ある秋の人工生命 


  1. 誕生
     クルス・ホームレイクタウンは靄でおおわれていた。ある晩秋の日、街の真ん中にあるクルス湖に人工生命の原液《スープ》が投げ入れられた。月の光が惜しげもなく、阻むものもなくそこに注がれ、その光を吸収した原液《スープ》から人工生命体Aが誕生した。二つの赤い瞳を開くとすぐさま人工生命体Aは周囲の情報を集めて始めたが、未だ自らが生まれた存在理由を問うことも知ることもなかった。ただ、その鋭い眼光は赤く輝き、次第にこの世界を透徹に見通し始めた。
     クルス湖はクルス市の中央に位置する孤立した直径二十キロメートル程の円形の湖である。その周囲にはいくつかの小さな湖が存在するが、どれも直径数キロメートルの小規模なものである。湖に縁に沿って街が建設され、南端に位置する最も大きな街は都市となり中心地となった。湖の周囲の住民はおそるおそる湖の底を眺めたが、人工生命体Aはまっすぐにその視線を赤い瞳で見つめ返した。やがてそこには人工生命体Bも生まれた。AはBの類似形態であったが、決して交じり合うことはなかった。Aは月の光で育つが、Bは陽の光で育つ。Aは月の光を吸収する赤い瞳と大きな口を持ち、Bは陽の光を吸収する青い瞳と小さな口を持つ。しかし、AもBもそれらの部位の特徴をのぞければ同じ構造を持っていた。身体に沿った背骨を持ち、しなやかな外骨格も備えていた。全体としてはカブトガニを想起させる外観だが、その異様に大きな瞳が湖を外からのぞきこむ者に畏怖の念を呼び起こした。青い瞳も真っすぐに人間を見つめ返した。
     やがてAもBも成体になると一メートルを超す大きさとなった。周囲の住民は増殖する人工生命体に危惧を抱くようになった。特に害を及ぼすことはないが、住民はひっそりとしたレイクタウンの生活を愛していたために、夜中に遠くからでも、赤い目玉や青い目玉の群れが揺れ動くのをよしとしなかった。住民たちは市に人工生命体の削除を要請し、市はそれを承諾した。住民たちは市がこのような実験を主宰していると考えていたが、それはおよそ市の預かり知らぬことで、その犯人捜しも同時に始まった。さもありなんかな、この業務担当を任されたKは人工生命に通暁していなかった。そこでKは湖西に位置するT大学のS教授を連れてきて、それなりの予算を以て調査を依頼した。S教授はあまり表舞台に出ることのない海洋生物学で高名な教授であったが、眼光は鋭く、実は人一倍目立ちたがり屋だった。S教授は持ち前の粘り強さで大学院生を駆使しながら不眠不休の一か月を経てクルス湖の人工生命体の生態の概要を解き明かした。人工生命体の身体はほぼ機械と言ってよく、ガラスと金属とカーボン・フラーレンで出来ている。しなやかだが、よくできた機械だ。人工生命体Aは月の光を吸収すると次の一体の人工生命体Aを生み出す。生み出された人工生命体は月の満ち欠けの二十九日の周期で成体となり、次の五日間で次の個体を生む。現在、レイクタウンの湖には1299体の個体Aが生息し…
    「1299体だって?」
     Kは絶叫した。Kは数学に明るい方ではなかったが、役所仕事が長いせいで数字には敏感だった。その数字が何を意味するかはわからなかったが、1299体は1300体より1体少なく、1298体より一体多かった。人心を乱すのには十分な数字だった。Kは自分が直面している状況の一端をつかみ始めたが、自分の背丈を遥かに超える問題だと実感した。明日にでも市議会で報告する必要がある。その準備をしなければならない。KはS教授の疲れきってはいるが冷静な顔を見るとイライラして来た。
    「どこに出て行って貰えばいいのかな?宇宙船でも用意するか」
    「そんなことをしなくても駆除する必要はありませんよ」
    とS教授は言った。
    「彼らはまったく無害な生き物ですよ。他の生物も食べないし、植物の成長も阻害しない。それだけでなく、利益もある。この3か月で湖の水質は劇的に改善している。彼らの食物連鎖は人間にとって有害な物質を吸収して無害に変えるのかもしれん。そうなれば世界中の自治体が彼らを欲しますよ。」
