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「東京恋物語」第四話:未知への船出

六本木ヒルズにあるFMラジオ局。
夕方の番組にゲストで生出演していた奈々子は、その仕事を終えると、一階エントランス前に待機していた事務所のワゴン車に乗り、二番町の自宅へと向かっていた。
そして、奈々子を乗せたワゴン車は、六本木通りを溜池へと走っている。
「ごめんなさい、ちょっと行き先を虎ノ門に変更して下さい」
腕時計の時間が午後六時半を示しているのを確かめると、奈々子は運転手にそう告げた。一か月ほど前から、奈々子は週に一、二度のペースで、虎ノ門にある総合病院を訪問するようにしていた。その精神科病棟には、同じ事務所の後輩女優である栗原翔子が、うつ病と診断され入院している。
「帰りは、タクシーを使いますから、待たなくていいですわ」
奈々子は、運転手にそう告げると、病院の中へと入って行った。
翔子のベッドは、ラックやパーテーションで仕切られた四人部屋の奥にあった。とはいえ、ベッドはすべて埋まっており、見舞い客は人目に晒されることから、奈々子は、病院の中に入る前から準備していた、キャップ帽に透明なメガネ、そしてマスクをつけたまま、翔子のベッドへと近づいていった。
「あっ、先輩」
さっきまで、携帯電話を操作していた翔子が、奈々子に気づいて言った。
「翔子ちゃん、具合はどう?」
「主治医の先生からは、来週にも退院できるとのお話しがありました」
艶めく髪をポニーテールに結んだ翔子の表情は、二十代半ばではあるが、まるで女子高生のように初々しく見えた。
「よかった。以前の翔子ちゃんに戻ったみたいで、安心したわ。もう女優を辞めるなんて言わないで、絶対に復帰してね」
翔子が持つ女優としての才能を高く評価していた奈々子は、かつて、さまざまなパーティーや食事会の場へ誘われた際には、常に翔子を伴って参加していた。そして、そんな奈々子の振る舞いが、結果として今回の事態を招いたのだと、責任を強く感じていた。
いろいろな業界でメインストリームを走る人物と顔見知りになることが目的とはいえ、もっと吟味した上で翔子を誘っていれば、という後悔の念をいつも抱いていたのである。
半年前から、テレビの仕事で宮野と知り合った奈々子は、宮野からのパーティの誘いにも、翔子を伴って参加することが多かった。その後、宮野と奈々子は個人的に、通常の社交的な食事を数回していたが、その一方で、宮野は翔子に対しても、個人的なアプローチを始めていたのだった。そして数か月前のある夜に、宮野が酔った翔子を、新宿歌舞伎町にあるバーに誘ったことが、そもそもの始まりだった。
新宿歌舞伎町。ここには、数多くのホストクラブがあり、一部、二部、三部と同じ店舗で3つの営業時間帯がある。そのうちの一部は、午後六時出勤、そして午後七時には店をオープンさせる。そして、午前零時のラストオーダーの後、午前一時には店舗を閉めて掃除と片付けに入るという営業形態であった。
ホストたちは、営業時間帯でのキャッチ、いわゆる客引き行為は法律や条例で禁止されているため、出勤時間の前後で街に出てキャッチをするのが通常となっている。その際、深夜のキャッチで重要な拠点になっていたのが、バーと呼ばれるホストクラブの系列店である。
宮野は翔子を、そのバーに連れ込んだのだった。
深夜一時以降は、アフターやキャッチで誘った女性を連れたホストたちが集う店内。その夜も、店内には、ほどほどに人が入っていた。
宮野は、そこで顔馴染みのホストに翔子を紹介したのである。
それ以降、かねてから宮野に対して好意を持っていた翔子は、多忙を理由に会おうとしない宮野への思いを、そのホストへ相談し始めるようになった。そんな翔子を、言葉巧みなホストが見逃すことはない。彼らが得意とする恋愛経験豊かな話術によって、翔子はやがて、ホスト通いを始めることになったのである。
ある夜、ホストが翔子へパパ活という高収入なアルバイトを紹介してきたのは、翔子のホスト通いをする資金が、ほぼ尽きた頃だった。それはつまり、指定された通りに、男性と映画鑑賞や食事などの擬似デートをすることである。場合によっては、それ以上の要求をされることもあるが、翔子は、その流れで数回にわたってパパ活を経験することとなる。
