ノンポリ自由人だった父親

昭和14年生まれの父親。

飲む・打つ・買うのうち、飲む・打つは死ぬほどやった自由人。

テキトーとはまた違う、自由。

中学で柔道、高校は柔道とラグビーに打ち込んだらしい。僕が小さい頃はポーンと軽く払い腰からの上四方固めや袈裟固めで抑え込まれるともうダメ。まったくびくともせず。

経験者じゃないとちょいと難解なラグビーもテレビ中継を観ながら解説してくれてたから、多分ホントに両方ともやってたんだと思う笑

親子そろって函館西高校に通った。ドラマや映画、CMなどで度々登場する函館の有名な坂の上にある、観光地ど真ん中の高校。

ちなみに、昭和11年生まれの北島三郎さんは父親の先輩にあたるが、「西高卒業って言われてるけど、卒業してねぇはずなんだよな、確か」とテレビを観ながら語っていた。

僕が在学中だった時にかなりのおじいちゃんだった先生に聞いてみたら、「たぶん中退で上京したと思う。よく聞かれるんだけど卒業してないと思うよ」と言っていた。

ちなみにちなみに、西高の近くで説明しているガイドさんの話に聞き耳を立てていたら、「北島三郎さんがご卒業された高校で……」とハッキリ言っていた。

…と、書いていて今さらながら「おいおいどっちよ」と気になってWikipediaを見たら、「1954年、17歳で高校を中退後……」と書かれていた。まぁ「中の人」の情報は確かだわな。

と、大々々先輩に触れつつ逸れつつ、話を戻しますと、、、

父親は、柔道やラグビーで培った体力を武器に高校時代は自由にヤンチャを繰り返したらしい。高校自体もヤンチャ学校で、僕が通っていた頃もそのレッテルを剥がせずにいた笑

(今はたぶん違うと思う……
 違うと信じている……)

僕の在学中も、近所で何かトラブルがあれば、「アレはおたくの生徒か!?」と学校に電話が来ていたし、市内の工業高校の先生は、「あの高校だけには行きたくない」とか言っていた、と工業の友人に聞いた時は衝撃的だった笑

そんなヤンチャ高校からヤンチャくんが上京し、明治大学の法学部に進学。最初は柔道部とラグビー部を掛け持ちしてたって言ってたような気がする。

いつの間にかラグビーにハマって、かの有名な北島忠治監督のもとで練習に励んでいたらしい……

まだまだ学生運動が活気づいていた時期でもあり、年齢から計算するとたぶん安保闘争の辺りに在学していたんだと思うんだけど、そこはまったくのノンポリの自由人。

一応、朝の集合場所に最初だけちょっと顔を出して上の面々にあいさつしとく。あとは頃合いを見計らって抜け出して、街なかの雀荘に足を向けたらしい。

「あんなの熱中してるのは一部なんだから、オレひとりいてもいなくても一緒一緒。近くの何人かに『あとはよしなに』って声かけとけば大丈夫。どうせヘルメット被ってタオルで顔隠すから誰がどこにいるかなんか分からないもん」と語っていた。

…まぁ確かにそうなんだけど笑

んな感じで学生運動より麻雀。というか、何よりも麻雀だったらしい。最初のうちは近場の雀荘で勝ち負けを繰り返す。負けたら質屋にモノを入れて金を借りて、勝ったら出す。

顔馴染みとやって勝てるようになると、今度は遠征してチカラを試したくなるのはヒトのサガ。

んで、ボコボコにされるのも世の常(笑)

「いやぁ、三人に連携されたらイカサマしても勝てないわなぁ」と笑ってました。

まぁ聞くと色々と話してくれるものの、多くを語ってくれなかったことも幾つもあった。

戦後の幼い頃の記憶もあんまり話したがらなかったし、大学卒業後にどこで何をしていたのかを聞いたのも割と最近になってからだった。

けど、出てくる話はとにかく自由な考えの人だった。そこからかなり色濃くDNAを受け継いでしまった気がする。無論、大尊敬な訳だが。

などなど、父の日に思い出す、色々。

そんな父親が亡くなって、はや一年。

恩返しなんてほとんど出来ず、
それはかなりの後悔ではあるが、、、

合掌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?