見出し画像

「フレンパ」~友だち以上父親未満~ 第9話

「正直に言うとね、淋しいの。どうしようもないほどに・・・」

香港の繁華街、モンコック地区にある馴染みのスナックで、そう話す十和子の目は、何かを訴えているように見える。そして次の瞬間、吾朗の隣で十和子は急に目を閉じた。

「えっ?」

十和子が急に目を閉じたことで、吾朗は一瞬戸惑いを感じた。しかし次の瞬間、吾朗は、カウンターの灰皿を引き寄せて煙草の火を消すと、自分の唇を自然に十和子のほうへと近づけていったのだった。

幸いにも、カウンターの正面に店のスタッフはいなかった。また、ふたりが座っている一番奥のカウンター席は、他の客からも目立たない場所であったことから、幾分安心感があったのか、重ね合ったふたつの唇は、しばらく離れることはなかった。

「少し、外を歩きませんか?」

先に唇を離した吾朗が、十和子の口元でささやいた。十和子が軽く頷くと、吾朗は店のスタッフに合図して、チェックのサインを送った。

既に、午後九時半を回っていたが、店のあるモンコック地区は、屋台がひしめくエリアでもあり、この時間でも多くの人が行き交っている。十和子は、吾朗の腕に自分の腕をからめながら、ふたり並んで、香港の九龍側のメインストリートであるネイザンロードへと向かっていた。

「ちょっと、質問していいですか?」

吾朗は、自分の方へもたれかかるように体を寄せて歩く十和子に聞いた。

「ん?どんなこと?」

「ご主人のお仕事って、確かパイロットですよね?」

「そうよ。私がカナダに留学してた時に、彼と共通の友人がいて、その友人のバースデーパーティーで初めて知り合ったの」

「あの、さっき、『淋しい』って言った、あれは、どういう・・・」

吾朗が歯切れの悪い口調で発した問いに、十和子は質問の意図を察したかのように、今の夫婦関係について話し始めた。

五年前にカナダで、パイロットである香港人の夫と知り合い、四年前に香港で結婚した十和子は、当初の一、二年を共働きで過ごし、その後は出産し、専業主婦として子育てに専念したいという願望を抱いていた。しかし結婚後は子宝に恵まれなかったことから、夫婦で、その理由を確かめるために知り合いのドクターへ診察を依頼したのだった。その結果、夫には何ら原因は無く、十和子のほうに問題があるとの診断が出たことで、十和子は次第に自分を責めるようになっていったのである。

十和子の夫は職業柄、家を留守にすることが多く、しかも職場ではフライトアテンダントという華やかな女性が多いこともあってか、次第に、妻の十和子ではなく、別の女性に興味を示し始めたのだった。そして、確かな浮気という証拠はないものの、夫が帰宅すると、その服からは女性向けの香水がほのかに香ることが多くなっていた。

「最近、夫との会話は全くないわ。全く、ナッシング・・・」

淋しそうに、そう話す十和子の声が、やがてフェードアウトするように消えた。

「そうだったんですか・・・」

同情するような口調でそう言った吾朗は、急に立ち止まった十和子を振り返って見つめると、正面で向かい合う状態になった。そして次第に、ふたりは息がかかるほどの距離にまで近づき、見つめ合った。

「夫は今日、夕方のフライトでバンクーバーに出発したわ」

十和子の眼が、その言葉以上に、何かを自分に語りかけている・・・、吾朗はそう感じた。

そして吾朗は、黙ったままで立ちつくす十和子の体に、ゆっくりと両手をまわし、強く抱きしめたのだった。

そんな遠い昔の記憶を思い返していた吾朗であったが、帝国通運本社十四階の中会議室では、すでに三つの新規ビジネス案を説明し終えたチームリーダーが、正面のスクリーンから離れて、進行役の仲城へマイクを渡していた。

「それでは、今ちょうど午後三時四十五分ですので、午後四時までを休憩時間とさせていただきます。それでは十五分後に再開いたしますので、それまでに再度ご参集お願いいたします」

仲城の言葉で、座っていた社員たちの多くが立ち上がると、部屋の出口へと向かった。そして吾朗は、その集団に紛れながら部屋を出た後、まるで人目を避けるように、誰もいないビルの非常階段を使って、一階上にある喫煙ルームへと向かった。

「まさか、十和子さんがコンサルをしていたなんて・・・」

非常階段を登りながら、そうつぶやいた吾朗は、今年の四月に部長職への昇格ができなかったことを深く悔んだ。なぜなら、一兵卒となったいま、十和子と目を合わせて会話をすることが、赤面するほど恥ずかしく、何も発する言葉が見つからなかったからである。

「やはりオレも、サラリーマン根性が身に染みた、ちっぽけな男だな」

煙草の煙を吐きながら吾朗は、ひとり喫煙ルームの中で自分を嘲笑うように言った。そして、腕時計を見ると、早いもので時間は既に十分が経過しようとしていた。

「ふう、仕方ない・・・。行くか」

そう言いながら、喫煙ルームのドアを空けると、重い足取りで吾朗は非常階段を使い、階下にある中会議室へと戻っていった。

第10話へ続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?