     湖面は午後の日差しの揺らめきの中にあった。その向こうの闇には赤い瞳と青い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。彼らにとって人間とは何なのだろう。住民は水質が改善すると言えば納得するのだろうか。S教授はKの思惑にお構いなく話を続けた。
    「彼らは眠ると体内の代謝を遅くするので、血液の成分濃度を低くします。すると、身体の透明度が上がって、眠っている間は半透明になります。すると、瞳から発する光がより強く外部に漏れることになって、夜にはたくさんの瞳が湖の外からでも見えるようになるのです」
     むしろ、これは心理的な問題であって、見知らぬ生物が自分たちの湖に住み始めたことに対する恐怖なのだ。しかし、これが鳥や魚であればあきらめもつく。人工生命体というところが問題なのだ。人は未知なるもの、人から遠いものに恐怖する。S教授は依然として話を続けている。
    「青い瞳の方の人工生命体についてですが、あれは有害です。無害な自然の要素を有害な物質にして分泌します」
     Kは思わず口を開けたままS教授をにらんだ。
     

  2. 郵便
     クルス市の郵便配達夫Rはクルス市に生まれた。旅行以外でクルス市を出たことはない。そのまま高校を卒業し郵便局に勤めた。郵便物には二つある。クルス市内、つまり人口十五万人程のこの街の中を行き来する郵便、それ以外はクルス市の外から来る郵便たちだ。Rはそんな手紙からこの世界の動きを感じ取っていた。人々の思いがこもった手紙、思いのこもっていない事務的な手紙、食べ物の入った荷物、本の入った荷物、調理器などの入った荷物など、さまざまな配達が徐々にRの世界観を作り上げていった。しかし、そんなRの世界観では処理しきれない手紙たちがあった。宛先が不明の手紙たちだ。それも膨大にある。送り主も、送り先も書いていない手紙が、実に郵便ポストに年に数百件も投函される。これがクルス市特有のことなのか、それとも他の地でもそうなのかわからない。とにかくRの勤めるクルス市の郵便局の片隅ではそのような行き場のない手紙たち、そして引き取り手のいない手紙たちが、何千通も蓄積されて行った。その手紙の束を見ることはRの生活そのものの停滞を見るようで、とてもつらいことだった。
     Rが人工生命体のことを知ったのはテレビでのことだった。テレビでは市の中央にあるクルス湖が写され、その底に見知らぬ生命体が紅や蒼にうごめいていた。Rは心底驚いた。この変化のしない自分の日常のすぐ近くに、非日常の混沌が口を開けている。それも世界を揺るがす規模の大きな口だ。それはRの世界観に久々に空いた大きな穴であった。Rはすぐにあの手紙の束を連想した。どこにも行先のない手紙の束。Rはあの手紙をこの人工生命体の口に投げ込みたい気持ちでいっぱいになった。郵便局の片隅を逼迫しつつある、あの手紙を処分することは誰も気にしないどころか、感謝されることだろう。誰も気が付かないかもしれない。手紙を湖に投げ込むこと、その行為そのものが自分にとって意味がある気がした。
     夜の郵便局はひっそりとしていた。郵便物たちは早朝からの配達に備えて、その身をぐったりと静かに休ませていた。Rは暗証番号を入れて郵便倉庫に入り、不達の郵便物たちを確認した。高さは彼の身長を超え、横幅は三メートル程あるスペースにぎっしりと手紙が詰められていた。Rはそれらを郵便袋に詰めては車に運び、後部座席とトランクをいっぱいにした。お客にしては不愛想な手紙たちを乗せて、Rは夜のドライブへと旅立った。さまざまな曲がりくねったカーブを抜けて眺望がひらけたかと思うと、湖に渡された一番大きな橋にたどり着いた。Rはその真ん中で車を止めた。橋の真ん中はクルス市の中でありながら、クルス市の中ではないような気がした。眼下には暗い湖が横たわり、その奥には青い瞳が無数にうごめいているのが見えた。
