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文字を持たなかった昭和 百三十六(七夕踊り、その一)

 母ミヨ子の郷里であり、結婚してからも夫を亡くして息子に引き取られるまで住んでいた鹿児島の小さな町には、旧暦の七夕の頃――ちょうど今頃、8月のお盆前の日曜日――に行ってきた伝統行事がある。今年(2022年)は8月7日(日)に行われる。そして、後継者不足のため伝統的な形式での開催は今年が最後だという。

 母ミヨ子自身のストーリーではないが、ミヨ子のふるさとのお祭りであり、ミヨ子自身も間接的に、しかも長きにわたって関わったことなのでこの機会に書いておく。

 行事の名前は「市来(いちき)の七夕踊り」という。1981年には国の重要無形民族文化財にも指定されている。「その一」では、文化庁の解説を借りてまず行事の概要のみ記す。(以下文化庁サイトの解説。若干加筆、主に括弧内)。

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 この芸能は、市来町大里(おおさと)部落(※1)の七夕の日に行なわれる風流の踊である。

 芸能次第としては、まず前踊として作り物の鹿、虎、牛、鶴などの大張子や琉球王、大名、薙刀踊などの一行が列をなし、次に本踊としての太鼓や鉦を持った太鼓踊が続き、ついで後踊として薙刀踊が続く。この変装仮装した者たちの行列の群行は、芸能演出法としてたぐい稀な特色ある形であり、大里部落多数の者が何らかの役割を担って行列に参加する規模の大きなもので現在は三、四百人が行列する(※2)。

 この芸能の中心は、太鼓、鉦(かね)を楽器とする本踊にあり、古風な歌詞にのって青年と子供の総勢三十余名によって演じられる。青年の踊り子はヤッサ(役者)とも呼ばれ、一番ドン(殿)、二番ドン(殿)、イデコヒキ(入れ太鼓鼓引き)、ヒラデコ(平太鼓)などの役に分かれ、子供の踊り子はカネウチ(鉦打ち)、イデコ(入れ太鼓)(※3)といった役に分かれる。このように太鼓踊が前踊、後踊をともなった形で演じられるのはきわめて稀で特色がある。

 この踊の由来としては、一説には島津義弘の朝鮮の役の凱旋の祝賀芸能だったといわれ、踊り一行各役の扮装には丸に十の字の島津氏の紋がつけられる。また他の説では、部落の開田者床濤到住(とこなみとうじゅう)の霊を慰めるために行なわれるのだとの伝承もあり、一方作り物は動物の精霊を示すものと考えられることなどから、これは七夕の日の踊とはいえ、亡き霊を供養する盆行事の前祭りの性格もうかがわれ、注目すべきものである。
《出所》国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)
 ※写真もこちらからお借りしました。張り子の動物は「鹿」。
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 冒頭の「風流の踊」は外国人の日本語のようであり、全体の日本語もちょっともたついている印象があるが、重文指定当時の担当官僚に(もとは外国籍だったなどで)日本語の怪しい人がいたとも思えないし、あるいは、研究者のレポートをそのまま採用したのかもしれないので、とりあえず置く。

 この解説は、ミヨ子や夫の二夫(つぎお)が子供の頃から目にしたり、年長者から伝え聞いたうえで、下の世代や自分の子供たちに伝えたもの――つまりわたしの理解――とほぼ同じだ。学術的見地からの分析を除いて。

 この、ある意味無味乾燥な「解説」が語る伝統行事と、ミヨ子たち家族がどう関わったかは、次項以降で書くことにする。

(※1)「部落」重文指定当時のこの地域では小単位の集落の意味で使われており、いわゆる被差別部落を指す「部落」とは異なる。昭和50年代頃までは「〇〇部落」という言い方をしていたが、おそらく被差別部落との混同を恐れたのだろう、現在は「〇〇集落」あるいは「〇〇公民館」と言っているようだ。なお、ここで「大里集落」と記述されているが、大里は町全体をいくつかの大きな区域に分けた地区名であり、大里の下に14の部落(集落)がある。七夕踊りは、大里地区に属する集落が役割を分担して継承してきた。

(※2)「現在は三、四百人が行列する」重文指定時の1981年頃のこと。最盛期は踊り手など直接の参加者だけでも800人ほどもいたとされ、その準備や家族による手伝い、会場提供、そして当日の見物などを入れると、地域総出の行事だったと言える。

(※3)「イデコ(入れ太鼓)」叩く面が上向きの小太鼓。子供用で、腹の前に固定し両手にバチを持って叩く。「入れ」が何を指すかは不明、わかり次第補足したい。

《出典以外の主な参考》
鹿児島県/ダイナミックな民俗芸能・市来の七夕踊

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