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野人の手記(小説)

 おれは死に憧れている。いますぐ死にたいとも思わないが、ダラダラ長生きしようなんて雨露の欠片ほども思ったことがない。長生きは下品だ。いや、長生きを目的に生きるのは下品だ。できるなら潔く死にたい。いや、自分の死を悠々眺めながら死んでいけるほどの潔さを身に着け、大地に溶け込むように死にたい。昨今の家畜化した世の中、生ばかりが賛美され死が遠ざけられるが、生とはそんなにきれいなものなのか。死こそが生きる希望じゃないのか。

 が、そう言うと思慮の浅い輩はすぐに「自殺を推奨するのか」、「生に意味がないのか」と噛みついてくる。そうじゃない。死が尊いからこそ生も尊いのだ。生は尊いが死は唾棄すべきものだなんておかしいだろ。
 いや、違う。そうでもなさそうだ。死を肯定するとか否定するとか、そのこと自体が狂っている。そもそもだ、最近よく考えることだが、死ってあるのか? おれはわけがわからなくなる。時間とともに移り変わる個体性があるならば、永遠に変わらぬ全体性がなくてはならない。我々は悲しき個体性、一切がとどまることなく移り変わってゆく。目に映る景色、耳に聞こえる音色、肌に触れる物体、心に明滅する概念、すべてが個体性。個体性は個体性しか認知できない。目に見えない景色、耳に聞こえない音、心に現れない概念、それこそが本質であり、それこそが現実であり、それこそが全体性なのに、おれたちは何を思ったのか個体性を絶対的なものだと思い込んでいる。それによって生まれたのが科学であり物理でありテクノロジーだ。部分的な事象を研究して何がわかるというのだ。
 人間なんて所詮、人間という身体的条件に基づいて世界を作っている。金魚鉢の金魚を観察しろ。金魚の世界は金魚でしかないだろ。人間であっても、人間の世界は人間の観念にすぎないのだ。原爆を作ろうが遺伝子をいじくろうがロケットを飛ばそうが、人間は人間を超えられない。人間が宇宙と言ったり、ビックバンと言ったりして悦に入っているが、それは人間向けの宇宙であって、それが存在そのものではない。人間が言葉を使うとき、個体性の檻はより強固なものとなり、より見えなくなる。本質を知りたければ言葉を超えるのだ。
 そもそもおれとは何だ? 肉体? 感情? 記憶? 思い? そんなものおれではない。おれが対象として認知できる以上、それはおれの幻影だ。おれの本質とは目に見えないもの、己を消して額の眼を見開かなければ見えてこない。本質はこの瞬間、この瞬間の永遠として常時ここに存在している。だったらおれは死ぬのか? 死って存在するのか? そもそも生まれるって何なんだ? いつ何がどこから生まれたんだ? 
     ※
 その日、おれは奇妙な夢を見た。奇妙な夢はよく見るが、覚めてからも感情を引きずりつづける特異な夢だった。夢に「ギャートル」が出てきた。ギャートルとはおれの朋友だ。サバイバル大学のクラスメートで手芸の得意な一風変わった男だった。動物の皮を鞣して服を作り、年がら年中毛皮を纏っているので、「はじめ人間ギャートルズ」から取って「ギャートル」と呼ばれていた。ギャートルは外見はワイルドだが性格はいたって温厚、決して人と争うということがない。やさしすぎるのが仇となるのか、サバイバルで欠くことができない”狩り”が苦手だった。偶然至近距離で出遭った獲物さえも撃ち損ねることがあった。
「馬鹿ボン!」
 おれは、棚ボタの獲物を撃ち損ねたギャートルを口汚く罵ったことがある。が、ギャートルは「へへへ」と善良そうな笑みを見せ、
「あの鹿は、もしかしたら神だったかもしれないね。おれの猟銃の向きを見えない力で逸らせちゃったんだから。世の中には不思議な事があるものだねえ」
 神秘思想で煙に巻いた。おれたち周辺の男たちはその手の話が皆んな大好きで、そんなオカルト的な言説を聞かされると「ホー」と感心して、そんな鹿なら撃っちゃ駄目だよなと説得されてしまう。
 思えばサバイバル大学在学中からギャートルはおれを影で支えてくれた。おれの苦手なチマチマした作業を全部やってくれた。一緒に狩りに出かけると、ギャートルは野草を集め、捕った獲物を捌き、料理をし、洗い物をしてくれた。そんなサポートがあったからこそおれは狩りに専念でき成果を上げてこられたのだ。おれの異常な身体能力、ーー猿よりも俊敏に動き、犬よりも鼻が利き、兎より聴覚が敏感な身体能力も、ギャートルがいてくれたからこそ活かせたのだ。なのにその頃のおれは傲慢だった。すべては自分の手柄だと思っていた・・・・。
 大学を卒業してからもギャートルとの付き合いはつづいた。ギャートルは新潟の実家で無農薬栽培の農業をして質素に生活していたが、山の中で野営しながら獣のように生きるおれのことを気づかってくれ、たびたび貴重な玄米の差し入れを持ってきてくれた。ギャートルの玄米がなかったら、おれは今ごろ栄養失調で野垂れていただろう。
 そんなギャートルだが、もう去年のことか、奴はあっけなく逝ってしまった。人の死はわからないもの、死んでから「ああ、あんなことをしてやればよかった。こんなことをしてやればよかった」と心残りが脳裏を巡る。
「ーーギャール、お前が久しぶりに山に来てくれたんだから、是非鹿肉をご馳走したい」
 あれは秋の深まるそよ風が冷たい日だった。南アルプスの山麓で一人野営していたおれは、玄米を持って遊びに来てくれたギャートルを喜ばせようと張り切っていた。
「行くぞ、ギャートル。モタモタするな」
「雨が降ってきたね」
 ギャートルは曇った空を見上げて、少し心配そうに言った。
「いいんだ、ちょっとの雨ぐらい。その方が鹿も油断するんだから」
「大降りにならなきゃいいんだけど・・・・」
 歩き出して数時間、山の斜面を張り付くように移動しているときだった。斜面といっても山を知る者からしたら何でもない斜面。
「あっ・・・・」
 栓が抜けたような力ない声が小さく聞こえた。ハッとして斜面を見下ろすと、ギャートルが数十メートル滑落していくのが見えた。一体何だったのか。なんであんな斜面で足を滑らせたのか。登山の初心者じゃあるまいし。が、死人に口なし。そういう運命だったのか。
 ギャートルはもうこの世にはいない。何だろうと思う。しかしおれの意識の下でギャートルはちゃんと生きていて、話かけてもくるし笑いかけてもくる。ギャートルの着ていた鹿の毛皮のちゃんちゃんこ、おれはそれを今も大事に愛用している。
 そんなギャートルがおれの夢に鮮明に現れた。
「おーい、イエティー」
 ギャートルの声が聴こえた。
「なんだ?」
 おれは、人恋しいタイミングでフッと現れた朋友に嬉しさでいっぱいだったが、露骨に感情を表すのはカッコ悪く思え、感情を抑えて返事した。
 そうだ、まず仇名のことを説明しておかなければならない。おれはサバイバル大学(通称サバ大)で「イエティ」と呼ばれていた。サバ大では、学生は皆ほとんど仇名で呼び合い、名前で呼ばれているようでは、個性がない奴、特徴の薄い奴、面白くない奴と一人前に見られない校風がある。例えば、ナイフをキンキンに研がなければ気が済まない「正宗」、魚釣りばかりしている「三平」、アメリカから来た小柄な黒人留学生「アーノルド」、ロッククライミングが天才的な「スパイダーマン」、幻覚キノコを食べて腹を下した「ベニテン」、一人ひとりの仇名を説明していたらキリがないが、サバ大では相手の本名を知らないまま共同生活を送り、卒業していく。
 おれの「イエティ」は、当時付き合っていた女(サバ大女子)と冬場テントで大喧嘩し、テントから裸足で逃げ出して雪の上に素足の足跡を残したことから「イエティ」と呼ばれるようになった。
 話を戻す。夢の中でのギャートルとの会話だ。
「ーーイエティ」
 確かにおれの名を呼ぶギャートルの声が聴こえたが、山の茂みから聴こえ姿が見えない。茂みの中を覗くようにゆっくり入っていくと、ばったりと白鹿に遭遇した。
 おれはタマげた。白鹿といっても、「アルビノか」と科学的な解釈をするシラけた人間が多いが、おれにとって白鹿といったら『遠野物語』にも出てくる神の化身、それは崇高な存在であって罰当たりなことはできない。
 ソッと後退りしてひれ伏すように膝をつくと、白鹿は、
「イエティ、おれだよ、おれ、ギャートルだよ、ハハハ」
 と喋った。おれはまたまたタマげた。
「えっ、ギャートル? あなたがギャートル君ですか?」
 目を丸くして言った。
「敬語なんか使うなよ。おれと君との間柄なんだから」
 その声質、その目線、その態度、その佇まいーー、姿形は白鹿でも、それはまさしくギャートルだった。白鹿のギャートルだ。
「ギャートル、なんだお前、死んでからというもの、幽霊となっておれの枕元に出てきてくれないと思っていたら、白鹿に生まれ変わっていたのか。それはよかった」
