二三四
文字を持たなかった昭和 四十二(破水)

文字を持たなかった昭和 四十二(破水)

二三四

 臨月に入っていたある日、ミヨ子(のちの私の母)は用事があって、同じ集落にある実家に立ち寄った。

 嫁ぎ先は坂の中腹にあるが、実家も短い坂の上にある。昭和30(1955)年前後、国道ですら十分には舗装されておらず、幹線道路から集落や人家に入っていく道は土が剥き出しだった頃のこと。足がかりのための石をところどころに置いてある狭い坂を上り、母のハツノを呼んだそのとき。

 ミヨ子の両脚の内側を生ぬるいものが下りていった。
「あれ? おしっこを漏らしちゃったみたい」
「えっ! おまえ、それはおしっこかね?!」*
ハツノが驚いて返した。

 大きなお腹でも開墾の手伝いに毎日山へ通う娘の状況に、7人の子供を産んだ、いま風に言えばベテランママさんであるハツノには、ピンとくるものがあった。
「破水したに違いない」〈57〉。

 とりあえずミヨ子を寝かしつけ、ハツノは急いで産婆さんを呼びに行った。

*鹿児島弁
「はら、しべんの ひっかぶった」(はら、小便をひっかぶった)
「んだ。わや そや しべん じゃいか?!」(んだ。わいは そいは しべんじゃいか?!)
・「しべん」の「ん」のあとの助詞「を」が結合している。「ひっかぶる」は「(大小便を)おもらしする」。他に「(雨や水で)ずぶ濡れになる」、「(涙を流しながら)泣く」という意味も。
・「んだ」は、非常に驚いたときに言う「んだもしたん」(一節には「私はもう知らない」に相当する鹿児島弁「うんどはもう知たん」が語源)の略。語尾の上げ下げでニュアンスのバリエーションがある。「わい」の「い」とあとの助詞「は」、「そい」の「い」とあとの助詞「は」がそれぞれ結合し、「や」に変化している。
・農村ということもあり、女性としてはやや粗野な言葉遣いだ(とくにハツノの発話)。
〈56〉赤ちゃんを包む卵膜が破れ、中の羊水が出ること。

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