ある日、翔子は、担当ホストから数十万円を渡され、霞が関の官僚と一線を越える要求をされたことがあった。しかし翔子は、思い悩んだ末に、歌舞伎町から足を洗う決意をしたのだった。ところが、それを境に、担当ホストからは、翔子を誹謗中傷する電話やメールが届き始め、最終的には脅しのような言葉を浴びせられるまでにエスカレートしたのだった。その結果、女優としての将来を悲観するようになった翔子は、精神を病んでしまったのである。
「いろいろあったけど、翔子ちゃんはギリギリのところで、正しい判断をしたのよ。そんな自分を責めちゃダメ。あなたが悪いんじゃない。わたしが・・・」
「先輩、大丈夫です。『いろんな過去、そのすべてが、女優業の肥やしになる』、先輩が以前からおっしゃっていた言葉、いまようやく理解できた気がします」
奈々子の言葉をさえぎって、翔子が、噛み締めるように言った。
「翔子ちゃん・・・」
奈々子は、翔子の細く白い手を、しっかり握りしめていた。

病院を後にした奈々子は、急ぎ足で病院出口にあるタクシー乗り場へと向かった。
「すみません、ちょっと急ぎなんですが・・・、弁慶橋から紀尾井町経由で麹町へ」
時計は既に午後七時半を回っている。奈々子は、事前に紀尾井町にあるホテル内の有名寿司店に、二人前の折箱を注文していた。
ホテルの玄関前でタクシーを待たせた奈々子は、大急ぎで注文の品をピックアップすると、再び待たせていたタクシーに乗り込み、二番町の自宅へと向かった。
「よかった、間に合った」
午後八時まであと五分。急いでマンションのエントランスから、エレベーターへと小走りで駆けつけた奈々子は、閉りかけたエレベータードアの隙間に、無理やり手を挟み込むようにして、ドアを押し開けた。
「奈々子さん・・・」
声の主は、祐太郎である。
奈々子は、咄嗟にエレベーター内を見まわして、他に人がいないことを確かめると、祐太郎を見ながら、大きく息を吐いた。
「ハァ、ごめん。ちょっと一件寄るところがあって・・・」
「大丈夫ですか?そんな急がなくてもよかったのに・・・」
奈々子の言葉に、祐太郎は気を遣ってそう言うと、奈々子の部屋があるフロア階へと、エレベーターのボタンを押した。
「ありがとう。ところで、小嶋くん、晩ごはん食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃ、これ」
奈々子はそう言って、手に提げていた寿司店の折箱が入った紙袋を持ち上げて、祐太郎に見せた。
「すごい、これ有名な寿司店ですよ。道理で、さっきから酢めしと海苔のいい香りがしてたわけだ」
そう言った祐太郎は、鼻をくんくん鳴らした。
「ええ、奮発しちゃった」
「ということは、ここに寄ってたから、そんなに慌てて?」
祐太郎が言い終わるやいなや、エレベーターは指定階に停まった。
「いえ・・・、まあ、詳しいことは、部屋で話すわ」
奈々子はそう言って、エレベーターを降りると、祐太郎もそれに続いた。
「えっと、ここにカギが・・・」
奈々子が、バッグに手を入れてカギを探していると、祐太郎がズボンのポケットからカギを取り出して、ドアの差し込み口に入れた。さらに、ドアノブをまわしてドアを開けると、奈々子へ中に入るよう、笑みながら目で促した。
「そうだったわね、ありがとう」
奈々子は、先ほど病院で面会した翔子から、もうじき退院できると聞いた嬉しさが、あまりにも大きかったせいか、自分の部屋のカギを祐太郎に渡していたことを、うっかり忘れていた。
「どうぞ、入って」
奈々子の言葉に従って、祐太郎は中へと入った。なんとも言えない、いい香りがする。おそらくアロマでなく、奈々子が日頃使っている香水かコロンだろう。祐太郎は、生まれて初めて、女性が暮らす部屋へ足を踏み入れたのだった。
部屋の中は、綺麗に整理されており、リビングには、ホテルのスイートルームを思わせるラグジュアリー感あふれた調度品やソファーがある。そしてダイニングはオープンキッチンとなっており、食事を作りながら、リビング越しに、外に広がる夜景を望むことができた。
「お腹すいたでしょ、お寿司食べて」
奈々子は、肩まで伸びている髪を巻きあげると、ダイニングテーブルに向かい合わせるように寿司の折箱を置いた。そして、素早くキッチンでお湯を沸かし、お茶の用意も慣れた手つきで、急須に茶葉を入れるのだった。