 おれは嬉しくなって白鹿ギャートルの頭や首筋や脇腹を執拗に撫で回した。ギャートルは嫌がる素振りを一切見せず静かに微笑んでいる。こうした懐の深い態度、まさしくギャートルだ。
「なんだか知らないけど鹿に生まれ変わっちゃったよ」ギャートルが言った。「いまは鹿の親分、この山の主だ。イエティ、鹿狩りは手加減くれよ」
「もちろん、お前が鹿になった以上、もうおれは鹿を撃たない。金輪際撃たない。というか撃てない。鹿撃ちはもうやめだ」
「そんな極端になるなよ。人間が鹿を撃たなくなったら、鹿が増えすぎておれたちもまた困ることになる。この国の山野には狼がもういないから、生態形のバランスがうまく保てないことは知ってるだろ。鹿たちも、性根の腐ったハンターに撃たれたら悔しいが、イエティに撃たれたら本望だ。君だけは狩りをつづけて欲しい」
「そうか、いいのか、すまんなあ。お前の仲間を撃つのは気が引けるが・・・・」
 さすが人間ができたギャートル。いや人間じゃなくて鹿だ。神の鹿だから「できていて」当然か。ギャートルは人間時代から謙虚で奉仕的な性格だったが、こうして白鹿に生まれ変わっても献身的で立派なことを言う。
「なあ、イエティ、この先に見せたい風景があるから、もうちょっと付き合ってくれよ」
 ギャートルが黒い瞳をこちらに向けて言った。
「もうちょっと? そんな水臭い言い方はよせ。お前のためなら三日三晩だって付き合うぜ」
 白鹿ギャートルの後を追って山の中を歩いていった。ギャートルが薮をかきわけて先導してくれるので後続のおれは歩きやすい。見せたい風景とはどんなものだろう。なんせ神の白鹿が見せてくれるのだから想像を絶するような風景に違いない。おれは何が目の前に現れるのかワクワクした。が、しばらく歩いていると、おれの敏感な鼻腔に不快な臭いの粒子が付着してくるのを感じた。
「ん?」
 普段のおれならこれ以上先へは進まない。嫌な予感がする。しかしギャートルは足を止めずにどんどん先を歩いていく。もちろん臭いも強くなってくる。ようやく薄暗い茂みを抜けて拓けた明るい場所に出てきた。
「これか・・・・」
 眼の前の光景に言葉を失った。眼の前には不法投棄されたゴミが山となり、白い煙をうっすらとあげて強烈な臭気を放っていた。おれとギャートルは石像のように体を硬直させゴミ山をまんじりと眺めた。
「美しいね」
 おれはフッと鼻を鳴らして言った。
「美しすぎるよ」
 ギャートルも囁くように返答した。
 ボーッと立ち尽くし、どれだけ時間が過ぎただろう、
「鼻が千切れそうだからそろそろ行こうか」
 おれはギャートルを静かに促した。するとギャートルは悪ふざけをする幼児のような笑みを見せ、ゴミの山を跳ねるようにピョンピョンと登っていった。
「おい、ギャートル、そんなところに登ると有毒ガスを吸って体に悪いぜ」
 おれが下から叫ぶように言ったが、ギャートルは山の頂上からニヤニヤしてこちらを見下ろしている。
「しょうがねえ奴だなあ」
 おれもゴミの山を登った。足場は不安定で歩きにくく、腐った生ゴミの中に足がズッポリと落ち込むこともあれば、鋭く尖ったガラスの破片も落ちている。おれは一歩一歩慎重に歩を進めながら考えた。ーーおれたちはもうこのゴミから逃げられないんだ。ゴミから目を逸らすことはできても、ゴミを別の場所へ移動させることができても、ゴミを燃やすことができても、おれたちが日常生活でゴミを出し続ける以上、結局ゴミの中で生きていかなければならないんだ。このゴミの臭さに、このゴミから沁み出す毒素に、身体をどうにか適応させなければいけないのか・・・・。
「おい、ギャートルーー」おれはゴミ山の頂上で話しかけた。「どうやってこのゴミを供養する? 花を手向けるか、読経するか、神社建てるか」
 ギャートルはおれのジョークに笑いながら、
「一万年もすれば勝手に成仏するよ。人間がいない一万年後は、ここは美しい花畑だ」
 と返してきた。「ハハハ」と笑っていると目が覚めた。夢だったか・・・・。しかし鮮明な夢だった。
 おれは森閑とした山の中、苔のむした岩陰の窪みにキャンプマットを敷いて仰向けで寝ていた。空は不機嫌な鉛色に曇っていて雨が降り出しそうな気配である。横を向くと、焚き火のオレンジの炎がチラチラと小さく燃えていた。
「腹が減ったなあ」
 腹の虫が侘しい鳴き声をあげている。食料は何もない。狩りに行かなくてはと思いつつも面倒臭さを覚え二度寝したんだ。合理的に考えれば二度寝している場合じゃなく狩りに出るべきだったが、二度寝のおかげでギャートルに会えた。寝て正解だった。堕落するのも悪いものではない。義士も聖女も堕落するのだ。
「ギャートルは白鹿か・・・・」
 上体を起こして焚き火の炎をボンヤリ観ていると、夢の余韻が波のように第二第三と押し寄せてくる。夢はおれにとって現実だ。
「ギャートルの奴、白鹿なんかに生まれ変わりやがって、まったくエラくなったもんだな。鹿爪らしく、まさに鹿爪らしくな、グフフフ」
 笑いがこみ上げてきた。一人孤独な山の中、なかなか笑えるチャンスがないが、ギャートルのおかげで笑わせてもらっている。再びゴロンと寝転んで空を眺めていると、ガサッガサッと音が聞こえた。「ハッ」と正気に戻って上体を起こし、耳をそばだてて音の聞こえる方向を見定めた。
「近いぞ」
 靴を履き、猟銃を手元に招き寄せて静かに立ち上がった。戦闘態勢である。
ーー何の獣だろう?
 銃を構えながら静かに前方を凝視していると、三十メートル先の薮が微かに揺れた。引き金に指をかけた。
「ん?」
 蛍光色のジャンバーが薮から見えた。山の中で異様に目立つ派手な色、いかにもハイキング登山をしていますと言わんばかりだ。
「クソ、人間か。こんな山奥にノコノコ来やがって」
 腹が減っていたおれはカッと頭に血が上った。
「おい、コラッ! クソッ! 何しに来た!」
 大声で怒鳴ったが、相手はこちらに気がつかずスマホを眺めながら歩いている。ずいぶん熱心な二宮金次郎だ。本を読みながら歩く少年なら可愛げもあるが、腹の出た中高年オヤジの”歩きスマホ登山”では褒める要素がない。
「何だよ、アイツは・・・・」
 おれは金次郎オヤジを呆れたように眺めた。このオヤジに話しかけようか、どうしよう。
 山でニンゲンに会うのは珍しく、ニンゲンは食料にはならないが娯楽にはなる。人との会話は山奥では貴重な娯楽なのだ。しかし、目がドロンと腐ったようなオヤジとどんな会話ができるだろう。ビジネス、金融、経済ーー、そんな共同幻想の虚構じみた話は一切ゴメンだ。歩き方からして山歩きのド素人、共通の話題が何もなさそうである。が、しかし、今のおれは腹ペコ、オヤジが何か食料を持っていたなら分けて欲しくもある。
「そこの紳士殿」
 おれは銃を片手に持ちながらゆっくり歩み寄り声をかけた。
「えっ、何? 何のサプライズ?」
 オヤジはおれの姿を見て驚いた表情をした。
「サプライズ? 何だそりゃ。サプライズでも何でもないぜーー」オヤジはおれをコスプレ・サンタのようなサービスだと思ったのか。「おれのことなんてどうだっていい。何か食べ物あります? 食料があったら分けてもらえません?」
 なるだけやさしく言ったが、金次郎オヤジは目を大きく見開き、警戒と驚愕の入り混じった表情をした。
「追い剥ぎか! 110番するぞ!」
 震える声で言い、スマホを触りだした。
「何だよ110番って。こんな山奥に電波が届くのか? ここまで警察が来てくれるサービスがあるんだったら、宅配で餃子とチャーハン頼んでくれよ。おれはすこぶる腹が減ってるんだ」
 そう言ってヒヒヒと笑うと、
「ここまで餃子とチャーハンは無理じゃないかなあ」
 オヤジは真に受けて答えた。
「冗談だよ、冗談、冷静になれよ。ここは法外地帯だ。社会が守ってくれる場所じゃない。とにかく食い物だ、食い物、早く出せ」
 おれはオヤジと喋っているのが焦れったくなり、オヤジのザックに直接手をかけた。
「やめろ、やめろ! 俺が食べる分しかないんだ。予定が狂うじゃないか」 
 オヤジはザックを激しく振って抵抗し駆け出した。ジジイのくせにまだ走る体力が残っていたとは。おれは追いかけようという気持ちになれず、
「おーい、真下に下山していくと遭難すると思うぜ。登山ではぐれたんだろ? 上に登った方がいいんじゃないか」
 親切にサバイバルの豆知識を叫んでやったが、オヤジはおれの声が聞こえたか聞こえなかったか知らないが、薮の中に入って姿が見えなくなった。
「何だったんだ・・・・」
 久しぶりにニンゲンという名の獲物に出会えたが何の収穫もなかった。どうしてあんな歳になっても、見知らぬ相手と普通に会話ができないのだろう。娑婆では見知らぬ相手と話し合うことは法律で禁じられているのか。
 おれは焚火に戻って腰を下ろした。ーーああ、腹が減った。こうなったら非常用のために保存しておいた鹿肉の燻製を食べようか。だがあれはとっておきもの、そんなに安易に食べていいものか。炎を見つめながら鹿肉を食べようか食べるまいか葛藤していると、妄想はまた金次郎オヤジのことに移っていった。
