怒りにまみれた白羽と怒りを知らない古倉さん

遅まきながら、昨年の芥川賞受賞作品であり、読書芸人おすすめの1冊でもある『コンビニ人間』を読んだ。(文芸春秋で)

感想を端的に申し上げると、「短い物語の中に、たくさんの要素が詰まっていて読み応えがあった」というところだろうか。

おおまかなあらすじは知っていた。コンビニから「世界」に出て行くのではなくて、コンビニという「世界」に帰っていく物語だと。だけど、主人公の詳細な人物設定や、巻き起こる(というほどでもないが)出来事については白紙の状態で読んだ。

白羽の人物描写がものすごく私を嫌な気分にさせたのだけれども、でもその「嫌悪感」は、私の生きる現実世界に多々存在するものである。そのように、自分の「普段何気なく嫌だと思っているもの」が的確に表現されているということは、長らく原因不明の体調不良に悩まされていたけれど、ようやく原因を解明してくれた名医に出会ったときのような感覚だ。もちろん小説なのでかなり誇張してあるとはいえ、自分の努力不足を棚上げして他人を攻撃するという行為には理不尽な攻撃力がある。

一番印象的だったのは、古倉さんの「怒らない」というキャラクターだ。この彼女の「怒り知らず」な部分が、この小説の肝であるような気がしてならない。どんなに社会的に立場が低かろうが、周りから変な目でみられようが、いわんや白羽のような人物と対峙しようが、怒らない。これは、現代人全員が憧れてやまない特性なのではないだろうか。人間の、数ある感情の中でも「怒り」を制御することは難しい。そして、適当に制御しなければ、その感情によって物事は悪い方向へ進み、下手をすると自分の人格すらも蝕む可能性がある。

怒りにまみれた白羽と、怒りを知らない古倉さん。

この対比こそが、この小説の世界の中心だと思った。

二人とも、「普通」じゃない。そんな「普通」じゃない人間から見た「普通」の世界。「普通」じゃない人間が、「普通」の世界で生きるにはどうすればいいか。そして、「普通」は世の中にありふれているように見えて、みんな「普通」の仮面をかぶっているだけなのではないか?

以前、私の大好きなエッセイストである酒井順子さんの本に、「朝、満員電車の中で特殊なメガネをかけてみると、リストラされたばかりですが妻には言えず、とりあえず出勤しているフリしていますマークをつけている人や、妻が男を作って離婚の危機ですマークをつけている人がいるかもしれない」というようなことが書いてあった。たとえ「普通」の人がいたとしても、その人が未来永劫「普通」である可能性は非常に低いし、「普通」は「不変」ではなく、「普通」って書いてあるボールをみんなでパス回ししているようなものなのではないかな、なんてことを思ったのである。

「普通」の人たちが「普通」の仮面を脱ぐとき、それが真なる「ダイバーシティー」の実現のときなのではないか。

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