文字を持たなかった昭和328 スイカ栽培(37)スイカ畑のその後

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初に始めたスイカ栽培について30回以上かけて述べてきた項も、今回でおしまいだ。

 スイカを10年ほども作る間に、果物の需要――いまなら「マーケット」というべきか――も変わっていったし、栽培技術や参入する地域・農家も変わった。二夫(つぎお。父)やミヨ子も年齢を重ねたし、家族構成をはじめとする家庭内の事情も変わった。

 ようするに、スイカを作り続けるのに適さない環境、条件になっていったということである。

 スイカの次については改めて書くとして、スイカ栽培をやめたあとの畑について記しておきたい。

 スイカをやめてからも、畑自体の条件が変わったわけではない。平面の畑としては、集落でいちばん広く、いちばん日当たりがよい場所にあった。二夫が父の吉太郎から引き継いだ畑の中でも、いちばん耕作には適していた。

 それを放っておく手はなく、季節に合わせた野菜やイモを植え続けてはいた。ただ、スイカのように手をかけなくても育つ作物が主体だった。やがて子供たちが一人暮らしを始め人手が足りなくなると、一部を知り合いの農家に貸したりもした。

 そうこうするうち、ある「話」が舞い込む。某携帯電話キャリアが電波受信用のアンテナを建てたい、というのだ。携帯電話が急速に普及し、キャリア間で通信回線の拡充競争が始まっていた頃、1990年代の前半だろうか。小高い丘の上で周囲も開けたこの畑は、アンテナを建てるのに好条件だった。

 二夫はその申し出を受け入れた。畑の一角、5メートル四方くらいの土地に囲いが作られ、中にアンテナが建てられた。

 すでに郷里を離れていた二三四(わたし)は、アンテナのことは聞かされてはいたものの、帰省の折りに久しぶりに畑を見に行って、その姿を見上げてなんとも言えない気持ちになった。アンテナというより、小型の電波塔だ。季節の作物が育っている周囲の畑とのコントラストは、十分に違和感があった。アンテナを囲う鉄製らしき柵は高く頑丈で――当たり前だ。中に人や動物が入られては困るのだ――、メンテナンスの際開閉するであろう扉のカギも、そっと触ってみたがこれまたびくともしなかった。

「うちの土地なのに」。
なにがしかの借地料と引き換えに、代々続いた畑を睥睨するように建つ異質な物体。それが、通信環境に貢献しているとわかっていても(二三四自身、そのキャリアの携帯電話を使っていた)、表現し切れない違和感が残った。

 それからまた20年近くが経って二夫が亡くなり、ここの畑はほとんど人に貸している。荒らしているよりは耕してもらったほうが畑にも周囲にもいい、という理由づけで、借地料などはもらっていないと聞く。その期間ももう10年以上になった。

 そしてアンテナはいまも同じ場所であたりを睥睨している。キャリアはあくまでこの区画を「借りて」いるに過ぎず、もっと「高度」な電波受発信手段が開発されて用済みとなれば、アンテナはさっさと撤去されるだろう。

 もしかすると、その頃には畑を借りている人も高齢化して、畑作する人が見つからないかもしれない。そして、周囲の畑の持ち主も1軒また1軒と太陽光発電に転換してしまい、辺り一面太陽光発電用のモジュールで埋め尽くされるかもしれない。

 地域の先祖たちが切り開き、吉太郎(祖父)が倹約を重ねて手に入れた畑。畑の条件は変わっていないのに、世の中の仕組みそのものが変わっていく。そして誰もそれに抗し切れない、のだろうか。世界的な食料危機が叫ばれているというのに。

※以下、感謝とともに改めて記します。
《「スイカ栽培」項の主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)  
《その他参考》
土づくりから手入れの方法まで!スイカ栽培のコツ|人気野菜の育て方|Honda耕うん機


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