 しかしだ、どうして現代人という奴は自分の身を自分で守ろうとしないのだ。こんな山の中で警察が守ってくれると思っているのか。負ける喧嘩だとわかったら、食料を渡して仲良くしようと努めたほうが命を守れる可能性が高いだろうに。そもそも予定が狂うって、この大自然の中で何を言ってるんだ。自然がお前の予定通りに運行しているとでも思っているのか。あんな歳になっても気まぐれな自然に踏みにじられた経験を持っていないなんて、ずいぶんお幸せな将軍様だ。
ーー予定か・・・・。
 オヤジの使ったおれの嫌いな言葉が頭にいつまでもまとわりついてくる。予定通りの時間に起き、予定通りの時間に食べ、予定通りの時間働き、予定通りの時間に寝る。予定通り週に五日働いて二日休む。そんな予定通りの生活を一年三六五日死ぬまで送る。未来を確定させ現在を押し殺す思想。突然の暴風雨でも予定が入っていたら意地でも行かなければならない。ご苦労さんなこった。そんな生き方をしてよく頭がおかしくならないものだ。
ーーガサッ、ガサッ
 また足音が聞こえた。
「今度こそ獣か!」
 おれはハッとして耳をそばだてた。さっきのオヤジが出てきたのと同じ辺りの薮が微かに揺れた。黒が一瞬見えたのでクマかと思い、銃の引き金に人差し指をかけた。
「ああ、参ったなあ・・・・」
 黒のレインウエアーを着た眼鏡の若い男が姿を見せ、独り言をつぶやいた。馬鹿に大きいザックを背負っている。
「クソ、また人間か・・・・」
 おれは緊迫した”狩りモード”の精神状態を解除した。
「誰の許可をもらってここにきた!」
 眼鏡男にゆっくり近づき恫喝した。二度までも期待を裏切られイラ立っていた。男はおれの恫喝に明らかにビビった様子で、
「原人!?」
 と声を震わせて言った。
「アホ、今の時代に原人なんかいてたまるか」
 おれは間髪入れずツッコミを入れたが、眼鏡男は一切笑おうとせずアタフタしながら逃げ出した。どいつもこいつも会話というものができないロボットか。しかし今度の獲物は逃がしてはならない。あの大きなザックに何かいいモノがたくさん詰まっているに違いない。後を追ったが男は意外に逃げ足が速く、なかなか追いつけない。追うのをやめようかとも思ったが放免するのは惜しい。どうしても食料が欲しいのだ。
「おい、止まれ! メガネ!」
 いくら叫んでも足早に逃げていく。ならば最終手段、おれは男に銃を向けて水平撃ちしてやった。
ーードン
「ギャーッ」
 眼鏡男は銃声が聞こえた瞬間バタリと倒れた。弾丸は男から離れたところを飛んでいったはずなのに大袈裟な奴だ。奴は役者の卵だろうか。近づいていくと男は地面にうつ伏せになり両手を広げてブルブル震えていた。コイツの前世は殺虫剤をかけられた蝿だろうか。
「おい、顔を上げろ」
 おれが眼鏡男に声をかけると、男は諦めたようにのっそりと地面に正座をした。
「いや、本当にすみません。ぼ、ぼくは何も悪いことをするつもりがないのです。どうかお許しください」
 顔を伏せながら小さな声でブツブツ言った。コイツはおれを山賊かテロリストだと思っているのだろうか。そんな想像力に富んだ男の顔をおれは珍しげにジロジロと観察した。インテリっぽい小賢しい顔つきをした若い男。小賢しく見えるのは、縁の薄い細長レンズの眼鏡をかけているためか。 
「坊や、何しにここにきた?」
 おれのやさしい尋問が始まった。
「何しにって、あのお、ぼくは、ただの登山見習いガイドでして・・・・」そこでようやくおれに目を向けた。「はっ、人間・・・・」
「何を今さら言ってやがる。じゃあ、何だと思ったんだ?」
「へ、へ、へ・・・・」定まらない目線でチラチラとおれを見ながら、「オ、オ、鬼じゃないですよね?」
「鬼?」そんなこと初めて言われた。やはりコイツは特殊な想像力を持った男だ。「何で鬼なんだ?」
「だって、そんな毛皮着て、モサモサ頭でヒゲ面で・・・・」
 失礼なことを言いやがった。
「要するにおれが不潔で野蛮な男ということが言いたいのか」
「いや、いや、野蛮だなんて言ってません。珍しかったものですから・・・・」
 そこでおれはハッと気づいた。自分の顔をどれだけ見ていないだろう。鏡なんてスカした物、こんな山奥にはない。もしかしたら本当に鬼のような顔をしているのかもしれない。
「はあ・・・・、鬼とはなあ・・・・」
 おれは自分の顔を撫でながら考え込むように言った。
「いや、いや、いい意味で鬼ですよ。いい意味で。とってもダンディーだと思いますよ」
「ダンディーかあ」
 この場限りのツマラないお世辞だとわかっていても、普段まったく褒められることがないので不覚にも笑ってしまった。
「ヒヒヒ」
 おれの笑みを見た眼鏡男は顔を伏せて必死で笑いをこらえている。
「何がおかしいんだ?」
 おれは声を一段低く落として言った。
「いや、いや、’違うんです。何でもないんです、ククク」
 おれはわかっていた。コイツがなぜ笑ったのか。そう、おれは前歯が一本ないのだ。いわゆる「歯抜け」。学生時代に早々と大切な前歯を失ってしまった。大工仕事しているとき釘抜きを使うのを面倒臭がり、前歯で代用して無茶をしたら折れてしまった。おれは厳つい顔つきをしているので女子供なんぞ睨みをきかせただけで黙らせることができるが、歯抜けになって以来、ニッと笑うと必ず初対面の相手はプッと笑い出す。歯抜けは人を笑わす力があるらしいと歯抜けになって知った。いいんだ、笑うくらい、おれはそんなことで怒るような器の小さい人間ではない。大いに笑ってもらって結構だ。
「歯抜けのことかーー」おれは自分からニッと前歯を見せて言った。「これは勇者の証だ。体重二百キロはあるだろう大猪と素手で格闘した折、角で突かれて折れたんだ」
 ちょっぴり脚色した武勇伝を語ってやった。
「そうでしたか・・・・。と、いいますと、貴方はマタギの方で?」
 眼鏡男は正常な精神にチューニングされたようで、普通の調子で話しかけてきた。
「いや、おれはマタギではない。何者かと言うなら、ただの人間の端くれだな」
「人間・・・・、ずいぶんザックリしていますがーー」眼鏡男は物珍しげな顔つきで逆におれをジロジロと観察し始めた。「ここでお住まいで?」
「お住い? おれはお住まいなんぞ決めてはいない。強いて言えばこの大自然の空の下、どこであれ、おれの住まいだ」
 おれはカッコつけて言ったつもりだったが、眼鏡男はそれほど心に響かなかったらしく、「はあ」と気のない返事をした。
「あっーー」眼鏡男が何かをひらめいたように声をあげ、「ハハハ」と笑い出し、「もしかして、サバイバル大学のOBの方で?」
「ん? サバイバル大学? もしかして、お前は現役のサバ大生か?」
「ええ、そうです。サバ大生です。やっぱりそうでしたか。そんなニオイがしました。こんなところで先輩に会うとは、奇遇だなあ、ハハハ」
 眼鏡男は顔をほころばせて笑った。おれも仲間に会ったようで嬉しくなり、はしゃいだように眼鏡男の両肩を手の平でパンパンと力を入れて叩いた。サバ大生なら遠慮はいらない。そうやって叩きながら相手の身体が頑健にできているか何気にチェックするのがおれの流儀だ。
「そうか現役のサバ大生か。おい眼鏡、あっちの崖の洞穴がおれの住いだ。焚き火ができてるからゆっくり話そうぜ」
「ええ、ええ」
 一気に意気投合した。こんなところで現役生に会うとはなんとも珍しい。これで普段欠乏している”会話”という娯楽が味わえる。サバ大では学年の違う先輩後輩でチームを組んで何事も行動しなければならないので、コミュニケーション能力は当たり前に鍛えられている。おもしろい話ができない奴は先輩に可愛がられないので、皆んな必死でおもしろ話のネタを常日頃仕込んでいるのだ。
 サバイバル大学についてここで少し説明しておかなければならない。
 サバイバル大学とは北アルプスの山麓を敷地とする特殊な教育機関である。学生数は一学年三十人以下、教科のカリキュラムはーー、いやカリキュラムなんていう本で学ぶような観念的な教育ではない。すべてが実践だ。できなかったら単に生き残れないという熾烈なもの。卒業までの四年間で、①自然農業 ②畜産(主に野生動物を飼育) ③料理(火起こしも含む) ④狩猟 ⑤食用野草(きのこ・木の実・山菜)の採取 ⑥魚釣り ⑦登山(キャンプ、ロッククライミングも含む) ⑧大工仕事(校舎の建設) ⑨武術(武器術も含む) ⑩水泳(実践的な日本泳法) いわゆる生存に欠くことができない知識と技術を身体を通して学ぶ。
 学生はすべて全寮制。寮といってもいわゆる寮らしき建物はなく、山小屋のような簡素な宿舎で寝起きする。大学創設第一期生から四期生までの学生が、廃屋となっていた温泉旅館を手作業で改築して大学施設すべてを作った。四年生になると教育プログラム上、各々テントで生活しなければならなく宿舎は使えない。もちろんトイレは女子であっても野外排便。いわゆる”野糞”は、一年目から普通に行われ、雨雪のひどい日以外は誰もトイレを使わない。それはサバ大生の美学でもある。
