文字を持たなかった昭和 七十四(ミヨ子の半生―昭和5~40年頃)

 この「文字を持たなかった昭和」では、私の母ミヨ子の半生を生まれた頃から順を追っていくつもりで書き始めた。ミヨ子について知っている範囲、調べられた範囲で順番に。

 ただ、季節の話題や、ミヨ子と直接関係のないことを「ひと休み」「昭和の?〇〇」といったタイトルで寄り道的に書いたりしているうちに、時系列から離れてきた。

 そこで、自分の整理を兼ねてここまでの書いたミヨ子の半生を列記してみる。もともとわたしにとってnoteは、まさにノート的に、自分が書いておきたいことを忘れないうちに書いているものなので、こんな使い方をしてもよいことにする。

昭和5年 鹿児島で出生を届出(実際の生年は昭和4年)
昭和12年 小学校入学(戦時中に名称が国民学校に変わる)
昭和18年 国民学校初等科卒業、高等科入学
昭和20年 国民学校高等科卒業、鹿児島市内の小学校の販売部に勤務、空襲の激化に伴い退職
昭和20年代前半 佐賀市・大和紡績に就職、5~6年働くも結核に罹患
昭和28年頃 結核治療のため郷里へ戻り、入院療養
昭和29年 土地持ちの農家の一人っ子・二夫(つぎお)と結婚(舅・吉太郎、姑・ハル)。主業の稲作や蔬菜栽培の傍らで、ミカン山の開墾にも加わる。
昭和30年代初 開墾の過労からか、最初の子供(男児)を死産
昭和35年 長男・和明を出産

 主な出来事はこんな感じだろうか。
 戦後の復興と経済成長に伴い、嫁ぎ先でも農作業の機械化が徐々に進み、昭和30年代初めか半ばまでにまず耕運機、その後田植え機が導入されたことも書いたが、田植え機は昭和40年代半ばのはずなので、時系列的にはちょっと先を行ってしまっている。稲作について書いていてこうなってしまっており、今後もこんなケースがあるかもしれない。時系列も乱れるだろうから、時々こんな整理を挟みつつ進めていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?