ひとやすみ(東日本大震災から12年)

 ここnoteの中で東日本大震災について書く機会がまだなかった。

 12年前の今日、午後2時46分をどこで迎え、その直後とその後の長い期間をどう過ごしたかは、人それぞれだろう。

 わたしは勤め先が主催していたイベントのため、都心の会場でその瞬間を迎えた。揺れが収まったあと、状況確認のため会場の管理室のテレビを見せてもらったとき、津波が押し寄せる映像が写し出されていて、背筋が凍った。何が起きこの先何が起こるのか、見当がつかなかった。

 参加者の安全を確保し、揺れが落ち着いてから帰ってもらったあと、幸い会場から徒歩圏内だった勤務先に他のスタッフとともに戻った。会場の建物の外に出たら、たくさんの人たちが続々と歩いていた。

 当日の帰宅は、切れぎれに動いていた地下鉄でJRの駅までなんとか移動したが、JRは早々に運行を停止していたため、そこから自宅まで3時間以上歩いた。帰宅できない人が圧倒的に多い中、まだまだ「まし」なほうだったと思う。自宅マンションはまだ新しく耐震建築でもあったため、モノが一部落ちていた程度で、室内はほとんど無傷だったのは運がよかった。その後は計画停電などで都内も長らく影響を受けたのは周知のとおりだ。

 被災地の状況は気になりながら、いくつかの募金にふだんより多めの募金をするぐらいで、具体的なことは何もできなかった。被災地の様子が伝えられるたびに胸が痛んだ。

 被災された方々が助け合う姿や、避難所などでの秩序ある行動は、日本のみならず世界の称賛を浴びた。「日本人らしい美徳だ」という論評も見られた。

 わたし自身は、東北の人の忍耐強さに瞠目し感謝した。東北以外、少なくとも首都圏などの都市部では、あんなに秩序ある行動を長期に保てなかったのではないか、と思ったし、いまも思っている。つまり、地方にまだ残っている共同体としての横のつながりやそれを意識する気持ちが、災害時に発揮されたのではないか、と。平たく言うと、もし都市部が被災したら、エゴイズムに満ちた行動が横行するのではないか、とも思う。

 ある意味において、戦後の日本の歴史は、共同体の繋がりを解体し個々人を孤立させていく過程でもあった。経済力が維持され社会システムが機能している間は、共同体の存在が希薄でもいいかもしれない。だが、大規模な災害などのときに行政はどこまで頼れるのか。個々人の備えと努力だけでどこまで持ちこたえられるのか。わたしは、東北の振舞いにその答えがあると思っている。

 東日本大震災後に「絆」というワードがよく使われるようになった。美しい言葉ではある。だが、その絆を弱める方向を、日本人自身が選び進めてきたのではないか。その結果が、改めて「絆」を強調しなければならない社会なのではないか。

 ちょっと飛躍するが、東日本大震災発生時、当時東京都知事であった石原慎太郎氏が「天罰」という表現を用い非難を浴びた。石原氏はその真意を「日本全体が弛緩してきたので1つの戒めだという意味で言った」と後のインタビューで述べているが、わたしは当時からその意味で受け取った。同じインタビューの中で「皆が皆、自分のことばかり、自分さえ良ければそれでいいと考えている。そんな国は衰退に向かっているとしか言いようがない。「絆」なんて言葉が白々しく聞こえる」とも。

 絆は、ふだんからいろいろなモノ・行動・感情を共有していればこそ生まれるものだろう。それは、ご近所だったり地元の活動だったり、あるいは同好会的なつながりの中にあり、その延長に地域、そして国があると思う。他者への関心も善意も稀薄になり、ただ法律や制度、コンプライアンスに縛られて汲々としている日本に、明日はあるのか。

 3・11が来るたびにその思いは深くなる。

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