人生で初めて責任というものを感じたお話
今月からLINEのチャット上で高校生の進路相談の相談相手を恐れ多くもさせていただいています。
人前で語れるほどの大した人生を送っていないし、人生経験ももちろん少ないですし、自分なんかが相談相手でいいのか?と自問しながら高校生の質問に対する自分なりの回答を考えています。
大学受験をはじめとして文理選択や将来なりたい姿等々、リアルで真剣な高校生の質問や相談。
投げかけられる質問の内容に私自身も学ばせていただいている日々です。
アドバイスをさせていただいている以上、発言には責任が伴う
私は高校生に自分の回答どおりにしてほしいとは1ミリも思っていません。
高校生の質問に対する私の回答をアドバイスとして受け入れるかどうかは彼ら次第です。
仮に彼らが私の回答をアドバイスとして受け入れるとしても、すべてを受け入れるのか、一部を受け入れるのか、それも彼ら次第です。
ただ、少なくとも彼らにとって重要な進路に関わる質問に答えさせていただいている立場上、軽はずみなことは言えません。
そんなに考えすぎなくても、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
たしかに高校生のときの進路選択なんて人生のうちでそんなに大したことはないと私は思います。
でもそれは私が大学生だから言えることであって、経年変化による過小評価でしかありません。
彼らにとっては目の前に迫る重要な問題なのです。
真剣に質問してくれているからこそ、私も少ない自分の経験をもとに真剣に向き合わなければいけない
彼らの質問を見ていてそう思わされました。
「自分で考えよう」はときに無責任な発言になる
自分で考える、自分で選択する。
自走できるような自分なりの判断軸を持つことは大切だと思います。
ただ、そういう自走を促すためであるはずの「自分で考えよう」はときに無責任な発言になるように思います。
たとえば今のような高校生の進路相談のとき。
相談というのは基本的には自分の今持っている判断材料では判断できないときや困っているときにするのではないでしょうか?
そんな人にただ自分で考えようとだけいうのは無責任なように私は思います。
判断できない、困っているから相談しているからこそ、私なりの視点と視野と視座でその判断材料を増やしてあげたり、時には、減らしてあげたりすることで提案する。
その上で、自分で判断する、考えるように促す。
自走してもらう。
当たり前ですが、私の回答はあくまでも自分の経験したことをもとに話しています。
この経験が他人にとって参考になるのか、再現性があるのか、私にはまだわかりません。
だからこそ、私の経験や考え方と彼らの経験と考え方を対比させて判断してもらう。
決して自分の回答を押し付けたり、相手の意見を否定したりしない。
そういうふうに最近は気をつけています。
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