過去の自分 ~自己肯定感が低い小・中・高校生時代~


努力は報われる

母親は厳しいけど、習っていたバレーや水泳の練習によく付き合ってくれた。
学校のテストや宿題でわからないことがあると熱心に教えてくれた。
それで、少し結果が伴ったりするから、私も母も「努力は必ず報われる」という考えが染みついていった。
実際勉強はすればするほど、成績が良くなるし、テストは点取りゲームみたいだった。
なんとなくポイントさえ押さえていれば、クラス1番は余裕でキープできた。

高校受験のときも、「神頼み」をしなかった(笑)
自分の実力・努力しか信じられなかったんだろうなぁ。
合格してから、お礼詣りにはいきました。

今では考えられないけど、当時はまだ「土の時代」でもあり…
コツコツ積み上げて成果を出す。努力は報われると信じ、
あまり派手な遊びはせず、「趣味=努力、勉強」って感じでゴリゴリ勉強していた。

ファッションや美容には、興味がないわけではないが、
「神は二物を与えない。」「私は努力する才能、勉強の面での才能を与えられたんだ!」と思っていた。
「私は太っている」「ブサイク」って思いあきらめていた。

低い自己肯定感

今、回想しても自己肯定感は常に低った。今思えば、親に申し訳ないが、
「消えたい」って何度も思っていた。
高校に行くときに列車に乗る。何度も、高校のある駅で降りずに、遠くまで行ったらどうなるかなぁって想像していた。

楽になりたかったんだろうなぁ。努力して、成績を上げて、いわゆるいい大学に入って、いい就職をする。
そしたらきっと幸せになれるだろう。
でもあと数年、がんばれるだろうか。
もし受験や就活で失敗したら?
自分より努力していないあの子たちが、自分よりいいトコロに行ったら?


できるからといって、自己肯定感が高いわけではない

高校時代には、体育祭や文化祭でまとめ役をしたり、そこそこにクラスの人ともうまくやっていた。勉強だけでなく、クラスをまとめるのも、まあできるだろうって思っていた。
実際そこそこにはできたんだと思う。
でも、自己肯定感は低いまま。
「もっとできる人はいる」(当たり前なんだけど)
「完璧ではなかった」

常に、だれかと比べ、ダメ出ししていた。

そのダメ出しがあったからこそ、客観的に自分の弱点がわかり、
努力できたのではあるが、しんどかったと思う。

「自己肯定感が低い」=「辛いけど、そのおかげで私は努力を続けられるんだ」と自己暗示をかけ、その状況を受け入れていた。

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