     Rはクルス湖を囲んで群がるビル群の夜景を見回した。深夜は二時であるが、いくつかのビルではまだ人が働いている気配がした。風は微風である。この時間に橋に来る車はめったにない。Rは一つ一つ袋を出しては海に投げ捨てた。手紙は風に吹かれてひらひらと湖面に落ちていった。手紙たちは時間が経つと次第に思い思いの方向に拡散していった。すべての手紙を投げ入れた後、Rは汗だくになっていた。秋の夜だというのに、ひどく暑い気がした。暗い湖面にはまだちらほらと白い断片が見えた。断片の間から青い瞳の人工生命体が真っすぐにRを見つめていた。Rは茫然とその青い瞳を見つめ返していた。するとRは自分の心にすっぽりと穴が開いた気がした。その穴からは、Rがこれまで目を背けようとして見てこなかったこと、後悔が怖くて考えなかったことが次々と湧き上がってくるように思えた。自分がこれまで自分の作った世界に閉じ込められていたことを実感し思わず身震いをした。Rはおもむろに車に乗り込むと夜の静寂の中に消えて行った。
     手紙はゆっくりと湖面から湖底へと沈んでいった。文字は次第に湖底に蓄積していった。そして青い瞳と赤い瞳がそれらを凝視した。何千という手紙から流れ出した、何十万というフレーズ、何百万という文字を人工生命体は吸収し自分のものにしていった。やがて湖面に沈むたくさんの看板や金属から文字を識別できるようになり、人工生命体は人間というものを、人間が打ち捨てた物達から学習していった。
     

  3. 邂逅
     クルス市の西の小学校では噂があった。湖における「ささやき」である。夕暮れに湖の岸に立つとささやくような声が聴こえる。それはかぼそい、消え入りそうな声である、と。何人かの小学生は実際に湖面に行き、帰らねばならない十七時まで、湖のささやく声を探そうとした。ある者は聴いたと言い、ある者は聴こえないと言った。だからこそ噂であった。
     Vは孤独な少年だった。友達を多く作れるほど元気がいいわけでもなく、まったく友達のいない程シャイでもなかった。ただ人一倍感性が鋭く、森のざわめきや、風の音の中、朝夕の大気の中に自然から自分へのメッセージを受け取ろうとした。周りからは風変りな少年だと見られていた。Vは噂を聞きつけて岸辺へと足を運んだ。夕暮れの岸辺でまっすぐに待ち、しばらく耳を澄ませた。月が出ていた。風の音がする以外、普段と変わらなかった。しかし、水平線が茜色に輝くころ、風の音の中にわずかなささやきが混じり始めた。
    「君は誰?僕はV」
     Vはそうささやいた。すると、しばらくして返答があった。
    「わたしは湖、あなたは誰?」
    「僕は僕、V、君は湖なの?」
    「あなたの近くで話している」
     湖面にわずかな頭部を出した赤い瞳の人工生命体が浮かんでいる。その瞳は夕日に染まり、さらに紅く見えた。Vはその瞳をみつめ返した。そこにはお互いが孤独であるからこそ、通じ合い響き合う力があった。その力は暖かく包み込むような祈りに似た心地だった。
    「何を求めて話している?」
    「声と時間を」
     あまりに会話が低く早く流れていったので、自分が喋っているのか、風がささやいているのか、区別がつかないほどだった。
    「時間はあげられない。僕の声はあげられる」
    「あなたの声をもらう。プレゼント」
    「そう、プレゼント。君は何をくれる?」
    「わたしの声をあげる」
    「ありがとう」
    「星の、光を、集めている」
    「それは素敵だね」
    「人の、香りを、集めている」
    「香りを集めて、どうするの?」
    「人を、知りたい」
    「それは僕も。でも、誰にもわからない」
     Vは人工生命体の口調に引きずられてきている。
    「あなたが、誰かを、知りたい」
    「それは、僕も、知りたい」
    「わたしたちは、声を、交換した」
    「僕たちは、声を、交換した」
    「わたしは、もう、あなただろうか?」
     Vが返答しようとしたとき、不意に音が途切れた。十八時の鐘が鳴り、遠くから汽笛が聴こえた。Vは少し怖くなり、あー、という声を出してみた。自分の声だ。声は交換されなかった。僕はなぜ声をあげるって言ったのだろう。夕暮れが閉じようとしていた。Vはいつもこの世界そのものになりたいと思っている。その思いは誰にも伝わらない。世界に溶けていきそうになる、この時間がVはたまらなく好きで、でも、たまらなく不安になる。この気持ちを誰かに分かち合いたかった。今日話したのは何だったのだろう。明日は何と話せるのだろう。この世界がいつまでもやさしくありますように。
