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「フレンパ」~友だち以上父親未満~ 第五話 

「正直に言うとね、淋しいの。どうしようもないほどに・・・」

香港の繁華街、モンコック地区にある馴染みのスナックで、そう話す十和子の目は、何かを訴えているように見える。そして次の瞬間、吾朗の隣で十和子は急に目を閉じた。

「えっ?」

十和子が急に目を閉じたことで、吾朗は一瞬戸惑いを感じた。しかし次の瞬間、吾朗はカウンターの灰皿を引き寄せて煙草の火を消すと、自分の唇を十和子のほうへと近づけていったのだった。

幸いにも、カウンターの正面に店のスタッフはいなかった。また、ふたりが座っている一番奥のカウンター席は、他の客からも目立たない場所であったことから、幾分安心感があったのか、重ね合ったふたつの唇は、しばらく離れることはなかった。

「少し、外を歩きませんか?」

先に唇を離した吾朗が、十和子の口元でささやいた。十和子が軽く頷くと、吾朗は店のスタッフに合図して、チェック(お勘定)のサインを送った。

既に、午後九時半を回っていたが、店のあるモンコック地区は、屋台がひしめくエリアでもあり、この時間でも多くの人が行き交っている。十和子は、吾朗の腕に自分の腕をからめながら、ふたり並んで、香港の九龍側のメインストリートであるネイザンロードへと向かっていた。

「ちょっと、質問していいですか?」

吾朗は、自分の方へもたれかかるように体を寄せて歩く十和子に聞いた。

「ん?どんなこと?」

「ご主人のお仕事って、確か、外資系航空会社パイロットですよね?」

「そうよ。私がカナダに留学してた時に、彼と共通の友人がいて、その友人のバースデーパーティーで初めて知り合ったの」

「あの、さっき、『淋しい』って言った、あれは、どういう・・・」

吾朗が歯切れの悪い口調で発した問いに、十和子は質問の意図を察したかのように、今の夫婦関係について話し始めた。

五年前にカナダで、パイロットである香港人の夫と知り合い、四年前に香港で結婚した十和子は、当初の一、二年を共働きで過ごした。その後は、出産して専業主婦となり、子育てに専念したいという願望を抱いていた十和子だったが、なかなか子宝に恵まれなかったことから、夫婦で不妊理由を確かめるために、知り合いのドクターへ診察を依頼したのだった。その結果、夫には何ら原因は無く、十和子のほうに問題があるとの診断が出たことで、十和子は次第に自分を責めるようになっていったのである。

十和子の夫は職業柄、家を留守にすることが多く、しかも職場ではフライトアテンダントという華やかな女性が多いこともあってか、次第に、妻の十和子ではなく、別の女性に興味を示し始めたのだった。そして、確かな浮気という証拠はないものの、夫が帰宅すると、その服からは女性向けの香水がほのかに香ることが多くなっていた。

「最近、夫との会話は全くないわ。全く、ナッシング・・・」

淋しそうに、そう話す十和子の声が、やがてフェードアウトするように消えた。

「そうだったんですか・・・」

同情するような口調でそう言った吾朗は、急に立ち止まった十和子を振り返って見つめると、正面で向かい合う状態になった。そして次第に、ふたりは息がかかるほどの距離にまで近づき、見つめ合った。

「夫は今日、夕方のフライトでバンクーバーに出発したわ」

十和子の眼が、その言葉以上に、何かを自分に語りかけている・・・、吾朗はそう感じた。

そして吾朗は、黙ったままで立ちつくす十和子の体に、ゆっくりと両手をまわし、強く抱きしめたのだった。

東京・汐留エリア、帝国通運本社。
はるか遠い昔の記憶を思い返していた吾朗であったが、帝国通運本社十四階の中会議室では、すでに三つの新規ビジネス案を説明し終えたチームリーダーが、正面のスクリーンから離れて、進行役の仲城へマイクを渡していた。

「それでは、今ちょうど午後三時四十五分ですので、午後四時までを休憩時間とさせていただきます。それでは十五分後に再開いたしますので、それまでに再度ご参集お願いいたします」

仲城の言葉で、座っていた社員たちの多くが立ち上がると、部屋の出口へと向かった。そして吾朗は、その集団に紛れながら部屋を出た後、まるで人目を避けるように、誰もいないビルの非常階段を使って、一階上にある喫煙ルームへと向かった。

「まさか、十和子さんが社外コンサルをしていたなんて・・・」

非常階段を登りながら、そうつぶやいた吾朗は、今年の四月に部長職への昇格ができなかったことを深く悔んだ。なぜなら、一兵卒となったいま、十和子と目を合わせて会話をすることが、赤面するほど恥ずかしく、何も発する言葉が見つからなかったからである。

「やはりオレも、しがないサラリーマン根性が身に染みた、ちっぽけな男だな」

煙草の煙を吐きながら吾朗は、ひとり喫煙ルームの中で自分を嘲笑うように言った。そして、腕時計を見ると、早いもので時間は既に十分が経過しようとしていた。

「ふう、仕方ない・・・。行くか」

そう言いながら、喫煙ルームのドアを空けると、重い足取りで吾朗は非常階段を使い、階下にある中会議室へと戻っていった。

十五分間の休憩を終えて、本社中会議室には、すでに多くの社員が休憩前に座っていた元の席に着いていた。吾朗も同様に、最後尾の元いた席に戻ろうと、座席の上に置いていた資料と筆記用具を見た瞬間、思わず「えっ」と小さな声をあげた。

