文字を持たなかった昭和 二百十六(吉太郎の命日)


 昭和45(1970)年11月18日、母ミヨ子の舅、二三四(わたし)の祖父である吉太郎が永眠した。享年92の大往生だった。

 吉太郎の勤勉ぶり、倹約ぶりについては何回か書いた(例「舅」)。農家の何番目かで財産分けに与れなかったため、徒手空拳から土地を買い広げ、田畑や山林、家屋敷まで、一家数人が暮らすには十分な財産を一代で築いた苦労人だ。いずれ吉太郎についても、わかる範囲でその生い立ちやエピソードなどをまとめるつもりだが、ここでは亡くなる前後について書いてみる。

 働き者の吉太郎は身体も丈夫で晩年もよく働いた。体が丈夫で精神力も強かったから、あれだけの財産が築けたとも言える。さすがに若い頃と同じような力仕事はできなかったものの、年をとったからと言って楽隠居を決め込むこともなく、日中は何かと体を動かしていた。

 ただ若い頃から重いものを背負ったり抱えたりしたせいだろう、二三四が物心つく頃には、腰は曲り、膝もまっすぐではなく、いかにも老農夫という体だった。腰が曲がっているから小柄に見えるのだと二三四は思い込んでいたが、もともと小柄だったとも聞く。ミヨ子はのちのちまで
「小柄だったけど重いものもなんでも持って、よく働く人だった」*
と述懐した。

 大阪で万国博覧会が行われ、日本経済のさらなる成長に誰もが希望と確信を抱いていたこの年。半年間の万博が閉幕し、家では秋の取り入れを終え晩秋から冬の野菜の収穫などにいそしんでいた頃、吉太郎は寝込むようになった。

 病気ではなさそうで、かかりつけの医者を呼ぶと「疲れでしょう」との見立てだった。そもそも吉太郎は医者にかかるのが嫌いで――診察や治療を受けることはそのまま出費を意味したから――、めったなことで医者にかからなかった。病院には生涯行ったことはないのではないだろうか。

 まだ健在だった姑のハルが、床についたきりの吉太郎の世話をした。ミヨ子も食事を運んだり、身体を拭いたりを手伝った。

 小学校2年生の二三四はそんな光景を間近で見てはいたが、細かい部分までは覚えていない。ただ、最近まで元気に働いていたじいちゃんが、一日中布団の中にいることが不思議に思えた。

 それは宵の口だったと思う。吉太郎の衰弱は少しずつ進み、その時点ではもう食事もとれず、ただ眠るだけだったのかもしれない。なんとなく家の中の空気が重く、大変なことが起きる予感は子どもなりにあった。だから、自分としては何かが起きてもきちんと対応するつもりでいた。

 なのに、ちょっとうたた寝してしまったようだ。父の二夫(つぎお)が
「起きろ、じいさんが亡くなった」
と大きな声で呼ばわったことをはっきり覚えている。吉太郎は息をしておらず、布団の周りを家族が囲んだ。

 かかりつけの医者が駆け付け――ミヨ子の家が電話を引いたのはその翌年だったから、先に電話を引いた近所のお宅から医者に電話をかけたのだろう――、吉太郎の脈を取り、閉じてしまった瞼を指で開いて小さな懐中電灯で照らし、臨終を告げた。

 みなそれぞれに覚悟していて、取り乱す者はいなかった。ふだんから気丈なハルが
「じいさん、じいさん」
と呼んでいたのが印象的だった。床についてから半月ほどのことだった。

 なにぶん92歳(満年齢では91歳かもしれない)の大往生である。当時のこととて、80歳を超える人は稀で、90歳ともなればびっくりされるほどの長寿だったから、家族を含め周りは「めでたい」くらいの気持ちで送ったのではないだろうか。

 葬儀や埋葬のようすは断片的に覚えているが、命日の今日は大往生の様子だけ書き残しておく。わたしにとっては初めて接した「人の死」であり、死とはどういうものか、最期をどう迎えるべきかについてのひとつの模範、モデルでもあった。小さい子供には近寄りがたく、かわいがられた記憶もほとんどない祖父だったが、たしかに人生の師であり、多様な生き方のひとつを明確に示してくれた。

 あれから50年以上経っても、わたしの中に祖父は生きている。

*鹿児島弁:こまんかいやったどん、ゆぅ働っ人じゃらった。(小さくていらしたけど、よく働く人でいらっしゃった)

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