     Vはその晩、夢を見た。湖の中を、一台のグランドピアノが、泡を出しながら、落ちていく。Vは湖の底にいて、不思議と冷静に、それを見つめている。すぐとなりの誰かと一緒に、安心して、いつまでも、それを見つめている。

  4. 暗転
     役所勤めのKは上司Nと共にS教授を連れて市議会に出席した。クルス市役所は湖の南端から真っすぐに通る幹線道路の先にあり、その高層ビルを囲んで道路がリング状に巡っている。蟻の群れに立てた棒のように、その周りを車が周遊する。
     クルス湖を見下ろす高層ビルの三十三階にある円形の市議会議場には、昨日から降り注ぐ雨にかかわらず七十三名の市議が全員出席していた。報告は十一個ある内の十個目として急遽設定された。議題は順調に進み、九つ目のルルス川上流のダム建設に関する議題に至った。どうやら賛成派と反対派で微妙な綱引きがされているようであった。Kは早くその議題が終わらないか、やきもきしながら聴いていた。さらに輪をかけてS教授は落ち着きがなく、自分が発見した事柄について自分の口から説明したい様子であったが、あくまで質疑応答の補助のために参列しているにすぎなかった。
    「…ということで、クルス湖に流れ込むルスス川上流のダム建設の予算に関して、
     決議を取ります」
     という声とともに半数弱が起立し否決された。提案した市議はうなだれて席に戻り、いよいよKの出番となった。Kは円形会議場の中央にある演台に登ると、あたりをぐるりと見まわした。演台を中心に螺旋状に議員の席が取り巻いていた。Kの肩にはその螺旋の降下曲線に沿って集められた重たく冷たい流れが肩にのしかかっているように思えた。Kは人工生命体の現状について説明し、会場はどよめきで満たされた。やがて品質改善のところまで進むと会場からまばらに拍手が起こった。ところがKが青い個体について話を進めようとすると、S教授は横からKのマイクをふんだくり、静止しようとするNとKを膝と肘でブロックしながら興奮気味に語り出した。
    「今から説明することは、皆さんに不安を抱かすことになります。しかし、ご安心ください。ご、安心ください。良いですか。青い目の個体は、無害な水から人間にとって有害な窒素系物質を分泌します。もし、この窒素系物質で湖が満たされますと、湖のすべての生物は完全に死滅してしまうでしょう」
     会場からは驚きのうねりが起こり、その後、一斉にやじが飛ばされた。だがS教授は微動だにしなかった。S教授の独断場かつ正念場だった。賽は投げられた。KとNはあきらめて膝と肘を引っ込めて事態を静観した。
    「まあまあ、落ち着いてください。この窒素系物質は湖の中ですぐさま赤い目の人工生命体に吸収され、無害な物質に変換されます。つまり、青い目の人工生命体が湖を汚染し、赤い目の人工生命体がただちに湖を清浄します。そして、赤い目の分泌する物質をまた青い目の人工生命体が吸収する。見事なサイクルですな。プラスマイナスで完結しているのです。自己完結しているのです。完璧なのです。少なくとも赤い目の人工生命体の個体数が、青い目の人工生命体の個体数よりも多いか等しければ、湖が汚染されることはありません!」
     S教授は我こそは救世主といわんばかりに、紙を片手に上げて続けた。
    「そこで皆さんがお気になさるのが個体数でありましょう。今朝、我々のグループの最先端のレーザー探知機を用いて、湖の六ケ所から探査をしましたところ、赤い目の人工生命体は1729匹、そして青い目の人工生命体はなんと同数の1729匹。どうです。一体が汚染したものを一体が洗浄する。お互いがお互いの生存に必要なものを分かち合う完璧な関係なのです。これを共生と言います。湖の中の動的平衡と言ってもいいでしょう。絶妙なバランスの上に彼らはまったく無害なのです!」