 食事もすべて自分たちで調達しなければならない。餓死しないよう米だけは学校から与えられるが、十人ほどのチームを組んで自ら栽培するか、採取するか、飼育するか、捕獲するか、それらの食料を自分たちで調理し口にする。腹が減るというのは切実な命にかかわる問題なので、誰もが食用野草やきのこの見分け方、摂り方、調理の仕方は、博士のように詳しくなる。狩猟で大型獣が捕らえられると豪勢な食事ができるとあって、狩猟の得意な学生は一目置かれる。
 これらすべては、冒険・登山・サバイバルを実践してきた学長によって創出された。学長曰く、この大学を卒業すれば決して路頭に迷うことはない。ナイフ一本持っていれば大自然の中でどうにでも生きていけるからーー。卒業後の就職先として、ネイチャーガイド・用心棒・鍛冶職人・自衛隊・マタギ・山林組合が上げられるが、サバ大で自由の空気を吸った者はどんな仕事であれ、娑婆(一般社会)に出ると世の常識と齟齬をきたし悪戦苦闘する。サバイバル能力が高まっていくに従って一般社会に適応できなくなるという奇妙な反比例の関係を、学長は大学を作ってから発見されたようだ。しかし、こんなに生存環境が厳しく、お金と縁が持てない大学なのに、なぜかほとんど辞める学生はいない。それどころか皆生き生きとしている。
 世界中どこにもない教育プログラムなので海外からも注目されており、最近では海外からの留学生も増えている。入学金十万円、学費月二万円(住まい食費光熱費込み)、他の大学に比べ格段に安く抑えられているのも特徴だ。学長は、学生のことを第一に考える立派な教育者だが、文科省から金を調達するのは苦手で、学費が安いこともあって、いつも大学は経済的に困窮している。先生を雇うことが難しいのでほとんどの先生は非常勤かゲスト講師で、技能や知識は主に先輩から伝達される。大学の経済的な困窮もサバイバルで乗り越えていかなければならないのがこの大学の特色で、すべては教育となっている。
ーー話を戻す。
 おれと現役サバ大生の若者は焚き火に当たりながら談笑が始まった。
「君の仇名は何だ?」
「ぼくはPCと呼ばれています」
「ほお、ピーシーね。不謹慎な放送禁止用語をよく使うからピーとなって、周りがシーとなるからピーシーだな」
「違いますよ。プログラミングのことが詳しいのでPCなんです」
「プログラミングなんかできるのか?」
「ぼくは今一年生なんですが、今年でもう二十六歳なんです。大学の文科を卒業した後、プログラミングの専門学校に二年通ってプログラミングを身につけました」
「それから何でサバ大にきたんだ?」
「この移り変わりが激しい世の中、一般的な技能を持っているだけでは生きていく不安が拭えなくて・・・・。そんなときサバ大のことを知って、何となく勢いで」
「人生に回り道は大切だ。プログラミングができるなんて、ニュータイプのサバ大生だよ」
「おかげで大学のコンピューター関連の仕事、全部やらされてますが」
「大活躍だな。おれは第二期生だったから、校舎や宿舎の改築工事、全部やらされたぜ。木を伐採するところからやらなくてはいけなかったから大変だったよ。寝るところがなくて、ほとんどテント生活だったなあ」
「先輩は何て呼ばれてたんですか」
「おれはイエティ。雪の上を裸足で歩く体力があったからそう呼ばれた」
 仇名話も歯抜け話と同様、少々脚色して語った。
「強靭な肉体をお持ちなんですね。ぼくはプログラミングはできても体力はあまりないし、方向感覚はないし、武術の稽古ではコテンパにやられるし・・・・、羨ましいです」
「確かにカチャカチャパソコンばかりしてたら狩りをする感覚が衰えるだろうな。四年なんて短いんだからしっかり五感を磨かないと」
「そうですね・・・・。あっ、そうだーー」ピーシーは腕時計を見た。「こんなにゆっくりしている場合じゃなかった」
「どうした?」
「いや、実は、今登山ガイドのアルバイト中なんです。ある会社の研修の登山で、一人の男性が行方不明になって探しているんです。大変だ、大変だ」
 ピーシーは落ち着かない表情でまた時間を確かめた。
「いいんだ、いいんだ、そんな奴。山ぐらい自力で下りるさ。死にゃしないよ」
「いや、いや、そういうわけにはいきません。娑婆の人はイエティ先輩みたいに強くないんですから。それにその行方不明の男性は、業界では有名な実業家の一人でお偉いさんなんです」
「どんな仕事している奴だ」
「コンサルティング業務だとか、ビジネスセミナーを開いて投資を募るだとか」
「要するに詐欺師の一種だな。贅沢して金のあるふりして口八丁で金集めてフン反り返っている。どうせ碌な奴じゃないんだから山の中で死んでくれたほうが世のためになるぜ」
「そんな・・・・。でも、もし死ぬようなことがあれば全国ニュースですよ」
「フフフ、サバ大が全国的に有名になるかもしれないな」
「有名になるどころか、国からの大学の許可を取り消されてしまいますよ」
「そりゃマズイな」
「だから、どうしよう・・・・」
「食料は持ってるんだろ?」
「カロリーメイトとプロテインをたっぷり持ってきたと自慢していました」
「おにぎりやバナナじゃないんだ。ずいぶん現代的なんだな。でも、配合飼料を喰わされてる豚のようで一種哀れでもあるが。まあ、何であれ食料があるなら大丈夫だ」
「食料だけあっても助かりませんよ。ーーじゃあ、ぼくは探しに行きますのでそろそろ」
 ピーシーは立ち上がって重そうなザックを担いだ。
「その社長って奴、派手な蛍光色のジャンバー着てるオヤジだろ。常にスマホ眺めて歩いている」
「はい、そうです。知ってるんですか?」
「ああ、実はお前がくるほんのちょっと前に、お前が現れた薮と同じところから出てきたぜ。おれが何か食料分けてくれっていったら一目散に逃げていった」
「もっと早く言ってくださいよ。どっちに行ったんですか?」
「さあな。どうせグループ登山のハグレ者だろうって想像できたから、上に登れって教えてやったんだ。上に登れば誰かに会えるだろうと思ってな。だけどさすが立派な社長、おれの意見にまったく耳を貸さないようだった」
「どうしよう・・・・」
 ピーシーは笛をポケットから取り出してピーピー吹き鳴らした。
「おっさんの耳じゃあ、そんな音聞き取れねえぞ。耳の穴にはエゴのコルクが詰まってるからな」
「いや、先生を呼ぼうと思って。一緒にこの近辺を捜索しているから」
「先生? 先生と一緒だったのか」
「ええ、ぼくはあくまでガイド見習いですから。ツチノコ先生って知ってます?」
「えっ、ツチノコがきてるの? ハハハ、そうだったのか。早く言えよ、それはおもしろい。アイツはおれの一学年後輩だ。朋友だよ、朋友。よし、それならおれが手伝ってやろう」
 おれは鹿を呼び寄せる鹿笛を特殊な音色で吹き鳴らした。ツチノコならこの音を敏感に察知するはずだ。しばらくすると笛を返す音が微かに聞こえた。
「よっしゃ、通じた」
 おれはピーシーに向けて親指を立てた。
「えっ、何か音しました?」
「笛の音が返ってきたじゃないか。聞こえなかったのか。お前鈍臭いなあ」
 笛を吹きつづけると、遠くの木の隙間から、歩く人影が小さく見えた。
「きた、きた、きた」
 おれは嬉しくなって顔の筋肉が緩んできた。
「どこですか?」
「あそこだ、あそこ。見えないのか。ほんとに鈍臭いなあ。ククク、やっぱりツチノコだ。ツチノコの奴、登山ガイドのバイトなんかしやがって」
「どこですか?」
「もういい、お前は焚火に枯れ葉を入れて煙を上げろ。おれは別の手段でツチノコにお知らせするから」
 おれはツチノコを驚かしてやりたくて、ツチノコ目がけて銃を構えた。
「先輩、何するつもりですか。銃を撃つのはやめてくださいよ」
「いいんだよ。それぐらいのことをしてやらないとアイツも喜ばないから」
 おれは祝砲の一発をブチかました。
ーードン
「わっ!」
 ピーシーは驚いて尻もちをついた。
「もう一発いこうか」
「ほんといい加減にしてください。人に向けて銃を撃っちゃいけないって、銃の基礎で習ったじゃないですか」
「ククク、何をヌルいこと言ってるんだ。いいんだよ、そんなこと。おれは銃の名人だから例外的に許されてるんだ。だけどお前はやめとけよ、絶対にな」
 ツチノコの様子を観察すると、ヤツは祝砲の一発で動きを止め警戒しだした。おれはまた鹿笛をリズミカルに吹いてツチノコをリラックさせるよう努めた。
「なんだよ、アイツ、何顔を引きつらしてるんだ。喜べよ、笑えよ、踊れよ、まったく鈍臭くなったなあ」
「警戒して当然ですよ。怪我したら大変ですから絶対もうやめてください」
「怪我? 怪我じゃすまんぞ。こんな山の中で弾に当たったら死ぬぜ。山の中は細菌が繁殖しやすいから、怪我した箇所がすぐに膿んで腐ってお陀仏だ」
「そんな詳しいことを知ってるんだったら、余計にやめてくださいよ」
「だけどもうちょっとギリギリの線を狙いたいってのが親心とでもいうか・・・・」
 おれが再び銃を構えると、ピーシーは銃身を掴み、