休憩前にはなかった、小さな白いメモ用紙が、折りたたまれた状態でボールペンの下に置かれていたのである。

席に座った吾朗は、恐る恐るといった仕草で、そのメモ用紙を開いた。

(今晩、時間ある?携帯へショートメールで返事して。十和子)

この短い文章を目にした途端、吾朗は心臓の鼓動が速くなり、上半身が熱くなってゆくのを感じた。また、そのメモには、携帯電話の番号らしき数字が書かれている。そして、吾朗は目を伏せがちにしたまま、窓際のオブザーバー席に座る十和子へ視線を送った。その先に見えた十和子の顔は、俯き加減で書類に目を通しているように見えても、視線は最後尾の席に座っている吾朗へ向けられていたのだった。

思いがけず、十和子と目が合ってしまった瞬間、吾朗は、咄嗟に視線をそらせ、テーブルの上にある資料を見るふりをした。

「それでは、これからセミファイナルとして説明させていただいた三つの新規ビジネス案について、ご意見をいただきたいと思います。まずは・・・」

司会をしている専任部長の仲城の声が聞こえる。

やがて吾朗は、少しずつ落ち着きを取り戻しながら、会議の進行に意識を向け始めたのだった。

吾朗が所属する部内のチームが提案した新規ビジネス案の一つ目は、訪問介護業界向けの物流サービスである。訪問介護の現場では、ヘルパーが日々重い荷物を持って、バイクや自転車を使い、各要介護家庭を訪問している。訪問先が複数の場合、運ぶ荷物は多くなるのが現状である。そこで、当社がルートを決めて、通い箱で使用前の介護用具を事前に配達、そして使用済み分を回収する、ミルクラン方式のピック・アンド・ドロップ・サービスを考え出した。

「発想は斬新で、業界のニーズもあるだろう。しかし、回収物には使用済みタオルや廃棄物もあり、それらを新品で未使用の通い箱と同じ荷台スペースに入れて車を走らせるのは、衛生上の問題がありはしないか?」

そんな営業担当役員の発言は、吾朗もかつて、チーム会議で指摘したことがある。

その他、総務担当役員からは、「全国展開するにしても、年を追うごとに増え続ける社内のシニア人材を、受け入れるだけの事業規模になるのか?」といった意見が出ると、堰を切ったように、さまざまな意見が噴出した。そして、厳しい見解を目の当たりにした専任部長の仲城は、ただ「今後、再検討いたします」を連発するしかなかった。

そして、二つ目の新規ビジネス案は、規格外野菜のリテール・サービスである。

収穫時に、キズがある野菜や、変形している野菜は、そのほとんどが市場に出る前に廃棄されており、その廃棄率は、収穫量の十五パーセントを占めるとも言われている。そこで当社が、生産者と消費者をマッチングさせる携帯アプリを開発し、その輸送を担うというアイデアである。アプリ上で売買の決済が可能であるため、その手数料と、物流費用の両方が収入計上出来、全国規模での展開となれば、億単位の収入が見込める。

「規格外野菜は、特に外食産業がその購入者になると思うが、今なお流行している感染症という逆風が吹く業界の現状では、購入するだけの需要や余力はないだろうね」

そう言った営業担当役員は最後に、導入時期が悪すぎるといったコメントを付け加えた。

「仮に、一般消費者への宅配をするにしても、既に当社は、その宅配事業から一部、航空事業部門の宅配サービスを残して撤退した会社だからね」

総務担当役員が間髪入れずに、そう言った後、アプリ事業としての魅力はあるものの、大量のシニア人材を活用するプラットフォームにはならないだろうと告げた。

こういった役員たちの発言は、どれも、かつてチーム会議で吾朗が指摘した内容と一致している。そして吾朗は、ただ頷きながら、議論の行方を見守るように聞いていた。

最後となる三つ目の新規ビジネス案は、民間の養護老人施設と老舗百貨店がタイアップした、ライブ型ショッピング事業である。

車いすや杖を使って外出する老人たちは、百貨店に行きたくても行けない方が多いと思われる。そこで、老人ホーム施設内のロビーに大型のモニターを設置し、入居者がライブで百貨店スタッフへ遠隔指示しながら、店内にいる感覚でショッピングをするというアイデアである。そして、オンラインでの支払いを済ませた後は、その日のうちに施設へ商品が配達される。

「購入する商品の物流量が問題だな。たとえ、複数の入居者たちが同時に注文したとしても、その物流量はかなり少ない可能性が大きいと思うよ。トラックに紙袋が三つ、四つだけというパターンが多くなるかもしれない」

すでに辛口コメントしか言わなくなった営業担当役員が、そう指摘した。

「施設でのモニター設置や、到着時に商品を手渡しするなど、いろいろと手間がかかるし、シニア人材が、そんなキメ細かいサービスをする割には、収入が追いついていかないと思うよ」

総務担当役員は、輸送業者向けというより、純粋に接客サービス業向けの新規ビジネスではないか、とも話したのだった。

吾朗は、そんな共感できる役員たちのコメントを聞きながら、シャンシャン会議でなく、まっとうな批評ができる風土が、現在も当社には存在していることで、『この会社は、まだまだ捨てたもんじゃない』と心の中でつぶやいていた。

そして、ひと通りの議論が落ち着いたところで、吾朗は携帯電話を取り出して、十和子の携帯へショートメールを送った。

第五話 おわり


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