文字を持たなかった昭和 百六十七(秋の運動会――親子リレー)

 残暑の中にも空気中の湿度が下がってきたことが感じられる季節、運動会の記憶が甦る。

 ミヨ子(わたしの母)は運動神経がよいほうではなかったが、夫の二夫(つぎお)は敏捷で足も速く、二人の子供たちも父親に似たのか、学校の体育の成績はよかった。だから、昭和40~50年代の運動会シーズンは、一家にとっては活躍できる季節でもあった。もちろんミヨ子を除いて。

 子供たちが通っていた幼稚園、小学校、中学校はほぼ同じ場所にあった。いずれも、東シナ海を臨む松林を背にして、南から北へ隣り合うように並んでいた。幼稚園の園庭は狭いため運動会は小学校の校庭を借りるなど、幼稚園から中学校まで何かと融通しあう関係でもあった。

 ここでは、ミヨ子たち家族の思い出として、小学校の運動会について書いておきたい。

 上の和明と下の二三四は3学年違いだったから、二人とも小学生だった期間が3年あった。父兄――いまの言い方だと「保護者」だろう――は早朝から茣蓙や流行り始めたビニールシートを手に「場所取り」に出向いた。親しい近所の人と融通しあって、まとまった一角を確保することもあった。これは二夫の役目である。ミヨ子は、もちろん朝早く起きてお弁当作りに励んだ。

 子供たちはそれぞれの出番を真剣にこなす。高学年になった和明たち男子は、簡単な組体操を披露して喝采を浴びた。和明も二三四もそれぞれ足が速かったので、徒競走やリレーの応援には親たちもとくに力が入った。

 応援ばかりではなく、父兄にも出番があった。最も盛り上がるのは親子リレーである。

 第一走者は学年が下の子供、第二走者は上の子供(いずれも男女、学年は関係ない)、第三走者は母親、最後の第四走者が父親で、それぞれ100メートルずつ走った。1組4チーム(家族)ぐらい、3~4組が出場するプログラムだった。

 いま考えると、参加は両親揃っていること、きょうだいが二人以上いることが前提の競技で、もちろん「走りたい家族が申し込んで出場する」スタイルではあったが、この家族構成から外れる家庭はそもそも出場資格がないのだから、けっこう残酷なルールだったはずなのに、当時これをもって「不平等」「ひとり親家庭、一人っ子への配慮がない」などの声が上がらなかったのだから、みんな「そんなもの」と思うような時代だった、と言えるかもしれない。

 運動が唯一の取柄とは言いすぎだが、身体を動かすのが大好きな和明は、自分が小学校へ、妹が幼稚園へ通うようになると、早く親子リレーに出場したくて仕方なかった。一家が晴れて「出場資格」を得たのは、和明4年生、二三四1年生の年だった。

 この1年目は、二三四が小さすぎて他のチームとの差が開きすぎ、4年生の中では俊足の和明でも挽回できず下位のまま終わった。

 2年目。二三四は2年生の女子ながらも健闘し、2番手くらいで5年生の和明にバトンをつないだ。ほかに6年生の走者もいる中、和明はがんばって首位に肉薄するも、運動には縁遠い第三走者のミヨ子が次々と抜かれた。第四走者の二夫が力走したが、最後に自分が転んでしまうハプニングで幕を閉じた。

 3年目。和明は小学校最高学年、親子リレー最後の年でもあった。雪辱を期した一家は、家の庭でバトンリレーの練習までした。ミヨ子は、走ること自体はあまり気乗りしなかったが、「出ない」という選択肢はないし、夫や子供たちが張り切っている姿を見るのは楽しかった。

 いよいよリレーが始まった。3年生の二三四はしっかり首位でバトンを和明に渡した。最上級となった和明は、他の走者との差をぐんぐん広げていく。もう余裕で1位ゴールかと思われたが、ミヨ子にバトンが渡ったあとは、前年同様、下位のチームから抜かれはじめ、ついには最下位近い状態で、二夫にバトンが渡った。

 ステテコにシャツと「軽装」で決めた二夫は、先行するチームを猛然と追い上げた。放送担当の生徒も「お父さんがすごい追い上げです、がんばってください!」と声援する。が、もう少しで首位を捉える、というところでゴール、結局2位で終わった。

 「母ちゃんがもう少し速ければ」とは、家族の誰もが思っていたはずだが、誰かが口にした記憶はない。ミヨ子も申し訳なさそうなふうではなく、淡々としていた。「つきあいでリレーに出ている」感覚だったのかもしれない。

 1位は逃したものの、何十年たっても、内また気味で一生懸命走るミヨ子と、ステテコで力走する二夫の姿がはっきりと浮かぶ。厳しい父親の下、団らんという雰囲気に程遠いことも多く、理想の家庭、家族だったとは言えないかもしれないが、あんな思い出をもらったことは素直に感謝している。

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