「やめましょう、ね、ホントやめましょう。弾がもったいないですしね。弾は貴重でしょ」
 ピーシーは幼児を説教するような口調で、禁ずる理由の方向性も変えて説き伏せてきた。
「そうだな。弾がもったいないな」その説教はおれの胸に応えた。危ないと言われるとやりたくなるが、もったいないと言われると気持ちが萎える。「お前の言う通り無駄弾を使っている場合じゃない。有効に使わないとな」
 おれはツチノコに向かって大声で叫んで両腕を振った。
「おーい、ツチノコ」
 ツチノコはおれの存在に気づき、こっちに手を振ってきた。
「あっ、馬鹿がいる!」
 大声でそう叫び返し、小走りでやってきた。
「銃を発砲してくる馬鹿がいると思ったら、イエティ先輩じゃないですか。まったく、しょうがない人だなあ」
 ツチノコは、大きい顔がこんがり土色に焼けて、胴体が太い体型をしている。ツチノコは何歳になっても相変わらずツチノコだ。
「おお、久しぶりだな、ツチノコ。一年ぶりか、ガハハハ」
「いや、もっとですよ。二年以上だと思う、ハハハ」
 おれとツチノコは互いに笑い合い、再会の挨拶にお互いの胸と腹にドスンドスンと力強く正拳突きを打ち合った。これがおれたちの挨拶である。ツチノコは胸板が分厚くしっかりした身体が維持できている。
「イエティ先輩、まだ歯入れないんですか。前回会ったとき、今度熊を撃ったら肝を売って歯を入れるって言ってたのに」
「いいんだよ、こっちの方が息が吸いやすくて」
「意地を張らないでくださいよ。みっともないっスよ」
「以前、歯医者の野郎に訊いたら、インプラントで一本十万円だってさ。しかも安いやつで。そんなに高価なら百万年ほど持つんだろうなって訊いたら、無茶な使い方をしたら十年ほどでしょうってスカしたツラして言いやがった。そのときおれは悟ったんだ。もうおれは歯抜けでいいんだって」
「歯医者も別に先輩を騙そうと思って高い値段を吹っかけたわけじゃないですよ。日本の物価からいってそんなもんですよ」
「いいんだよ。世の中の流行があと二、三周すれば、きれいな歯ブームから歯抜けブームになるだろうからさ。その昔、楢山の婆さんはきれいな歯がみっともなくって、石で叩いて自分で歯を折ったぐらいだから」
「楢山節考は小説ですよ。我々の目の黒いうちは歯抜けブームなんて絶対来ませんから。先輩の大好きなピチピチの女の子、歯抜けじゃ絶対モテませんよ」
「いいんだ。恋しくなったらサバ大に行って可愛い子を一人二人拉致してくるから」
「無茶苦茶なこと言わないでくださいよ。先輩が言うと冗談に聞こえませんから」
「ツチノコ先生ーー」ピーシーが言った。「本当にこの先輩、無茶苦茶なんですよ。初対面のぼくにも発砲してきたんですから。本当に殺されるかと思いましたよ」
「冗談抜きで気をつけろよ。このオッサンには」
「何が冗談抜きで気をつけろだ。紳士のおれを狂人扱いしやがって。な、おいーー」
 おれは真横にいたピーシーの玉々をギュッと掴んで折檻してやった。
「ギャッー」ピーシーは悲鳴を上げて転がり、おれの横からすばやく離れた。「なんでぼくに暴力振るうんスか。ケナしたのはツチノコ先生ですよ」
 おれとツチノコはピーシーの泣きそうな顔を見てゲラゲラと笑った。
「ピーシーは一年生だからまだ教えてもらってないか。イエティ先生に」
「イエティ先生?」
「多分、狩猟のとき非常勤で来てくれると思うよ。名物先生だぜ。先輩に聞けば皆んな知ってる有名人」
「そりゃあ、この人だったら名物になりますよ。すごい講習になりそうだなあ」
「イエティ先生は荒っぽいところがあるけど、狩りの腕は超一級、達人だぜ。獣の足跡を見れば、どんな大きさの何の動物か、どれぐらい前の足跡か、獣が近くにいれば臭いで追跡する。射撃も、肉を美味しく保てるよう肉に血が回らないように頚椎か頭を確実に撃つ。スゴい先生なんだぞ」
「そうなんですか・・・・」
 ピーシーはおれの顔を見直すように眺めた。
「正直おれはそんなセンセーなんてしたくないんだ。センスのない学生に手取り足取り教えるなんてカッタルくってな。金が全くなくなって生活必需品が切れたら、まあ仕方がないから大学に顔出すんだけど、そんなときに限って仕事がないんだよなあ。学長はいつも金がない、金がないってボヤいてる。だから最近は大学ともご無沙汰だよ」
「学長は、イエティ先輩に連絡が取れないって困っていましたよ。先輩、スマホまだ持たないんスか」
「アホ、そんなもの持ってたまるか。ツチノコ、もしかしてお前スマホ持ってるのか」
「もちろん、当たり前じゃないですか。ないと誰とも連絡取れないじゃないですか」
「連絡取れないって、お前なあ、自分から奴隷になってどうする? スマホなんて、便利さと快楽を謳った奴隷装置だぞ。それで権力に首輪をつけられたも同じだぞ。ツチノコと前回会ったときはそんなもの持ってなかったじゃないか」
「じゃあ、どうやってイエティー先生は皆んなに連絡を取るんですか」
 ピーシーが絡んできた。
「念じるんだよ。眉間の辺りを意識して、こうグーッとなーー」おれは密教の特殊な印を結んで念じる姿を見せてやった。「念じて通じなかったらそれはそれで結構、連絡の必要はないってことで諦める」
「先輩らしいなあ」
 ツチノコとピーシーは大きな口を開けて笑った。おれは冗談じゃなく真剣に話したつもりなのに何が可笑しいんだ。
「ツチノコ、お前笑ってるが、お前かって前はそうだったんじゃないか。なんでスマホなんか持ったんだ?」
「だって連絡しないと家族が心配するじゃないですか」
「家族?」
「先輩にまだ言ってなかったっけ。おれ、結婚したんですよ。子供できちゃって」
「えっ、そうなの、おめでと。で、誰と?」
「先輩もよく知ってる人ですよ」
「誰?」
「アマゾネス」
「アマゾネス! えっ、結婚したの? 子供ができちゃったから?」
「まあ、それだけが理由じゃありませんが」
「アマゾネスと結婚かあ、そりゃ、めでたいや、おめでとう、ガハハハ」
 おれはツチノコとガッチリ握手をした。
 アマゾネスはサバ大出身の女子、ブラジルからの留学生で喧嘩も強かったことからアマゾネスと呼ばれていた。彼女は入学してきたときから胸とお尻の大きいセクシーな体型をしていたので野郎どもから大変よくモテた。あんまりモテるものだから、ラテンの熱い血もあり、男もいろいろ移り変わる恋多き女だった。サバ大では男が九に対し女が一の割合しかいないから、女子が入学してくると、アマゾン川のピラニア繁殖地帯に生肉を放り込んだような状態になる。一年生の女子はそんなピラニア野郎どもから守るため特別な宿舎、男どもが侵入しにくい構造の宿舎に寝起きするが、それでも勇敢な男どもは夜這いをしかける。女子も女子で、頑張ってたどり着いた数少ない勇者には気前よく相手をしてくれた。しかし、そんな寛容な彼女たちであっても、誰でも相手をするのは苦痛になり、特定のパートナーを持つようになる。しかし、若さもあってあまり長続きしない。サバ大では最初の男になるよりも、二番手もしくは三番手の男になった方が長続きすると言われ羨ましがれた。実はおれもその昔、アマゾネスとお付き合いさせてもらったことがある。三番手の絶好のポジションだった。しかしアマゾネスは気性が激しく嫉妬深いところがあり、おれもおれで身勝手なところがあり、二人の関係は短い期間で終了してしまった。もちろんツチノコはそのことを知っている。
「ツチノコはアマゾネスの何番手だったっけ」
「最初は六番手でした。それから一度別れて、また九番手で付き合いだして、そして結婚ということになり・・・・」
「ツチノコのような一途で情け深い男しか彼女を幸せにできないよ。そういえば、お前はずっとアマゾネス一本だったんだよなあ」
「ま、そういうわけではありせんが・・・・」ツチノコは言葉を濁すように言った。「何かそういうことになってしまって」
 おれは一年坊主のピーシーの目を見つめ大切な講釈を垂れてやった。
「おいピーシー、本当の絆というのはこういうことなんだぞ。『同じ穴のムジナ』っていうだろ。同じ穴を通して友情は深まるものなんだ」
「意味が違うと思いますけど・・・・」
 ピーシーは小さくつぶやき、遠慮がちにツチノコ方へチラと目をやった。ツチノコは朗らかに笑っている。
「子供ができるとやっぱりお金がかかるんですよ。今までだったら自分のことしか考えなくて済みましたが、家族ができるとそういうわけにはいかなくて」
「そうだろうなあ。だから登山ガイドのバイトなんかしてるのか」
「ええ、仕事があったらなんでもするようにしています。だからどうしてもスマホが必要なんですよ。家内も心配しますし」
「そうだなあ、あの母ちゃんは怒ったら怖いからなあ」
「ええ、子供生んだらお尻がドンドン大きくなってきて、体格的にも迫力があるんですよ。もちろん怖いだけじゃないですよ。おれの仕事に関しても良き理解者であるし、家事もしっかりしてくれますし、子供も本当に可愛がってくれます」
「お尻が大きくなったかあ・・・・」
