番外―日航機事故当時の中国旅行

 8月12日に、昭和60(1985)年の同日に発生した日航機墜落事故について書き、この日はわたしの添乗員としての初めてのツアーの前日だったので印象が強いことを述べた。

 当時勤めていた旅行社や時代背景について、記録代わりに残しておく。下書きで書いたものの長くなるので省略した部分である。

 日航機事故の起きた年に大学を卒業し入ったのは、中国旅行を専門とする旅行会社だった。共産主義の優位性を内外に喧伝する必要に迫られる一方で、度重なる政治運動のために混乱と経済危機を繰り返していた新中国(中華人民共和国)は、外貨を厳しく管理し、外国(人)との往来も制限していた。外国との貿易や交流は「許可制」「枠(金額、数量、人数)制」であり、旅行分野においても、中国政府が認めた旅行会社だけが交流の窓口たり得た。

 すでに日中の国交は回復していたものの、外国人の中国旅行は自由ではなく、特定の目的の下、主催者・団体が組織して構成し、現地での見学や交流の日程が予め調整された「オーガナイザーツアー」と呼ばれる形態が、広がりを見せていた頃だった。

 そんな窮屈な旅行は平成、令和の人たちはまっぴらご免だろうが、さまざまな事情で中国大陸に縁がありながら、戦後国交がなかったため大陸に足を踏み入れることが叶わなかったたくさんの人びとが、中国専門の旅行会社を通せば中国に行けるということで、多様な「オーガナイザーツアー」が続々と企画、組織、催行されていた。(中国専門旅行社は6社あり「専業6社」と呼んでいた)

 代表的なのは「再訪の旅」だった。戦前から戦中、大陸で生活していた方々が、自身のふるさとを訪ねるというもの。個人的な旧宅訪問ではなく、主に日本人が通っていた学校(小学校から女学校、大学まで)の同窓会や、元の職場仲間のグループなどである。戦後日本各地に散らばったのちに伝手を頼って同窓会などを組織し、「いつか母校を再訪したい」と願っていた、それぞれの関係者の方々である。運がよければ中国政府が認める範囲で、母校やその周辺の再訪のスケジュールの合間に、個人の居宅跡やその周辺地域を、特別に訪問できることもあった。

(これら「再訪の旅」には相当回数おつきあいしたので、機会があれば記録としてその概要を書くかもしれない。)

 一方で、新たな交流の機運も起きつつあった。1972年の日中国交正常化により――今年は正常化50周年の節目である――ランラン、カンカンの「パンダブーム」に代表される日中友好のムーブメントが訪れた。両国の政府レベルだけでなく、地方都市どうしも、何かのご縁や共通の背景などをきっかけに、姉妹都市(友好都市)を締結する流れが加速した。

 わたしが旅行業界に入ったのは、ちょうど地方と中国との具体的な交流もどんどん活発になっていた時期だった。入社した旅行会社自体が中国を専門に取り扱っていることと、経営者の出身背景から、中国、特に東北部との交流を得意としていたせいもある。いや、逆にそういう背景がある経営者だからこそ、中国政府から日本側の交流窓口としての旅行会社の指定(許可)を受けられた、というのが正しい。

 「番外―日航機墜落事故」で触れたツアーは、北陸の某県と中国東北部の某省の間で企画された、青少年のスポーツ交流だったと述べた。正しくは、友好省県関係にある両地が、交流の一環としてスポーツを通じた青少年交流を行うことになった、のだと思う。交流の目的や形態は、両国の政府や自治体どうしの意向によりさまざまだった。まず首長クラスの交流から友好関係を締結し、幅広い分野に及んでいくパターンが多かったと思う。スポーツ、文化、産業技術などなんでもあった。

 語学を専攻し入社1年目だったわたしは、微力ながら日中の架け橋として貢献したいと意気込んでいた。中国との往来(貿易、文化交流など)に携わる人はまだまだ少なく、ツアーの管理以外に交流試合の開幕式の挨拶などの通訳も担当した。

 これは、後に担当した「再訪の旅」や「交流の旅」でもほぼ同様だった。事前の打合せも綿密で、大きな交流活動だと「先遣団」として事前打合せだけのために数日現地を訪れ、日程確認がてら現場を下見することもしばしばあった。その分の費用は、後日催行される「本団」の経費に上乗せされ、参加者が均等に負担する、という仕組みになっていた。

 なお、当時は日中間の渡航には短期間であってもビザ(査証)が必要だった。現地側の受け入れ先が発行したインビテーション(招聘状)と、全体の日程表、参加者全員のデータ(氏名、生年月日、パスポート番号など)の詳細を記載した名簿を、大使館や領事館の領事部に持って行って、ビザを申請し「団体ビザ」を取得するのである。ツアーの場合は現地の旅行会社が受け入れ先になるので、それほどハードルは高くないが、日程や参加者に変更が生じると、変更部分を補足するインビテーションを再発行してもらわなければならなかった。これは、貿易や技術交流などでも基本的に同様だった。

 特筆すべきは、当時の航空運賃の高さである。 

 わたしが初めて添乗した際の出発便は大阪発北京行の中国民航機(CA)、いまでいう中国国際航空だが、中国国際航空はのちの中国民航の分割民営化により分かれた組織で(国鉄が6つのJRに分割されたように)、当時中国内で海外はもちろん国内を含め航空路線を持つのは中国民航だけだった。中国には、軍用機に対する民用機を管理する民航総局という政府機関があり、民用機はすべてこの機関の管轄下にあった。

 外貨が喉から手が出るほどほしい中国にとって、外国人が払う航空運賃は貴重な外貨資源だった。当時すでに香港線など便数の多い路線はディスカウントチケットがあったが、中国線に関してはディスカウントとは一切なく、正規料金のみだった。これは、相互関係にある日本側の航空会社も同様だ。どちらも正規料金だから、なにかの事情で搭乗便の変更をする時、日中どちらの便でも変更できた。

 では、正規料金はどのくらいだったか。東京(成田)-北京の往復で、当初25万円ぐらいしたと思う。飛行距離に応じて安くなるので、東京-上海、大阪-北京、大阪-上海、長崎-上海の順に「多少は」安くなったが、10万円を下回ることはなかったはずだ。

 その後、日中間の往来が増えるに従い、航空運賃は少しずつ下がっていき、そのうちに変更などに制限のある券種も出始めた。やがて中国側の「民営化」と相俟って、正規料金で買う乗客はほとんどいなくなるのだった。

 これらはいずれも、いまは昔、それもかなり大昔の話ではある。

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