祐太郎は、そんな奈々子に見とれながら、持参したエアアロマの小さな紙袋をソファーの上に置いて、洗面台で手洗いと、うがいを済ませ、ダイニングテーブルに就いた。
奈々子はまだ、キッチンで作業をしている。
「はい、どうぞ」
ビール瓶とコップ、そして急須と湯呑をトレーに載せてテーブルに就いた奈々子は、正面に座る祐太郎のグラスへビールを注いだ。それに取って返すように、祐太郎も奈々子のグラスにビールを注ぐ。
「じゃ、乾杯」
奈々子の発声に、祐太郎も続けて「乾杯!」と言って、ふたりはグラスを鳴らした。
「あの、さっきの話ですが・・・」
祐太郎は、エレベーターの中で交わした会話の続きを切り出した。
「そう、さっき慌ててた理由よね」
そして、奈々子は、先ほどまで後輩女優の栗原翔子が入院している病院を見舞いに行っていたこと、そしてその原因を作ったのが、自分であることを話した。さらに、宮野のビジネスの裏側では、女性を接待の道具のように扱っている可能性があることも。
「つまり、宮野さんは、歌舞伎町のホストを利用して、意図的にパパ活をする女性を作り出し、ビジネスの接待に利用していると?」
「ええ。その通りよ」
「あと・・・、ひとつ質問していいですか?」
そう言って祐太郎は、以前に奈々子が発した言葉の中で記憶に残っている、復讐というワードについて教えて欲しいとたずねた。
「それは・・・」
奈々子は、パパ活ではないものの、宮野が官公庁に絡むビジネスにおいて、宮野自身の存在感を示そうと、キャンペーンガールという広告塔に利用されそうになったことを話した。そして時期を同じくして、翔子が精神的に病んでしまった顛末を知ってしまった奈々子は、そのオファーを、事務所を通じて断ったために、宮野の怒りを買ってしまったこと、さらには、不本意な恋愛報道を否定するための破局報道を、奈々子の事務所から意図的に流したことも、報復、つまり奈々子への復讐として失踪騒動を起こすことにつながったと説明した。そして、それは宮野自身へ向けられたマイナスイメージを擁護するためでもある。
「なるほど。でも・・・、これは勝手な推測ですが、あの日、僕たちが出会った日って、もしかすると、はじめから宮野さんと会う約束をしてたんじゃないですか?」
「えっ?」
祐太郎の推理の鋭さに、一瞬目をそらしながら驚いた顔をした奈々子だったが、その視線を祐太郎へと戻しながら、大きな息を吐いて続けた。
「そう、その通りよ。白いベンツが東京駅で私を出迎えて、乃木坂まで行く予定だった。数日前から、しきりに電話があって・・・、仕方なくね。要は、オファーを断った理由が聞きたかったみたい。でも・・・、急に面倒くさくなったのよ。会ったとしても、ケンカになっただろうしね。だから、桜でも見て気晴らししたくなったの」
「なるほど。今やっと・・・、奈々子さんを理解できた気がします」
祐太郎は、やさしい眼差しで奈々子を見つめながら、そう言った。
「ごめんなさい。いろいろと、勝手気ままな女なの・・・」
奈々子は、申し訳なさそうに俯きながらも、視線は祐太郎を見つめていた。
「じゃ、当面の仕事が終わった後に、半年間休養する件は・・・」
祐太郎は、いまの自分が、奈々子を質問攻めにしていることは分かっていても、知りたいという強い思いが先行してしまっていた。
「そうね、ホスト通いかな」
奈々子はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、リビングの向こうに広がる夜景に視線を向けながら、窓のほうへと歩いていった。
祐太郎も、奈々子の背中を追うように、立ち上がり、窓のほうへと進んだ。
「冗談でしょ?」
そうつぶやいた祐太郎の気配を、背中越しに察した奈々子は、突然振り返ると、ゆっくり目を閉じて顔を上げた。
祐太郎は、上から見下ろすように、目を閉じている奈々子を見つめると、自分の両手は、まるでそれがあたりまえのように、奈々子の細い肩へ、そして背中へとまわっていた。そして、ゆっくり奈々子の体を自分のほうへと引き寄せたのだった。
もうすぐ互いの距離がなくなる寸前で、突然動きはじめた奈々子の唇に、祐太郎は思わず、その動きを止めた。
「はじめて、あなたを見た瞬間、恋してたかも」
「僕も・・・」
ふたりはそう言うと、あの日の夜と同じように、ひたすらお互いの唇を求めはじめた。