 おれは学生時代のアマゾネスの尻を回顧した。サバ大ではお尻が大きい女子がモテる傾向があったがおれもその例外ではない。さらに立派になった彼女のお尻を久しぶりに拝見したいものである。
「家内もイエティ先輩のことをよく思い出して話していますよ。今度遊びに来てくださいよ。広い家に住んでいるんですよ。廃屋になっていた山奥の一軒家を自分たちで改装したんです。家内は味噌も醤油も梅干しも自分で作って、飯も上手いですよ。フラッと手ぶらできてください。大歓迎ですよ」
「ハハハ、そうか、ありがとう。ツチノコはいつまで経っても情に厚いなあ。あっ、そうだ、思い出した。鹿肉の燻製があるんだ。皆んなで食べようぜ」
「先輩いいですよ。毎日の狩猟生活は大変でしょうから自分一人で食べてください」
「何を言ってる。おれは狩りの名人、たくさん食べていつも満腹だ。ちょっと待ってろ」
 おれが洞窟に鹿肉を取りに行こうとすると、
「先輩、本当に結構です。実はおれたちゆっくりしていられないんです。登山中行方不明になった男性を探さなければならないので」
「ああ、ピーシーから聞いてるよ」
「もう、そろそろ行かないと」
 ツチノコとピーシーは目を合わせて小さく頷き合った。
「なんだよ、そろそろって。今会ったばっかりじゃないか。もっとゆっくりしていけよ」
「いやいや、本当に行かないと」
 二人は腰を上げた。
「まあ、まあ、そんなこと言わず、座れ、座れ。最高の鹿肉をふるまうから」
 おれは二人を座らせようとした。
「先輩、本当に申し訳ない。また近いうちに来ますから」
「おれは定住しているわけじゃないから、ここに来たっていないと思うぜ」
「ここら近辺の山にいるんでしょ」
「まあ、そうかもしれないが」
「来るときには、さっきの先輩みたいに強く念じますから、思念の電波、絶対受け取ってくださね」
「ああ、わかった。念じれば絶対察知してやる。じゃあ、今回は残念だなあ。せっかく会えたのに、短い時間で」
「あ、そうだーー」ツチノコは自分のザックを開けて、中から玄米、ゆで卵、インスタントの味噌汁を取り出して石の上に置いた。「先輩、これ食べてくださいよ」
「いいのか、こんな貴重なもの。お前もこれからまだ歩かないといけないんだろ」
「いやいや、今日中、日中の明るいうちには中腹にある山小屋まで下山します。そこに行けば食料がありますから大丈夫です。ピーシーもなんか食べ物持ってるだろ?」
「ええ、ぼくも米と魚肉ソーセージとチーズがあります」
「なんだよ、お前、一年坊主のくせに贅沢なもの喰ってるなあ」
「バイトで少し金が入ったんで久しぶりに買ったんですよ。先生、ソーセージとチーズを置いていきますよ」
 ピーシーがザックを開けようとした。
「馬鹿、要らねえよ。ツチノコ先生からたっぷり頂いたよ。お前は体が弱いんだから自分で喰え。おれはどうにでも生きていけるんだから。じゃあ、とにかく鹿肉の燻製だけは持っていってくれや」
 おれが洞窟に入っていこうとすると、
「いや、いや、要らない」
 二人は逃げるように歩き出す。
「なんだよ、旨いのに・・・・」
「知ってますよ。鹿肉の燻製の味は。よく食べてますから」
「それもそうか。山の素人じゃないんだよな。あ、そうだ、社長を探しに行くんだったらおれも手伝ってやるよ。ピーシーに一人で山を歩かせたって頼りない」
「先輩いいんスか?」
「ああ、こんな大切なものを頂いて何もしないわけにはいかない。おれにかかればそんなオヤジ、すぐに見つけてやるさ、安心しろ。ピーシーは団体客を山小屋へ下山させろ。上で待たせているんだろ。おれはピーシーと一緒にオヤジを見つけて、それから山小屋に合流させてやる」
「じゃあ、そうしましょう。ピーシーわかったか?」
「はい、了解。イエティ先生、でも、そんなに簡単に見つけられるものですか?」
「当たり前じゃねえか。おれのことを誰だと思ってる。サバ大を主席で卒業したイエティ先生だぞ」
「相撲大会も三年連続で優勝してますしね」
「おれの伝説は数限りなくあるから、そんなこまごましたことまで数えてたらキリがない。おれはとにかく非凡な能力があるんだ。あの成金オヤジ、タバコ吸ってただろ。会ったときヤニ臭かったのを覚えている。あんな臭い奴、ニオイをたどれば簡単だ」
「さすがイエティ先輩、頼りになります」
「ツチノコがおれを褒めるのは珍しいなあ」
「いつも尊敬していますよ」
「馬鹿野郎、気持ち悪い。尊敬なんかされたくない。おれなんぞ野獣と同ンなじ、しばらくしたら野垂れ死んでキノコと樹木の栄養だ」
「そんな物騒なこと言わないでくださいよ」
「よし、ピーシー行くぞ。おれは歩くのが速いからちゃんとついてこいよ」
 おれは事が決まればおれはモタモタしていられない性分、ピーシーを促した。
「はい」
「じゃあツチノコ、また世界のどこかでな」
 ツチノコと拳と拳を軽くコツンとぶつけて別れの挨拶をした。
 おれたちは二手に分かれて歩き出した。
「イエティー先生、何か手がかりは見つかりました?」
 後ろからピーシーが声をかけてきた。
「手がかり? 手がかりも何もニオイがするだろ、ヤニの嫌なニオイが」
「もうするんですか?」
「これだけ不快なニオイをつけてくれる奴も珍しい」
「何も感じませんがねえ・・・・」
 ピーシーは鼻をクンクンさせた。
「そんな犬みたいなことしたってダメだ。身体全体で感じなきゃ。肩の力を抜いて鼻を効かせるんだ。嫌なニオイがあるだろ?」
「わかりませんねえ・・・・」
 ピーシーは首をかしげた。
「うわっ、オヤジここで立っションしてやがる。クセーなあ」
「どこですか?」
「ここだよ、ここ」
「ここ?」
「お前そんなに顔近づけるなよ。まだ新しいんだぞ。アンモニアが顔につくぜ」
「いやあ、全然わかりませんねえ」
「お前はある意味、最強だな」
 皮肉ったつもりだったが、ピーシーは満更でもない表情で笑った。プログラミングってのを覚えると人間がバカになるのだろうか。コイツを一人で歩かせたら、捜索どころかコイツ自身が遭難しているに違いない。
 一時間も歩くと沢にたどりつき、その沢を下っていくとゴツゴツした岩場になり滝があった。これ以上素人が下っていくのは困難そうだ。
「こんなところあの社長、歩けますかねえ? ニオイ情報は大丈夫ですか」
「もうそこら辺にいるだろ。ニオイがプンプンする」
「本当ですか」
 川の端から岩場を抜けて崖下を見下ろすと、大きな岩の上にうなだれて座っているオヤジの姿があった。
「ピーシー、ほら、あそこ、趣味の悪い蛍光色のジャンバー、見てみろ、憔悴しきったツラしてるぜ。暗くなるまでああやって放っておいてもおもしろい」
 ピーシーもオヤジの姿を見つけた。
「あ、いた。本当だ。スゴイ、イエティ先生。尊敬します」
 ピーシーは両手でおれの手を握ってきた。
「何だよ、気持ち悪い。おれは男とベタベタしたくないんだ。手にバイ菌がつくだろ」
 おれはピーシーの手を振り払った。
「バイ菌って何スか。急に都会人の潔癖症みたいなこと言って」
「甘えるな。ここからはもうお前一人で行くんだぞ。山小屋までの道はわかるな?」
「ええ、地図があるから大丈夫だと思います」
「じゃあ、ここでお別れだ。学長によろしく伝えといてくれ」
「お別れですか・・・・」ピーシーはしんみりとした表情になった。「短い時間でしたけど、イエティ先生にいろいろなことを教わりました・・・・」
「何だよ気持ち悪い、泣くなよ。涙を流すのは、お目当ての女性の母性本能をくすぐるときだけにしろよ」
「そんな使い方もあるんですか?」
 ピーシーはおれの冗談を真に受けた。
「ま、いろいろあるから、お前の得意なグーグルで調べて研究しろ。じゃあ下山、気をつけろよ」
「はい」
 ここで歩き出そうと思ったが、ピーシーが名残惜しそうな目で見つめてきたので、
「あ、それと、スズメバチがきたら動くなよ。自分が木になったと思ってやり過ごせ。じゃあな、一期一会!」
 一つアドバイスをしてやり、拳骨をピーシーの前に差し出した。ピーシーはそれに気づき、腕を伸ばして拳骨と拳骨をチョンと合わせた。
「お世話になりました」
 ピーシーは大きな声で礼を言い頭を下げた。歩き出したら振り返らないつもりだったが、大事なことを言い忘れたことに気づき振り返った。ピーシーはまだこっちを見ていた。
「おい、ピーシー、言い忘れた。女子たちに、イエティ先生というすばらしい先生がいるということを伝えておいてくれ。教えに行ったときモテたいから」
「了解。歯抜けのことも伝えておきます」
「お、頼んだぞ」
 ピーシーはニッと笑ってきれいな歯並びの白い歯を見せつけて岩場を降りて行った。これでおれのお役目は終了。久しぶりに人のために働いた気がする。
 帰り道すがら野草とキノコを摘みながら歩いた。ずいぶん盛りだくさんな一日だった。金次郎オヤジ、ピーシー、ツチノコ、それから夢の中のギャートル。一年分の人間に一日で会った気がする。頭をクールダウンさせたいが、普段孤独な日常を過ごしているおれにとってあまりに刺激が強すぎて、ばら撒きばら撒かれた言葉の一つ一つがいつまでも脳髄にリフレインしてくる。そんなとき、