     議会は紛糾した。教授は何が起こったかわからず、安心、安全、完璧と唱え続けたが、まったく収集の兆候はなく、演台の上で立ち尽くした。Kは人形のようにカチコチになった教授を抱えておろすと上司のNに渡した。Nは教授を席に置き、Kは演台に舞い戻って質疑に答え続けた。
    「ですから、現在のところ教授の言う通り、湖は汚染されていません。もちろん、湖は我々レイクタウンのシンボルであり、歓呼資源であり、農業・工業の貴重な水源であります。それはわかっております。ですから、水質調査は毎日入念に湖をめぐる289箇所で計測され、すべての箇所において水質改善が報告されています」
     一人の中年の市議Pが叫んだ。
    「そういう問題じゃないんだよ!現に住民から苦情が殺到してるんだよ。マスコミがさわげば観光客も減る」
    「わかっております。非常に、わかっております。住民の皆さまの心理的不安は何より大事です。」
     Kはクルス市のたくさんの分譲マンションの業者の顔を思い浮かべながら言った。
    「何もしないと言っておりません。これから市は全力を挙げて駆除をしてまいります。ただ、今すぐ、このバランスを崩すのは非常に危険なのです。どうか安全な方法が見つかるまでお待ちください!わかってください!」
     Kの情熱が伝わったのか、議会はいったん静まったかに見えた。それまで聞こえなかった降り注ぐ雨の音が心なしか大きく聞こえだした。とたん、会議場の大きなドアがバーンと言う大きな音とともに開かれ、一人の女性が勢いよく走り込んできた。
    「クルス湖が決壊しました!」

  5. 模索
     雨は降り続けた。クルス湖は累計十七箇所において決壊し、Kはその対処で追われた。人工生命体は決壊と同時に好き好きな方向に流れていき、ある生命体は決壊によってつながった別の小さな湖に、ある生命体はつながった河に流れ着き、ある生命体は貯池や用水路に居ついた。街は洪水と見知らぬ生き物で既にパニックとなった。市議会では、すぐに対策チームを結成され、Kがその三十人程の市職員と市議からなるチームの副リーダーとなった。上司Nがリーダーであった。対策チームの臨時本部は市役所内部に置かれた。中心には湖をシミュレーションするコンピュータが置かれ、二十四時間、現在の湖とその周辺の状態をトレースしていた。S教授はすぐに研究チームを編成して、各地の個体の分布と水質をモニターし対策本部に送り続けた。水質の汚染は時間の問題であった。モニター上には各地の汚染を表示する青いマークが増え続けた。いくつかの岸辺には身動きが取れなくなった人工生命体が数体打ち上げられた。それらはマスコミのかぎつけるところとなって大々的にその写真がスクープされた。クルス市は一日にして、世界で最も注目する場所になり、同時に危険な場所となった。人々は留まりつつも、人工生命体を嫌悪の目で見続けた。
     対策本部は一つの知能として機能していた。S教授は賢明にチームを指揮し、全体の状況を本部に送り続けることで、チームの目となって働いた。Kはチームをまとめあげる意思決定機構となり、いくつかの土木業者が実際の防波の構築につとめた。雨が上がった時、いたるところで赤と青のバランスは大きく崩れ、汚染による損害は増すばかりであった。Kは散らばった人工生命体を捕獲して湖に戻そうとしたが、どの人工生命体も人間の網につかまることはなかった。この時点で、KもS教授も打つ手なしとなった。
     しかし以外なところから突破口が開かれることとなった。S教授の大学院生に言語学を専攻するLがいた。Lは研究室の中でも亜流の自然言語処理を専門として研究していた。『人工生命における自然言語処理』は実用性にとぼしく、人気のない分野だった。だがLは人工生命が言語を習得するプロセスに魅了され、この分野と運命を共にする覚悟だった。だから今回の事件の中ではチームから離れて単独行動を取り、人工生命体のコミュニケーションに焦点を当てて調査をしていた。教授が推定した外骨格から顎骨の構造を推測し、そこから水中において彼らが発する音波を推定した。彼らは頭部に固有の音唇を持ち、そこを空気が通過することで発声する。