ミヨ子さん語録「ノブちゃんはよかいやっどねぇ」(後編)

前編より続く)
 ノブちゃん宅のお嫁さんはパート勤めだったと思う。用事のあるなしに関わらずミヨ子さんが「ノブちゃん、いらっしゃる?」と立ち寄ると――郷里の鹿児島弁、とくに女性の場合、親しい間柄でも「いる?」ではなく「いらっしゃる?」と声をかけるのが普通だった――、お嫁さんが家にいればニコニコと出迎えすぐにお茶を淹れてくれた。お嫁さんがいなければ、もちろんノブちゃんがお茶を淹れるのだが、「〇〇ちゃん(お嫁さん)がいま仕事だから(十分おもてなしできずごめんなさい)」というエクスキューズつきだった。

 ノブちゃんの体の調子が悪いときは、お嫁さんが自分の車で病院へ連れて行ってくれる。通院のときも――お年寄りはたいていどこかしらが悪く通院するものだ――、美容院へもお嫁さんが連れて行ってくれるのだ、とミヨ子さんは言っていた。

 かたや、夫を亡くしたミヨ子さんは、通院となると歩いて20分ほどのバス停まで行き、1時間に1本もいないバスを使うか、タクシーを呼ぶしかなかった。息子のカズアキさん(兄)一家は車で30分以上離れたところに住んでおり、まだ手のかかる子供もいた頃で、お嫁さん(義姉)に来てもらうのはためらわれた。カズアキさんが県内で単身赴任の期間はよけいに声をかけられなかった。

 なによりミヨ子さん自身もまだ、杖をつきながらでもバス停まで歩いたり、タクシー会社へ電話をかけたりできた。それでも、すぐ近くに住むノブちゃんが、何かというとお嫁さんを頼りにできることを、ミヨ子さんは羨んでいた。

 正確に言うと、たまに帰省する娘(わたし)に「ノブちゃんが羨ましい」とはっきり言ったわけではない。ミヨ子さんは何につけ、ものごとをあけすけに言うことはめったになかった。しかし、その代わり「それとなく仄めかす」ことはしばしばあった。それが、ふとした折り口に上る「ノブちゃんはよかいやっどねぇ」にも表れていた。

 昭和の40年代から50年代、家庭で使えるような介護用品(それも使い捨ての)など存在せず、介護という概念すらなかった頃。ミヨ子さんは長年仕えてきた舅と姑を、手作りの布おむつと食事でお世話し、看取った〈271〉。その間じゅう「いずれは自分がお嫁さんにお世話してもらう立場になるんだろう」と思っていたはずだ。

 ミヨ子さんのお嫁さんは、10年ほど前、快く同居を受け入れてくれた。わたしはお嫁さんに「母といっしょに住んでもらってありがたい」と、ことあるごとに言ったが、お嫁さんは「介護しているわけじゃないから。いっしょに住んでるだけだよ」と明るく返してくれた。ミヨ子さんの体と頭が少しずつ不自由になっても、同居を続けてくれた。心から感謝している。ミヨ子さんの歩行が困難になってきたために、さすがに介護施設へ入居してもらったという経緯だが、お嫁さんはもう十分以上にお世話してくれたと思う。

 それでも、ミヨ子さんが望んだ老後は、こんな形ではなかっただろう。きっと「ノブちゃんみたいな」晩年を望んでいたんだろうな、とわたしはいつも考える。

〈271〉ミヨ子さんが晩年の舅・姑をお世話したときの状況は、「文字を持たなかった昭和 382 介護(1)当時の状況①」から「404 介護(23) まとめ」で述べた。

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