そして、背中へと回したそれぞれの両手は、さらに強く、お互いのぬくもりを感じようと、絡むように伸びていった。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
祐太郎は、奈々子のベッドルームに置いてある目覚まし時計に視線を向けた。すでに夜も更けて午前一時をまわっている。
ここ数日の緊張から解放されたためか、隣で静かに寝息を立てている奈々子は、まるで妖精のようなオーラを放ちながら、その白く細い腕を、祐太郎の肩に置いている。
祐太郎は、ゆっくり自分の体をずらしながら、肩に触れた奈々子の腕を、ベッドの上にやさしく置いた。
ベッド脇に脱ぎ捨てていた服をそっと拾い、静かに寝室を出た祐太郎は、音をたてないように、ゆっくり服を身につけながら、ダイニングテーブルの上に視線を向けた。そこには、数時間前に食べていた寿司の折箱が、そのままの状態で置かれている。
「もったいないし、食べて帰ろうか・・・」
なぜだか急に、空腹感を覚えた祐太郎は、そうつぶやいて、残りの寿司を頬張りながら、視線は何かを探していた。そして、リビングのテーブルに置かれた固定電話の横に、メモ紙とボールペンがあるのを見つけると、それを手に取り、奈々子へのメッセージを書き始めた。
(今日は、朝から仕事なので、帰ります。ゆっくり休んで下さい)
祐太郎は、キッチンからラップを取り出し、奈々子が食べていた寿司の折箱にかぶせると、その上にメッセージメモを載せた。
ドアの外からカギをかけ、エレベーターで一階へと下り始めたその時、祐太郎は、自分が買ったプレゼントを、ソファーの上に置いたままであったことを思い出した。
「まあ、いっか」
奈々子が、プレゼントだと気づくことを期待しながら、祐太郎は奈々子のマンションを後にした。
花冷えの夜、あたりに人影はない。どこからともなく、風に乗った桜の花びらたちが、祐太郎の足元で、円を描いて舞っている。なぜか体は、それほど寒さを感じなかった。むしろ無意識に、奈々子の肌と触れあった時の感覚を、この体が覚えているかのように、やわらかな温もりを感じていた。そして、日テレ通りに出た祐太郎は、タイミングよく通りがかったタクシーに向けて手を上げた。

東京の街を彩っていた桜は、すでに葉桜へと変わり、季節は四月も半ばを過ぎようとしていた。
あの夜以降、なぜか奈々子からの連絡はなかった。もう一度会いたいという気持ちは強かったが、あくまでも祐太郎としては、忙しい奈々子にペースを合わせながら付き合ってゆくべきだと、何度も自分に言い聞かせていた。
そして今も相変わらず、タクシードライバーという仕事を、ただ淡々とこなしてゆく日々が続いている。
平日の深夜、午前一時過ぎの新宿歌舞伎町。そのメインストリートである区役所通りには、多くの若い男女が、それぞれのドラマを抱えながら、行き交っている。
この日、隔日勤務となっていた祐太郎は、空車の状態で、この区役所通りを靖国通りに向けて車を走らせていた。
夜もこの時間になると、一斉に一部の営業形態を採用しているホストクラブのホスト達が、女性客を帰りのタクシーに乗せるために見送ったり、道行く女性をキャッチしたりと、さまざまな男女の光景が広がりはじめる、そんないつもの歌舞伎町らしい風景があった。
「あれ?もしかして奈々子さん・・・」
サングラスとマスクをしているものの、祐太郎には直感で、その女性が奈々子であると確信した。なにやら、キャッチの男性がしつこく、横で付きまとっているようだ。祐太郎の車が走る車線とは反対側の歩道を、足早に歩く奈々子だったが、後ろを振り返ると、タイミングよくやってきた他社のタクシーに向けて手を上げたようだ。
その光景をルームミラーで見ながら祐太郎は、あの夜に聞いた、奈々子の言葉を思い出していた。
「そうね、ホスト通いかな」
そんな奈々子を思い浮かべると同時に、後輩女優である栗原翔子のために、いやむしろ宮野への復讐のために奈々子は、いま何かを企み、そして探ろうとしているのだと、祐太郎は直感として思った。
フロントガラス前にある空車の表示を回送に切り替えて、靖国通りを左折した祐太郎は、左の路肩に車を停めて、携帯電話の通信アプリを立ち上げると、奈々子へ短いメッセージを送った。
(歌舞伎町で、何をしてるんですか?)