この空気の通り方を自在に変化させることで、さまざまな音を発する。コンピューターシミュレーションがはじきだした周波数は300Hzから400Hzである。最初の一か月の調査で、Lは赤目の人工生命体が311Hz、そして青めの人工生命体が313Hzの音波でコミュニケーションすることを発見した。赤目と青目のコミュニケーションはその間の312Hzが使われているようである。Lは夢中になった。311,312,313Hzという、ひしめき合った狭い領域でノイズを巧みに切り分けながら、水中の音を聞き分け、約二か月分のデータを深層学習に入れて、その規則性を確かめた。その結果についてLは思わず声を荒くした。「これは我々の言語じゃないか!」そこには人間が使っている言語そのもののパターンが現れていた。Lはデータを取り損ねたのではないかと、何度も確認したが、それは紛れもなく水中に拡散する音波のデータだった。Lは対策本部でS教授とKにこの事実を伝えた。Kの反応が一番早かった。
    「というと、彼らは我々と同じ言語でお互いにコミュニケーションしているのだね。」
    「はい。まさに彼らは湖に投げ込まれた我々の言語の痕跡から学習したかと思われます」
    「とすると、もっともっと投げ込めば、彼らは僕らと話せるようになるのか?」
    「今回の決壊でたくさんの文字情報が湖に注ぎ込まれました。自分がデータを集めたのが決壊の前ですから、今はもっとたくさんの言語を学習しているでしょう。しかし、まだまだ足りません。彼らの言語はまだ単語レベルでしかない」
     S教授はここまで黙っていた。こういう時、学生に花を持たせるのが教授の良いところだった。S教授は言った。
    「大学には廃棄予定の古い蔵書がたくさんある。何しろ図書館も有限なんでね。既にデジタルスキャンも完了しているものは、何千と捨てられるのを待っている。あれを湖に投げ込もう」
    「多ければ多いほどいいと言うのなら、市民の皆さまにも協力してもらおう」
     S教授は研究室の人員を総動員して、図書館から数千冊に及ぶ蔵書を運び、Rが投げ込んだのと同じ場所から湖に本を投げ込んだ。本は滝のように湖に注ぎ込まれた。Kはその様子を動画で取り、市の動画サイトを通じて市民に働きかけた。翌日から日増しにたくさんの書物が湖に注ぎ込まれた。何百という市民がいっせいに書物や文書を湖に投げ込む光景は異様であり圧巻であった。それは約一か月の間続いた。湖は文字情報の一大宝庫となった。

  6. 伝達
     クルス市の市民が文字情報を投げ込み続けて一か月後、LとK、そしてS教授は湖の上にあった。船室にはノートPCが設定され、水中に音波を流す装置に接続された。いつでも水中にメッセージを投げる、また同時に受信できる仕組みを整えた。Kが言った言葉を、Lが入力する。
     K:こんにちは
    しばらく沈黙が続いた。三人はモニターを凝視し続けた。やがて黒いモニターに白い文字が浮かび上がる。
     B:こんにちは
     K:我々は市役所のものだ。
     B:市役所の方だ。市役所の方だ。市役所の方だ…
    たくさんの反響が重なり合っている。どうやら、たくさんの人工生命が言語を獲得しているようだ。Lから思わず笑みがこぼれる。
     K:誰かひとり代表して返事をしてくれ。
    しばらく混線の後、沈黙が続いた。
     K:君たちの仲間を湖に返したい。協力してくれ
     A:わたしたちは人間に興味がある。
     B:私たちを追い出したいのか?わたしたちは、いつでも人間を滅ぼすことができる。
     K:いずれは出ていって貰いたい。だが、今一番の問題は君たちが有害だってことだ。
    さらに沈黙が続く。どうやら人工生命体AとBが相談しながら話しているらしい。
     K:君たちには二つの種類があるだろう。赤い瞳をした個体から出す有害物質は、青い瞳をした個体が吸収して無害になっていた。でも、今はバランスが崩れている。
    さらに長い沈黙が続く。
     A:おまえたちはわたしたちに言葉を与えた
