文字を持たなかった明治―吉太郎36 家を買う④(出稼ぎ先)

 明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を続けている。

 独力で家屋敷を手に入れるために、中年に差し掛かりつつあった吉太郎は働きに働いたであろう。そして現金収入を得るために、当時は高値で取引された樟脳がとれる山に入った。樟脳は、山で切り出した樟(クスノキ)を現地で木片にして、同じく現地で精製して取り出したものだった――らしい。

 では、吉太郎はどこの山へ入ったのだろうか。

 唐突だが、お産で亡くなった前妻・セキの話に戻る。「30 前妻セキさん②」の中で、吉太郎きょうだいの長男・仲太郎が、郷里を遠く離れた大隅地方の内之浦村(現肝付町)で大正14(1925)年に亡くなったことに触れ、吉太郎は仲太郎とともに内之浦村へ働きに出ていたのではないか、そこで知り合ったのがセキではないか、と推測した。

 残念ながら、当時の内之浦村にクスノキがたくさん自生していたとか、樟脳精製が盛んだったといった情報を探すことはできなかった。もとより、出稼ぎ先が内之浦村だったのでは、ということ自体吉太郎の孫娘の二三四(わたし)のたんなる憶測でしかない。

 吉太郎について親族が後に語ったことのひとつは、「吉太じさんな、都城い銭取いけ行っきゃっただっど(きったじさんな、みやこんじょい ぜんといけ いっきゃったたっど)」(吉太じいさんは、都城へ出稼ぎに行かれてたんだよ)というものだった。

 子供だった二三四にとって、都城が家からどのくらい遠いかピンと来なかったが、ちょっとやそっと歩いたくらいで着く場所でないことは明らかだった。なにせ、鹿児島県内ではないのだから。もっとも都城は江戸時代薩摩藩に属していた。それがわかっていれば印象は少し違ったかもしれない。

 都城で樟脳が製造されていたと思しき資料や情報はあいにく見当たらない。ただ、都城は楠を材料とする家具の製造が盛んだったらしい。和名はどちらもクスノキ。吉太郎に関するエピソードが口伝いに伝わるうち、話が錯綜していった感じがしないでもない。

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