「おっ・・・・」
 前方二十メートルにムジナを発見した。大きさは猫を一回り大きくした程度。今晩のおかずに最高だ。ムジナの肉は臭みもなく脂が乗っていて旨いのだ。こんなことなら銃を持ってくるべきだった。いや、銃でなくてもいい、樫の木の杖でいい。杖があれば一振りで脳天を打ち砕き昇天させることができる。おれの血肉に流れる”狩猟のスイッチ”がオンになり煩悩が消えた。でも素手じゃ逃げられるだろうなと半分諦めながらも、逃げるであろうムジナに投げつける石を握りしめ、存在感を消しながら静かにムジナに近づいていった。ムジナは草むらに鼻を突っ込んで夢中で地中の餌を探している。十メートル、九メートル、八メートルーー、ムジナに近づいていく。「しめしめーー」、さらに近づいていく。
「あれっ?」
 変な気持ちがした。ムジナは逃げる素振りをまったく見せない。とうとう一メートルの距離になり、飛びかかれば捕まえられる距離になった。あまりのムジナの無警戒ぶりにおれの攻撃性は薄れてしまい、間近でじっとムジナを観察した。ムジナは濡れた鼻先を小刻みに動かし地面を掘り返している。ムジナは何を思ったのか、おれの足元に自ら近づいてきた。
ーー馬鹿なムジナだな・・・・。
 おれは憐れみを感じ、しゃがみこんでムジナに話しかけた。
「おい、お前、捕まえられるぞ」
 ムジナは何事かに気づいたようで、顔を上げておれの目を見てきた。ムジナと目が合った。おれはもう一言声をかけた。
「おれは狩人なんだぞ」
 するとムジナが言い返してきた。
「おれは腹が減ってるんだ」
 あまりに明瞭な声だったのでビックリした。動物と話すことはおれにとってそれほど珍しいことではないが、それはあくまで妄想の世界であって、現実に明瞭な声で話しかけられたのは初めてだった。
「おれかって腹が減ってるぜ」
 おれも言い返した。
「お互い様だな」
 ムジナはまた喋った。幻聴ではない、確かに聞こえた。ムジナは顔を小刻みに揺らして忙しないが、茶色く丸い目でおれを見つめている。相手はムジナだ、確かにムジナだ。だが、ムジナという概念でいいのだろうか。ムジナと言ってはいけない気がする。どういったらいいのだろう、人間にたいして、「あ、ニンゲン」とは言わないように、同種の仲間を個別に認識するといった感覚。腹が減ってるとはいえ仲間をとっ捕まえて食べようとは思わない。散々毎日のように野獣をとっ捕まえて食べているが、このムジナを殺生することは今さらながらできそうにない。
「邪魔したな」
 おれはそっと立ち上がった。コイツの生活を荒らしたくない。ここで平穏に暮らして欲しい。そのまま歩き出そうとすると、いろいろな方角から一匹、二匹とムジナが現れ、こちらに近づいてきた。
「おい、おい、何なんだ?」
 立ちすくんでいると、十匹ほどのムジナがこちらにイソイソと集まってくる。もちろんムジナは群れで生活する動物ではないし、おれに懐かれる理由もない。近づいてきて鼻先をズボンの裾に当ててクンクンしてくるから、おれはますます戸惑った。”仲間”という感覚がまたおれの中にやってきて、「元気にしてたか」と抱きしめて頬ずりしたくなったが、「人間とムジナの関係」という理性の割り切りがおれの感情を押さえつけた。
「じゃあな、おれは行くからな」
 おれは素っ気なく言い、ムジナたちをまたぎ越し歩き出した。
ーー幻じゃなかろうな。
 二十メートルほど歩いて振り返ると、やはりムジナが集まっている。何かの宴会か。さすがに後をついてくるムジナはいないが、何か不思議な気持ちがした。
ーーおれの前世はムジナだったのかなあ。
 歩きながら考えた。どうりでおれはまっとうな社会生活が送れないわけだ。暗くなりかけた頃、洞窟の住み家に戻り、焚火に薪をくべ炎を大きくして揺れる炎をしばらくボンヤリと見つめた。気持ちが落ち着いてきたので近くの沢で玄米を研ぎ、キノコと野草も一緒に飯盒にぶち込み火にかけた。ゆで卵をおかずとして食べたかったが、炊きあがるまでの時間が待ちきれず塩をつけて食べた。口腔内に唾液が溢れ出し、黄身だろうが白身だろうが喉につかえることなく滑るように胃へ流れていく。飯盒から白い湯気が朦々とあがり、白い煮汁が飯盒の隙間から垂れてジューッと音をたてると糠のいい香りがしてきた。
ーームジナの肉があればもっと豪華な晩飯になったのになあ。
 ムジナが自分の前世だとわかっても、まだ旨いものが食べたいという貪欲な欲求が頭をもたげてくる。ずいぶん業が深いものだ。炊きあがった飯をフーフーしながら勢いよくスプーンでかき込むと、”食べる”という原初的なよろこびにホッコリと包まれ、真から幸せな気持ちになった。ツチノコにもらった玄米、たくさんあるように見えても、あと二食分ぐらいか。定期的に米を食べたいものだが、そのためには金を稼いで金で商品と交換するという面倒な社会システムに身をおかなければならない。”社会”という名のメダカ学校で、皆んな仲良く列を作って泳ぐことなんぞ、おれには逆立ちしたってできそうにない。そんな窮屈な思いを味わうぐらいなら、山の中で一人の生活の方がいい。しかし、一人の生活が安定的に送れているときはそうは思わないが、仲間たちと会ってその後一人になると何だか急に淋しくなる。ツチノコが言っていたように、サバ大に行って学長に会い、ボチボチ仕事をもらおうか。おれにはそれぐらいのことしかできそうにないし、学長には大きな借りがある。
 おれの中の惨めな記憶が蘇ってきた。おれは町に出て二度働いたことがある。一度目は配達の仕事、二度目は警備員の仕事だったが、二度とも上司を殴りつけ留置所へブチ込まれた。留置所で保釈人として学長の名を告げると、二度ともタイミングよく学長が町に出ているときで、火急留置所に駆けつけてくれ、罰金だか保釈金だか知らないが大金を払ってくれ、早々と檻の中から出してもらえた。
 留置所から外に出て新鮮な空気を吸い、学長とおれは無言でブラブラと町を歩いた。おれは申し訳ないことをしたという気持ちもあったが、相手に対する恨み、ノルマだの義務だのといった尤もらしい屁理屈を言っておれを奴隷扱いし、無能呼ばりし、給料泥棒とまで言いやがり、そういった奴らへの恨みが消化されていなかったので、素直に「すんません」とは言えなかった。悪いのは向こうだ。さらに、物分りの悪い馬鹿な警察が社会のルールだの法だのと、知能の低いことを真顔で喋り散らすものだから、それに対してもイラ立っていた。
「畜生、一発殴って捕まるんだったら、もっと強烈に殴り飛ばしてやればよかった」
 おれがそう言うと、学長は「わかる、わかる」とおれを一切咎めようとしないで頷いてくれた。
「なあイエティー、おれは、前歯がなくても平気で生きていくお前みたいな奴が大好きなんだ。お前の言うことはすべて正しい。ネクタイ締めて整髪料つけてるような奴に碌な奴はいない。だがな、社会ってところで、”金”というエサをもらいたかったら、エサをくれる飼育員や園長に芸をして見せなくちゃいけないんだ。わかるだろ。悲しいかな社会とはそういうところなんだ」
 やさしく諭してくれた。
「おれかってそんなことぐらいわかってますよ。でも、人間ってそんなに簡単に理屈で割り切れるもんじゃないじゃないですか。ロボットじゃないんですよ。クソ腹が立つ」
「まあ落ち着けよ。そんな威張っているような奴らだって裸になれば弱いもの。地震でも戦争でもドカンと起きてみろ。街は廃墟と化し、流通は止まり、喰い物は何もない。金なんてただの紙切れだ。そうなったとき、おれたちみたいなのが力を発揮する。ナイフ一本ありゃあ生きていけるんだからな、ハハハ」
「何かちょっと違うなあ。おれが言いたいのは、社会をもっとまともな人間が回せってことですよ。カスがしゃしゃり出てくるなって」
「ああ、そうだ、その通り。でもな、そんなカスが集まって社会を作っている以上、社会なんて不条理にできて当然だぞ。そんな中でまっとうに生きようなんてそう上手くはいかないさ。まっとうな人間だって、たまには地獄を見ないと傲り上がって腐っていくんだがら、まあボチボチいい経験をしたと思えよ」
 脳天が禿げた学長の頭をチラと見た。学長のお説教以上に学長の態度、警察に支払った金のことは一言も触れず、ニコニコ微笑みながら話してくれるその態度におれの心が揺さぶられた。申し訳がない気持ちになり、学長にどうしてもお金を三倍にしてお返してやりたくなった。
「学長、金は絶対返します。銀行強盗してでも必ず返しますからご安心ください」
 おれがそう言うと、学長はハハハと笑い、
「やめとけ、やめとけ、銀行強盗は割に合わない。成功率が低すぎる。もっと気の利いたことを考えろ。もういい、もう金のことなんていいから飯を食べよう。化学調味料がたっぷり入ったラーメンでも喰って元気だそうぜ」
