見出し画像

文字を持たなかった昭和 百三十七(七夕踊り、その二)

 母ミヨ子のふるさとの伝統行事で、国の重要無形民族文化財にも指定されている「市来(いちき)の七夕踊り」について続ける前に、「その一」で引用した文化庁の解説に、重要事項が抜けていることを思い出した。それは、この祭りの起源である。

 鹿児島県のホームページ「伝統行事の宝箱」にコンパクトにまとめてある。

「島津義弘の朝鮮の役での活躍を称えて,市来の人たちが太鼓踊などいろいろな踊りを披露したのが始まりと言われており,約400年の歴史があります。
 その後,江戸時代に大里の門前集落にあった金鐘寺(きんしょうじ)の住職・捨範叟(しゃはんそう)と,地頭と呼ばれて親しまれていた床濤到住(とこなみとうじゅう)が協力して大里水田の開拓や用水路・用水堰などを作った際,完成祝賀会の余興として大々的に踊られ,以来,豊作の祈願や神への感謝の意を込めて毎年踊り続けられています。 」

 そう、400年もの伝統があるお祭りなのだ。それが現代まで連綿と継承されてきたこと自体誇らしいが、地域の人びとが下の代に所作や衣装、道具、張り子の動物の作り方まで、すべて口伝えで継承してきたことも感嘆に値する。

 もっとも、戦国末期から江戸時代の薩摩の農村で、読み書きのできる百姓はごく一部の有力者を除いてほとんどいなかっただろう〈106〉。一方で、薩摩特有の「郷中教育」に象徴されるような長幼の序や上意下達は徹底していたから、年長者から教えられるものは徹底して学び、かつ下の世代へ伝承したであろうことは容易に想像できる。

 七夕踊りもその構図の中で、しかし、当事者たちは年に一度の盛大な娯楽として楽しみながら、継承されていったのだと思われる。

 明治以降全国に新しい教育制度が敷かれ、鹿児島でも広く庶民が読み書きを学べるようになってからも、この祭りの伝承方法は変わらなかった。おそらく「七夕は口伝で教え、学び、伝えるもの」という無言の認識が共有されていたのではないか。上の世代が口伝や所作で教えてくれるものを、書き留めたり録音したりすることは失礼だとも感じただろう。

 このことは、他地域の人が容易に参加できないことにつながり、少子高齢化と併せて、担い手不足に拍車をかける遠因になったのではないかとも思う。(これについては、当事者である大里地区の方々が何らかの分析をしているかもしれないが)

 さて。「その一」の備考(※1)で述べたように、七夕踊りは大里地区に属する部落(集落)が役割を分担して継承してきた。大型の張り子の動物が目を引くが、例えば虎(写真)は島内部落という具合だ。

 ただし、メインの奉納芸能である太鼓踊りは、各集落が20代の若者を順に出していくので毎年違う踊り子によって構成される。鉦や小太鼓などには子供を出すがこれも毎年違う。ひと夏限りの踊り子を担う青年たちは、1週間ほどかけて踊りの指導者の家に通い踊りを習った。昼は指導者について習い、夜は全体練習に通うのである。都市部の会社勤めの青年たちは、本番に合わせて夏季休暇を長めにとっていた。

 踊り子たちに踊りを教える役割は、集落の決まった年長者が担っていた。ミヨ子たちの集落で踊りを教えていたのが、夫の二夫(つぎお)である。

 集落の他の男性もほとんどは踊り子を経験していたはずだが、「踊れる=教えられる」ではないし、伝統的な農村社会が変貌し続ける中、勤め人の男性が時間を融通して踊りの指導をするのは難しかっただろう。当時としては珍しい一人っ子として父親(吉太郎)の後を継ぎ、農業の傍ら、地域の活動の世話役や農協の役員としてあちこちに顔を出す二夫は、七夕踊りの世話役としてもうってつけだった。

 農業という仕事も時間の制約を受けにくかった。ありていに言えば、どうしても田畑に出なければならない事態を除き、作業も時間も自分でコントロールできたし、ある程度は妻、つまりミヨ子に任せておいてよかった。夏休み時期ということもあり、労働力として多少期待できるぐらい成長した子供たち(わたしやわたしの兄)も、休み中の農作業の手伝いは「当たり前のこと」として受け止めていた。

 なにより、二夫自身がこの伝統行事、とりわけ太鼓踊りを愛していた。太鼓踊りに合わせて歌う歌――恋歌とも受け取れる――もすべて諳んじていて、節をつけて少し高音で歌いながら踊りの指導をしていた。父親の吉太郎はそれほど人好きするタイプではなく、近所づきあいも積極的ではなかったので、外向的な性格と芸能への関心は母親のハルゆずりだったのかもしれない〈107〉。

 当然ながら、二夫が踊りの指導をしている間、ミヨ子は二夫の手が回らない農作業を担ってきた。のみならず、その年の集落の踊り子が稽古をつけてもらいに来るときは、つきっきりというわけではないが、休憩の飲み物を出すなど「師匠の妻」としての役割もあった。

 稽古はたいてい昼過ぎから夕方まで、家の庭の大きな木の陰で行っていた。夏の盛りの時期、お茶を出すわけにいかないので、麦茶や冷やした果物、ときには氷菓などを用意した。ミヨ子がどうしても長時間家を空けるときは、子供――たいていは下の二三四――に「稽古の合間を見計らって飲み物を出すんだよ」と言い置いて出かけた。

 昼間の稽古が終わっても、夜は全集落の踊り子が集まって合同練習が行われる。これは、踊りを通しで稽古するためか「流し」と呼ばれた。「流し」には踊り子だけではなく、全体の世話役で地区の代表でもある「庭割り」や踊りの指導者たちも集まり、個々の踊り子への指導や全体の仕上がりのチェック、本番に向けての打合せも兼ねた。

 二夫は「庭割り」も担っていたので「流し」には毎晩顔を出した。午後の踊りの稽古が終わり、夕食を摂ったあとは、隣の集落にある稽古場に集う。つまり、七夕踊りの準備期間に入ると家の仕事をできるのは、午前中と夕方のわずかな時間だけだったことになる。二夫が「踊り」に取られる時間と労力のほとんどは、ミヨ子が肩代わりしたのだった。

 大事なことを書き忘れていた。七夕踊りに参加するのは、すべて男性だった。鉦叩きや小太鼓打ちとして参加するのも男児。口伝の担い手も継承者も男性だけである。薩摩らしいと言えば薩摩らしいが、女性を除外してきたことも、担い手不足に拍車をかける一因になったことだろう。 

※写真は「国指定文化財等データベース 」からお借りしました。張り子の動物は「虎」。
〈106〉しばしば雄藩と称される薩摩藩だが、末端の百姓の暮しぶりが他藩に比べて著しく貧しかったことはいろいろな文献に散見される。他藩にはあった庶民も通える寺子屋のような教育施設は、薩摩では極めて少数でかつ偏在しており、ほとんどの百姓は教育を受ける機会を持たなかったと思われる。
〈107〉二夫の生い立ち、性格や生き方に影響を与えた吉太郎やハルについてもいつか書きたいが、ここではとりあえず触れないでおく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?