送信後、ウインカーを右に出して車を始動させた祐太郎は、またすぐにウインカーを左に出して、車を路肩に停め直した。思った以上に早く、奈々子からの返信メッセージが来たからである。
(明日、夕方六時、ウチに来れる?)
(大丈夫です)
(お腹空かして来てね)
(了解)
送信を終えた祐太郎は、回送表示を空車に戻すと、深夜の新宿の街の中へ、ゆっくり車を走らせていった。

翌日。
大久保通りを、路地へ少し入ったワンルームマンション。
祐太郎が住む部屋には、カーテンの隙間から、昼間の温かな光が差し込んでいた。
部屋の時計は、すでに午後三時を過ぎている。
明け方にタクシー乗務を終えた祐太郎が、会社から徒歩にて、大久保の自宅に戻ったのは、午前六時すぎであった。その後、シャワーを浴びて軽く食事をした後、就寝したのが午前八時。明日も早朝からの隔日乗務となっている場合は、もう少し早めに起床して、夜に熟睡できるよう昼間の睡眠は短めにしている祐太郎であるが、明日は公休であったため、長めの睡眠をとっていたのである。
祐太郎は、ゆっくりベッドから起き上がると、何気なくいつものように、テレビのスイッチをつけた。映し出された画面は、ニュース番組のようである。
「では次のニュースです。来月より半年間の休養に入る女優の新藤奈々子さんが、今日、最後のレギュラー出演となる情報番組の中で、NPO法人アクトレス・シェルターを数カ月以内に立ち上げる計画があることを公表しました。これは、女優業を目指す若手への支援・・・」
祐太郎にとって、この話は初耳であったため、驚きのあまり一気に目が覚めた。
「奈々子さん、いったい何を考えてるんだ?」
しばらく考えを巡らせていた祐太郎は、深夜の歌舞伎町を歩いていた奈々子の姿を思い浮かべた。

そして・・・、奈々子と会う約束をした時刻の、午後六時。
祐太郎は奈々子の部屋の前に立っていた。
「ピンポ~ン」
インターホンから、奈々子の「は~い」という声が聞こえると、すぐにドアが開いて、祐太郎は部屋の中へと入っていった。
「えっ、この香り。これって・・・」
「そう、あなたが残した忘れものよ」
「いえ、あれは・・・」
「分かってるわ、私へのプレゼントでしょ。好きよ、この香り」
そう言って、奈々子は甘えるように、祐太郎にもたれかかると、物憂げな眼差しで目を合わせてきた。もはや、ふたりの間を邪魔するものは何もない。祐太郎は、ごく自然に奈々子の求めに応じていた。そして、しばらくの間、ふたりは玄関先に立ったままの状態で、抱き合っていた。
やがて、お互いを求め合っていた唇が、ゆっくりと離れた時、奈々子が大きな瞳を祐太郎に向けて、ささやくように言った。
「明日は、お仕事なの?」
「実は・・・、休みだよ!」
祐太郎の勿体ぶった言い方に、奈々子は両手で祐太郎の胸を、何度も軽く叩いた。
「もうっ、嬉しい。私もよ」
奈々子はそう言って、もう一度と、求めるような眼差しで祐太郎を見つめた。
再び、息も出来ないくらいに、もつれ合いながら抱き合っていたふたりは、まだリビングルームに入ってない。
「深夜の歌舞伎町で見かけたけど。何かあったの?」
ゆっくりと唇の動きを止めた祐太郎は、お互いの顔が、鼻を突き合わせる距離にまで離れたところで言った。この時すでに祐太郎は、無意識にではあるが、奈々子との会話から丁寧語を外していた。
「その件だけど、実は、ある人からもらった情報があって・・・」
奈々子は、そう言いながら、ふたり並んで腕を組む状態になると、リビングへと向かった。
ソファーに並んで座った祐太郎へ、奈々子はテーブルの上にあった名刺を手に取り、差し出して見せた。
「瀬戸翔太、フリージャーナリスト?」
「そう。以前から、宮野のことを密かに取材していたらしいの」
