様子を記録しておきたい。今回も義姉のスマホを通しての会話だ。

 画面の中のミヨ子さんは、涼し気なブラウスを着てくつろいでいる。前回と違い、スマホは手に持っていない。義姉がスマホスタンドに置いてくれたようだ。

 母がしきりに「目が見えづらい」と言う。右目の瞼が以前より下がってきている気がするがそのせいだろうか。「右目?」と聞くと「そう」。目は母の母、つまり祖母もよくなかったし、母自身以前から眼科に通っている。年齢的なものもありそうだ。

 先月わたしは、所用で関西方面へ行った機会に姫路城を見学し、そのついでにお城の絵はがきを母宛に出しておいた。絵はがきはすでに届き「はがき、読んでるよ」と義姉からも連絡をもらっていた。
「この前お城を見に行ったよ」とわたし。
「あら、そう。どこのお城?」と母。
「姫路城。お城の絵はがきもお母さんに出したの、届いてるでしょう?」

 母の記憶を試してはいけない、と思ってはいるが、つい最近の話題を出してしまう。
「返事、いつも出さなくて悪いねぇ……」
この時点で、母の思考は「手紙をもらうばかりで、返事を出せなくて申し訳ない」という思考に、回路が切り替わったようだ。想定されたパターンだが、こちらも切なくなる。

 そして
「長生きするばかりで、これといって役に立てなくて」
「若い頃たくさん苦労したから、(思いがけず早くに亡くなった)お父さんや、じいちゃん、ばあちゃんたちも『自分たちの分まで長生きしなさい』って、言ってくれてるんだと思うよ」
「そうかね? そうかもねぇ」

 このあたりで、ビデオ通話が切れてしまった。わたしのスマホの電源が落ちたのだ。バッテリーの状態を確認しておかなかったせいだ。急いで固定電話でかけ直す。そしてひとしきり、どうということもない話をしたあとで
「また話そうね。こちらからかけられないときは、そっちからかけてね」と母。

 ほんの2、3年前までは、母が兄宅でひとりのとき、固定電話からわたしのスマホにかけてくることがあった。そんな時わたしはすぐに折り返した。わたしも、家人がいなそうな時間帯を見計らって母にかけるときもあった。ひとりのときの方がお互い気楽に話せるからだ。

 そんな習慣もあって、2年前にスマホを買い替えたときも母と通話しやすそうなプランを選んだのだが、その頃には母が自分で電話をかけることはなくなっていた。電話のかけかたが、よくわからなくなったのだと思う。実家は長いこといわゆる「黒電話」だったので、もともと兄宅のプッシュ式の電話機は使いづらそうだった。それでも、わたしの携帯番号を大きく書いたメモを手紙に入れたり、会ったときに渡したりして、電話での会話を確保してきたのだが。

 もう母がかけてくることはないのに、自分からかけていたときの記憶はあるのだろう。娘としてはただ切ない。
「わかった、またかけるね」とわたし。
「まちっと、近かればねぇ(もう少し、近くに〈住んで〉いたらねぇ)」

 この一言は、わたしが進学して以降県内で生活することがなくなってから、何十回母の口から出ただろう。おそらく、ずっとずっとそう思い続けてきたに違いない。
「近くにいたら、毎日喧嘩してるかもよ。兄ちゃんからしょっちゅう叱られるでしょ」
「そうかもね。よく叱られる。けっこう厳しいことを言うんだよ」
「(わたしは)遠くにいるからやさしくできるのかもよ」

 最後の一言は、半分は自分に聞かせているようなものだ。でも、わたしもほんとうはもっと頻繁に会いたいですよ、お母さん。

 ところで、ビデオ通話は音声がついて来ないときがあってもどかしい。ときどき「海外との通話?」と思えるほどのタイムラグがある。母もわたしも、電話のほうが話しやすいのは確かだ。とくに母は固定電話のほうが話しやすそうだ。

 でもビデオ通話は表情がわかるのがうれしい。電話であれ、ビデオ通話であれ、母と直接話せる間にできる限り話しておきたい、と改めて思う。


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