番外――日航機墜落事故(昭和60年8月12日)

 お盆について書いている途中だが、今日は8月12日、この事故のことを思い出した。日本中が驚愕し悲しみに沈んだ事故だったが、わたしにとっても印象の強いできごとだったので、当時の記録代わりに書き留めておく。

 その年わたしは大学を卒業し、専攻だった語学を活かしたくて、中国旅行を専門とする旅行会社に入社した。ちょうど地方と中国との具体的な交流もどんどん活発になった時期だった。地方都市どうしの日中交流のひとつとして、北陸の某県と中国東北部の某省の間で、青少年のスポーツ交流が企画された。

 ツアーの準備に携わった営業担当は別にいて、わたしがこのツアーの担当に加わったときには、筋書はあらかた出来上がっており、あとは現地での交流活動の詳細を詰め、実際に添乗して交流を実践に移すサポートをする、という段階になっていたと思う。

 スポーツ交流の中身は、高校生男子の柔道と高校生女子のバドミントンで、それぞれ県の代表クラスの選手が10数名ずつ、引率の先生や県の職員の方を入れて30数名のグループだったと思う。かたや添乗員は、会社の専任の外部添乗員の女性とわたしの二人だった。

 出発日は8月13日。

 13日の出発便は大阪発北京行の中国民航機(CA)だったと記憶する。いまでいう中国国際航空だ。日本の航空会社も、日本航空が定期便を、全日空は国際チャーター便という形で中国線の運行を始めていたが、CA便のほうが日程に合ったのかもしれない。

 当時のCA便は午前中に中国を発って日本に到着し、折り返し便で中国へ帰った。なので13日の午後に、伊丹空港で搭乗したことになる。それに合わせて、午前中日本国内の移動をしたのだと思う。そういう事情もあり、添乗員のわたしたちはいわゆる「前泊」をした。前日のうちに県庁所在地のホテルに投宿したのだ。

 12日は月曜日。初めての添乗のためのあれやこれやの資料や用具を詰めたスーツケースを、会社まで引いていったことを覚えている。会社で営業担当と最後の打合せをし、持ち物の最終確認をしたあと、国内線で北陸へ移動したのではなかったか。北陸新幹線はまだなく会社の北陸出張はほとんど国内線だったから。もう一人の添乗員とは、前泊のホテルで合流することになっていた。

 現地県庁所在地のホテルに着いたのは夜。狭いビジネスホテルのベッドに座り、ニュースの時間だとテレビをつけたその瞬間、「羽田発大阪行きの日本航空123便が行方不明」の一報が飛び込んできた。
「あんなに大きな飛行機が行方不明って、どういうこと?」

 訝しみながらも、翌日に迫った大きな初仕事を目前に、ニュースを逐次追いかけるほどの余裕はなかった。もちろんスマホでニュースチェック、などということはあり得ない時代だ。夜休む時点でも、日航機の消息は判明していかなかった。

 翌朝テレビをつけると、群馬県の山中で墜落した機体が発見されたと報じていた。
「えらいこっちゃ!」
ただその時点では被害の詳細はまだわからなかった。生存者がどのくらいいるのかも。

 わたしはわたしで、こんな事故の直後に交流活動のための海外派遣などするだろうか、と当然考えた。出発日とほぼ同じ日の墜落事故、自分が保護者だったら中止してほしいと思うだろう。

 結論から言えば、このツアーは予定通り出発することになった。主催者である県は、時間が迫る中で関係者とできる限りの協議をしたことだろう。高校生たちや引率の方々とは県庁付近で合流し、たしか貸し切りバスで伊丹まで向かったと思う。北京に着いたのは夜だった。

 そのときの交流活動の光景は断片的ながらもかなり覚えている。なにぶん初めての添乗だったのだから。高校生たちからすれば、それほど年齢差のないお姉さんが同行してくれて、緊張がほぐれた面もあったようだ。参加者の女子生徒の一人とは、いまでも年賀状のやりとりをしている。いろいろな意味で忘れがたい添乗だったのは間違いない。

 その強い印象を濃く隈取っているのが、日航機の事故である。

 改めて事故について調べてみると、乗客乗員524人のうち520人が犠牲になっている。この生存数を、確率で語れるだろうか。亡くなった人やその家族にとっては100%命を失った、ということだ。そのあとの時間、人生、関わるはずだったすべても。確率が限りなくゼロに近くても、起きてしまえば100%だし、起きなければゼロなのだ。

 このときの印象があったからかもしれないが、わたしは起きたこと、ふりかかったことは100%だと思うようになった。そういう気持ちで受け止めねば、ということでもある。もし起きなかったら、と考えてもしかたがないということでもある。人は、起きたことを受け止めて生きるしかない。

 そして、命を失うこと、大切な人を失うことの悔しさ、悲しさもより深く考えるようになったと思う。

 8月12日が来ると、ビジネスホテルの小さなブラウン管に映ったニュースの画像と文字を思い出し、生きることと死ぬことの意味と価値を改めて考える。

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