奈々子は、瀬戸と出会った経緯と、先日の会見では、最後に鋭い質問を投げてきたこと、さらには、宮野が裏のビジネスで、かなりの収益を上げており、脱税の疑いもあるという、かなりきな臭い情報を入手したことを話した。
「数日前に、私の事務所に来てもらったの。その時に出た話が、そういうことだったから、私もびっくりして」
さらに奈々子は、宮野が手掛ける裏のビジネスについて説明を始めた。
まずは、宮野の会社が所有する赤坂の自社ビルを拠点にした、女性向けアダルトコンテンツの撮影と、製作である。出演するAV女優は、宮野が多くのメディアへ出演することで知り合った、さまざまな芸能事務所に所属する知名度の低い女性たちである。
その手口は、最初に彼女たちを食事に誘い、うまく酔わせた後で、新宿歌舞伎町にあるホスト系列のバーへ連れ込む。そして、言葉巧みにホスト通いを開始させることで、貞操観念や金銭感覚を麻痺させる。さらには、担当ホストがパパ活を斡旋することにより、遊び金を作らせるのだが、それこそが、宮野にとって、ビジネスの接待でその女性を利用することが可能になる仕組みであった。
ここまでは、奈々子の後輩女優である栗原翔子が体験したケースと一致していた。
注目すべき点は、その後にある。
赤坂の自社ビルでは、女性向けのアダルトコンテンツを撮影、製作しているのだが、映像では男性の露出がメインとなり、女性の顔は口元までしか映し出すことがない。さらにそのコンテンツは、ショートドラマ風のシナリオも用意されていることから、出演への誘惑に負けてしまう女優やモデルの卵たちが多くいるという現実があった。
さらに、そのコンテンツ販売については、決して表では流通しない独自のルートを作り、その収益は、一般に公開される財務諸表に計上されることはない。
現在のところ、これ以上の詳細情報は、フリージャーナリストの瀬戸も把握しておらず、調査中であるらしい。
「それで、奈々子さんは、夜遅くに歌舞伎町で・・・」
「あっ、もう『奈々子さん』でなくて、『奈々ちゃん』でいいわ」
「それで、奈々ちゃんは、夜遅くに歌舞伎町で何をしてたの?」
祐太郎は改めて、そう言い直した。
「瀬戸さんの情報だと、独自の販売ルートには、ホストクラブが絡んでいるらしいの。だから、その場所とか雰囲気を知っておきたくて、ちょっとね」
さらに奈々子は、宮野とつながりのあるホストは特定できていて、そのホストこそが、後輩女優の翔子を陥れた本人であることも打ち明けた。そして、半年間の休養期間を設けた本当の理由は、自分がそのホストクラブに通い、裏のビジネスに関する会話を録音したり、さまざまな現場の写真を隠し取りすることを考えていたと話した。
「それって、かなりきわどいことかも。それに、もっと心配なのは店内で飲食する時はマスク外すでしょ?すぐに新藤奈々子ってバレるんじゃ・・・」
「女性はね、化粧すればどんな顔にでもなれるものよ」
「奈々ちゃん、僕より度胸あるかも」
「そうでないと、女優なんて、できないわよ」
そんな奈々子の言葉に、祐太郎は、初めて出会った日の車内で、落ち着き払った奈々子の姿を思い浮かべていた。
「このまま、宮野を野放しにはできない」
奈々子は、真顔でそう言った。
「確かに、そうかもしれない。でも、それで・・・、つまり、奈々ちゃんの目指す、最終ゴールって何なのかなぁ?宮野氏を破滅させることなのか、まあ、そこまでいかなくても、彼を法的に裁くことなのか・・・」
奈々子は、祐太郎の話を真剣に聞きながら、その表情はやがて柔和な笑顔へと変わった。
「じゃあ、坊っちゃんなら、どうする?」
「えっ?」
「初めて出会ったあの日、あなたが五郎さんって方に電話した時に、携帯電話のスピーカーから声が漏れてて、聞こえちゃったの・・・、五郎さんの声がね・・・、すっごく大きいから」
「普段、会って話す時は、そんなに大きくないんだけどな~」
