文字を持たなかった昭和百九十四(100円玉)

 『昭和の習慣「お金を、包む」』で、昭和40年代前半の鹿児島には100円玉が流通していなかった、と書いた。幼かった二三四(わたし)も、子供向けのドラマやホームドラマなどで100円玉を使うシーンを見ると「お札じゃなくて?」と不思議に思ったものだった。

 昭和47(1972)年。鹿児島県は国民体育大会の会場になった。全県、全県民が国体と国体の選手を歓迎した。二三四が住む町にひとつだけある中学校は弓道がさかんで立派な弓道場があったこともあり、国体でも弓道の会場が割り当てられた。小学生も歓迎式典に駆り出され、国体の歌を歌った。日本中の代表選手が揃った壮観を、二三四たちは圧倒される思いで見ていた。

 国体に出場した選手が驚いたのは、鹿児島ではまだまだ100円札が流通していたことだった――とローカルニュースか何かで知った。都会の若い選手には100円札を見たことがなかった人もいたから、100円玉と100円札をこぞって交換した、らしい。

 二三四も母のミヨ子も、100円硬貨を初めて見たのはたしかにこの年だ。10円玉や50円玉の仲間とあっては、いままでの紙のお札よりずいぶん価値が下がった気がした。

 いまよりも都市と地方の差が大きかった時代のお話。

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