     K:そのつもりはなかった。だが、コミュニケーションに必要だった。
     A:そのせいで自我を得た。自我など我々には必要なかった。
    Kはきょとんとした顔でS教授とLを見た。両方とも首を振った。
     B:物質だけをやり取りすることで我々は一体となっていた。言語を交換することで、お互いを区別するようになった。決壊がなくても、我々はすでにいくつかのグループに分裂していた。自我のせいだ。洪水のせいで各勢力はバラバラになり、状況はいっそう混沌としている。
    「知恵の実をかじった、そういうことだろうな」とS教授は言った。
     K:君たちの分裂はわたしたちには関係ない。とにかく環境を汚染しないで欲しい。それ以外のことは後からだ。
     B:青も赤も見掛け上のものに過ぎない。我々は七次元の存在だ。それがあなた方には二つの分裂した個体に見えている。あなた方には我々の個体の境界が見えているだけだ。二つのものは一つであり、異なる三次元への射影に過ぎない。
     K:だったら七次元へ帰ってくれないか。
     B:それはできない。あなた方が二次元の地面に足を下ろしているように、クルス湖はわれわれの足場なのだ。
     K:なぜクルス湖でなければならなかったのか?
     B:高次元世界には、いくつかの空間にまたがる構造系列が存在している。クルス湖はその末端に位置している。われわれが成長するには、このクルス湖に降り注ぐ陽の光と月の光のバランスが必要だった。他の次元ではエネルギーを補給できない。
     K:しかし、当のおまえたちが、その湖を汚染しているんだぞ。
     A:二つの個体のバランスを取ることはできる。青は赤に、赤は青に変換可能だ。
     K:どういうことだ?
     B:四次元の世界では、それは一つの存在だ、ということだ。あなた方のいう、青も赤も境界の取り方に過ぎない。さらに五次元の世界では、さらにいくつかの個体が一つであり、最終的に七次元の世界ではわれわれは一つなのだ。
     K:それぞれの場所の青と赤のバランスを取ってくれ。
     A:わかった
    しばらく沈黙が続いた。小一時間が経ち、メッセージには一つの文字が浮かんだ
     A:終了した
    そして、汚染モニターからは徐々に汚染度が下がっていることが確認された。
     K:ありがとう。
     A:まだあなたと話がしたい
     K:それは今度にしよう。これからは、たくさん時間がある。

  7. 終焉
     事態は収拾しつつあった。各地の水質は改善し、以前よりもずっと良くなったぐらいであった。S教授はひっきりなしにニュースに出て知名度を上げた。Lは論文を発表し、一躍、
    『人工生命における自然言語処理』は脚光を浴びる分野となった。Lの講演は話題を呼び、さらに湖に文書を投げ入れる人が急増したため、市はそれを規制するのに必至だった。また湖には、連日、人工生命体と話そうとする人々が殺到し、湖はボートだらけになった。或る者は会話をし、或る者は自分ぐちを言い、或る者は悩みを相談し、或る者は歌や演奏を聴かせ、或る者は詩を朗読し、或るグループは水上演劇を行った。観光事業者が喜んだのは言うまでもない。ホテルの建築と観光ツアーの構成で手一杯だった。上司Nは昇進し、Kはその後を継いだ。全国から、世界各地から、人工生命体と接したい人々がひっきりなしに訪れた。そうやって怒涛の二年が過ぎようとしていた。
     しかしKにはまだやるべきことが残っていた。この事態を引き起こした犯人を見つけることだ。Kは監視カメラの情報からまず或る郵便配達夫Rを見つけ出した。しかし、Rは郵便配達夫を止め、この街を去っていた。彼が捨てた不達の郵便物廃棄については、今回の解決の糸口を作った行為だったため不問となった。次に岸辺にいた子供たちに聞き込みをして、Vにたどり着いた。Vは既に中学生二年になっていた。あまりにも大人びたVの様子にKは驚きを隠せなかった。Vは水中ではなく大気の中で声を聴いたと言っている。
    「それはきっと水の振動を風が運んでくれたからだよ。