祐太郎は、そう言いながらも、頭の中では考えを巡らせていた。
「じゃ、まずは坊っちゃんからの答えだけど・・・、僕なら、まずは客観的な法的証拠を集めるだけにするよ。相手が何か攻撃をしてこない限りはね。ただ、ジャーナリストの瀬戸さんは違う考えだと思うけど・・・」
「じゃあ、私もそうするわ」
「えっ?」
奈々子には、いつも驚かされることが多い。
「あと、例のNPO法人だけど・・・、いいと思うよ。だからこそ、これからその組織を健全に運営するためには、相手の弱みを握っておいたほうがいいんじゃないかな。決して復讐の道具に使わないほうがいいと思うよ」
祐太郎は、今日の報道を見て思ったことを、そのまま伝えた。そして、五郎のことについても。
「あと、五郎さんのことだけど・・・、彼は長谷川五郎といって、うちの会社の相談役なんだ」
祐太郎の言葉を、奈々子は真顔で聞いている。
「じゃ、その人を五郎さんと呼べるってことは、祐くんは・・・、もしかして社長さんの息子なの?」
「さすが、奈々ちゃん。勘がいいね」
「なるほど。普通のタクシードライバーさんとは違う雰囲気があったから、いまの話を聞いて納得したわ。話してくれて、ダンケシェーン」
奈々子の言葉に、祐太郎は笑いながらも、これまでこの事を言い出せなかった理由は、自分が甘やかされて育ったボンボンだと思われたくなかったことを正直に伝えた。
「ぷっ」
奈々子は、それを聞くと噴き出して、「私はそんな偏見を持つ女じゃないわ」と強調した。
この時、祐太郎は、これまで言えずに隠していたことを、奈々子に伝えることができたことで、今からは、より自然に振舞うことができる、そんな自分を感じていた。
「ねえ、お腹すいたでしょ。四月だけど、今日はちょっと寒かったから、お鍋を準備してるのよ。食べながら、これからのこと話さない?祐くんには、いろいろと手伝ってもらいたくて・・・」
奈々子はそう言うと、ソファーから立ち上がって、キッチンへと向かった。「祐くん?」 祐太郎は、そう言って奈々子が何気に発した自分への呼び名を繰り返すと、微笑みながら奈々子の後ろ姿を見つめた。

翌朝になっても、ふたりは昨晩、何度も求め合ったせいか、ベッドの上でお互いの手をからめたまま、ぐっすりと熟睡していた。
ようやく祐太郎が目をこすりながら、サイドテーブルに置いた腕時計を手に取ると、今の時間を確認した。
「もう、こんな時間か・・・」
時計の針は、午後一時をまわっている。                 なぜか祐太郎は、ベッドの中から出たくなかった。昨晩、食事をしながら奈々子と今後のことを話したせいかもしれない。それは、これから現実と直面する、いや自分たちが新しい現実を作ってゆくことに、少なからず恐怖を覚えているからだろうか。今はただ、このベッドの上にある快楽に、少しでも溺れていたいというのが本心だった。
祐太郎は、隣で眠る奈々子の美しい顔を見つめた。女優としてではなく、もはやすべてを解放させた、ひとりの女性としてここに存在している。
そして、これから半年のあいだ、彼女と共に日々を過ごすことになる。
昨晩、ふたりで練った行動計画に沿って・・・。
「乗りかかった船・・・、いや、僕が自ら選んだ船だ。そう、自分で選んだ・・・」
祐太郎は、ぼんやりとつぶやいた。
横になって祐太郎に顔を向けながら眠る奈々子の白い肩を、そっと指先でなぞってみる。 奈々子は、その指の動きに反応したのか、目を閉じたままの状態で、ふたりの体にできた隙間を埋めるかのように、祐太郎の背中へ腕をまわしてきた。そして再び、ふたりは強く抱き合いながら、求め合うのだった。

第四話 おわり


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