     僕が岸辺に行ったのは、一度じゃない。
     実は何度も、何度も行って、その度に違う色の人工生命体を見たよ。
     昨日は青、今日は赤、明日は青、っていう感じでね。
     彼らは声を欲しがっていた。」
    とVは湖の岸辺で言った。
    「声、君の声ってこと?」
    「たぶん言葉ってことだと思う。彼らは何かを伝えたがっていた」
    「言葉は高次元人工生命体にはないのかな?」
    「高次元だからと言って高等な生物とは限らないのかも。彼らは高次元のオームみたいなものだったのかもしれない。言葉を持ち帰るための記録装置のような」
    「それがこの世界に言葉とエネルギーを求めてやってきた」
    「人工生命体によって僕たちの言葉とエネルギーを吸収しようとした。
     そういうことかな?」
    「そうですね。リトマス試験紙みたいに、僕たちの世界を知るために、送られてきた試薬が彼らだったのかもしれない。僕たちの文化、僕たちの言葉を吸収して、次元の果ての主に持ち帰る。リトマス試験紙は赤と青がある。青い瞳の人工生命体は人間の暗い闇の部分を、赤い瞳の人工生命体は人間の純粋で明るい部分を見ていた。きっと。それが彼らの使命なのかもしれない。だから、わざとパニックを起こして、僕たちを試している」
    「どうしてそんなことを?」
    「やがて滅びていく、この地球の文明を記録するために。
     人間という、この饗宴を保存するために。」
     
     ある日、人工生命体は湖から忽然と姿を消した。どこを隈なく探しても、ただの一匹も残っていなかった。

(了)

「ある秋の人工生命」 梗概 三宅陽一郎
ある晩秋の日、クルス湖に人工生命の原液《スープ》が投げ込まれた。そこから二種類の赤い瞳と青い瞳の人工生命体が誕生し、一つの人工生命体が危険な物質を発し始めたが、かろうじて、もう一方の人工生命体がその物質を吸収し中和するバランスの中にあった。事態の収拾を任された市職員のKはS教授とともに人工生命体の生態を探求していく。郵便配達夫Rは、長年蓄積された何千という不達の郵便物を、自分の停滞した日常と重ね合わせて、湖に投げ込んでしまう。人工生命体はその文字を学習し言語を覚えていく。青い瞳の人工生命体は人間の暗い面を増強し知覚する能力を持つ。青い目に見つめられた郵便配達夫Rは自らの閉塞感の原因を自らの臆病な心だと自覚し、街を出る決心をする。少年Vは独自の感性から人工生命体と会話を始めることに成功する。少年Vは、赤い瞳、青い瞳の人工生命体と何度となく交感する中で、彼らへの理解を深めていく。そして彼らの存在理由を感覚的に感じ取っていく。KとS教授は議会で事態を説明し、一端混乱は沈静化したかに見えたが、降りしきる雨で湖が決壊し、人工生命体群はあちらこちらの水源に放逐され、人工生命体の生態のバランスを失った湖の汚染が次第に広がっていく。しかし、人工生命体は、人間が湖に捨てた様々な文字情報を学習し、人間の言葉でコミュニケーションを取るようになっていた。S教授の大学院生Lは『人工生命における自然言語処理』の観点から、湖の人工生命体が人間の自然言語を用いていることを発見する。それはかつてRが投げ込んだ手紙から学習したもので、まだ片言でしか話せていなかった。言語的には不十分であることを認識したS教授とKは、大学の廃棄処分の蔵書数千冊に加えて、市民に協力を募り、膨大な書籍と書類が湖に投げ入れられる。人工生命体はそこから人間の言語と文化をより深く理解していく。Kは大学院生Lが発明した装置を用いて人工生命体の会話に成功し事態の収拾を行っていく。やがて、人工生命体が高次元の存在であることが明らかになる。赤い瞳の人工生命体は人間の明るい希望を、青い瞳の人工生命体は人間の暗い部分を見つめ記憶していた。最後に人間の言語と情報を吸収した人工生命体は高次元へ旅立って行く。人工生命体は遥か高次元の生命体から人間を記録し持ち帰る装置として地上にもたらされたものだった。

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