 おれと学長は赤い暖簾をくぐり、カウンター席で肩を並べて豚の油のゴテゴテ浮いた大盛りのラーメンをすすった。おれがあんまり音を立ててラーメンをすするものだから、周りにいた外国人客はおれの顔を物珍しそうに眺めたが、おれは奴らの視線を一切遮断しラーメンを夢中ですすり込んだ。ラーメンを食べ終わって外に出ると、空は茜色になっていた。
「今から行く場所もないだろ?」
 学長が言った。
「もちろん。山に戻ります」
「じゃあ、これ持ってけ。移動する金もないだろ」学長は、使い込まれた黒の革の財布から一万円札を出した。「じゃあ、またサバ大でな。おれは会議やなんやって、くだらないことで忙しいんだ」
 学長はおれの肩をポンと叩き、スタスタと雑踏の中へ消えていったーー。あれから何年経っただろう。何度も学長と会って馬鹿話をしているが、警察に払った金がいくらだったのかをきちんと聞いていなかった。返そうにもいくら返していいかわからない。そもそも返す金なんぞまったくない。金を稼ごうと思ったらいまの生活じゃあ無理だ。やっぱり定住しなければならない。あ、そうだ、ツチノコは家庭を持ったって言っていた。『家庭』、字の如く家と庭のある生活。ぼちぼち労働して、ぼちぼち畑作って、ぼちぼち狩りに出て、ぼちぼち子供育てて、そうやって社会とゆるゆる関係を持つというのも確かに悪くなさそうだが、それじゃあヌルいんだなあ。五感が鈍くなる。涙が流れるような感謝ができなくなる。おれ自身の魂に対し嘘をつくことになる。天地のささやき声が聞こえなくなる。そう、天地のささやき声だ。天地のささやき声こそが人生の最高のご褒美なのに、人生の快楽を追求したところで死ぬ間際、両手の平の上に何が残る? 人生に楽しさは必要だが楽しいだけの人生なんか空虚なもんだ。もっとも楽しいだけの人生を送ってる奴を見たことがないから、それは原理的に不可能なことなのだろう。だったら今のままでいいのか。だが、腹が減るっていう苦しみはどうにかならないものか・・・・。
 山の闇は深い。虫の鳴き声が辺りをこだましている。おれはマットの上でゴロンと仰向けに寝そべりながらいつものように夜空の星を眺めた。今夜は妄想の材料が多い。だが、おれの単純な造りをした脳みそは、ほろ苦い同じ軌道をグルグル回るだけで、座り心地のいいところへは連れて行ってくれない。
ーーずっと山にいていいのだろうか・・・・。
 町へ働きに出たところで、腹立つ奴をぶん殴ってまた留置所へ入れられるだけだろう。でも、米の飯をたらふく食べて、菓子食いながらくだらないテレビを見て、フカフカのベッドで虫に刺されずに眠る。蛇口をひねればシャーッと塩素消毒された水が出て、腹が減ったらレンジでチンして「頂きます」。そんな生活も密かに憧れる。ずいぶん人間はエラくなったものだ。すべての生物を征服してそんな生活を手に入れた。ケッと軽蔑する気持ちもあるが、憧れの気持ちも強い。何なんだおれは。孔子先生は「四十にして惑わず」とおっしゃったが、孔子先生であっても四十まで惑っていたことを思えば、三十になってまだヨチヨチ歩きのおれなんぞ惑って当然か。そもそもおれはムジナなんだから町の生活は夢幻でいいのか。
 今夜は雲が多く星がまばらだが、小さな星の一粒がスーッと流れて消えるのが見えた。また昔のことが脳裏に蘇ってきた。サバ大の娯楽は夜、仲間たちと集まって面白い話を披露し合うこと。ある先輩がUFOにさらわれた話をした。山の中で一人でいたときさらわれたそうだ。
 UFOの内部は銀色の無機質な部屋、先輩は気がつくと、部屋の真ん中に置かれたベッドの上で寝かされていた。身体は、手足がロックされていて動かせない。そこに数人の宇宙人、背が低く、頭が大きく、目が大きく、おちょぼ口の宇宙人たちが部屋に入ってきて、寝ている先輩を観察した。先輩は恐怖のあまり声が出せない。次に人間の女のナリをした宇宙人が部屋に入ってきた。女は西洋人のような金髪、猫のような目、耳が尖っており、身体は細身、胸は隆起し、白い肌には体毛がなく、真っ裸である。宇宙人たちにこの女と性行為をするよう言われた。先輩はパニックになってそれどころではなかったが、下半身はなぜか反応してしまい、やむを得ず一戦を交えた。一戦終えると調子が出てきて対戦を重ね、七回戦まで行うと、女の方が「もういいわ」と対戦を拒否して終了となった。そこで先輩は記憶を失い、気づいたらまた山の中にいた由。
「今ごろ、この広い宇宙の星のどこかに、おれの子どもたちが元気に野原を走り回っていることだろう」と、遠い目で空を見上げながら言い、先輩は話を締めた。
 あまりに聞き覚えのある定型的な話だったので、「何だよ、それは」と皆んなから笑われ、おれも同じように馬鹿にしたように笑った覚えがある。しかしおれは何日もその話が気になり、先輩がUFOにさらわれた場所へ夜中コッソリと行った。すると、おれと同じように宇宙人女と同衾しようと助平心を起こした野郎数人がすでにそこで夜空を眺めていて、「お前もか」と笑い合ったことがある。しかし考えてみれば、この山の中の電気もない薄気味悪い闇の中では、どんな荒唐無稽な話でも起こり得るように聞こえるから不思議だ。小利口な都会人はそんな山の民を鼻で笑うかもしれないが、おれに言わせれば闇を知らない都会人こそ上っ面だけの臆病者である。電気の生活で世界を歪ませ、人間の可能性を狭く限定してしまっている。
ーーピュー
 そのとき強い風が不気味な音をたてて吹き抜け、夜の森が奇妙にざわついた。雨が降り出すのか、何だろう? 五感を研ぎ澄ませると、また強い風が、今度は風が吹き抜けるいうより渦を巻くように吹きつけてきた。埃が目に入らぬよう目を細め、手で目を保護していたが、細かい塵が運悪く目に入り、風がやんだときには目が痛くて開けらなくなった。涙で塵を洗い流しようやく目を開けると、焚火の薪は散乱し、それでもまだしぶとく消えずに残っていた火種があったので、手元の柔らかな枝に火種をつけて炎を大きくし薪に再点火させた。炎はパチパチとはぜりながら赤々とした生命を取戻し、周囲をオレンジの光で照らした。
「ん?」
 そのとき焚火を挟んだ正面に人影が見えた。
「うわっ!」
 おれは予想だにしていない状況に思わず後ろにひっくり返ってしまった。倒れた体勢でもう一度キッと正面を見つめると、確かに男がいる。おれは合気道の達人のようにすばやく転がって距離を取ろうとしたが、背後がすぐ崖でそれ以上離れられない。おれの心臓が高鳴った。コイツは物音を一切立てずにいつの間にここへ来たんだ。
「怪しい者じゃないよ」
 男が平然とした口調で言った。怪しいこと極まりない男が、「怪しい者じゃない」と自ら言ったところで誰が信じるというのだ。
「もののけか・・・・」
 大きな声で叫ぼうと思ったが、肝が縮んだのか、か細い声しか出ない。
「いや、普通の人間だよ」
 はっきりした声が返ってきたので「もののけ」ではなさそうである。恐ろしかったが男を凝視すると、小太りの体格で黒のスーツに白のワイシャツ、黒いネクタイ、黒い帽子。こんな山の中でなんでそんな葬式帰りみたいな格好をしているのだ。もののけ以上に怪しい。もののけと言ってくれた方が安心できる。炎越しなので肌の色ツヤまではよくわからないが、その目尻のシワと口元の放物線から察し、おそらく五十代もしくは六十代の中高年だろう。おれは拳大の石をサッと拾い、投げつけられるよう身構えた。
「怪しいものじゃないから落ち着きな」
 黒服男はおれの目を射るように見つめ制止してきたがそうはいかない。おれは攻撃の狼煙を上げるため、肚に力を込めて「カッ!」と渾身の気合を入れた。
「いい気合だ」
 男はその気合にまったく動ずることなく、感心したように褒めニヤッと笑った。
「ん?」
 おれは男の口元に目がいった。男の前歯は抜けていた。歯抜けの笑顔を見たら人のよさそうな感じが不思議と伝わってきて、おれの緊張はすっと解けた。
「なんだよ、歯抜けか」
 おれが言うと、
「君かってな」
 と言い返しガハハと笑ったので、おれもつられてガハハと笑った。よくわからないが打ち解けた。男は胡散臭さ満載だが歯抜けに悪い奴はいない。
「どうしたんですか? こんな山の中をこんな時間に」
 おれは焚火の前に座り直し話しかけた。男は旧友に再会したかのように親しげに笑いながら、
「君を探していたんだよ、イエティ君」
 初めて会ったにもかかわらず、おれの名前を言った。
「なんでおれの名前を知ってるんスか? もしかして、学長の知り合いか何かで?」
「いや、そうじゃないが、君を探していたんだよ。君のような優秀な男を」
「優秀? おれが?」
「そう、君が」
「あなた話がわかるね、フフフ」
 いつもながらおれは一言の褒め言葉で浮ついてしまった。
「おれはスカウトマン、君のような濃い男を世界中で探し回っているんだ」
「スカウトマン?」
 黒服スカウトマンはおれの顔を見てニヤニヤしている。
「もしかしてジャニーズの人? おれは歌えないし踊れないぜ。台本通りには絶対話さないしな」
「いや、わたしは芸能人のスカウトじゃない」
「おれは百六十キロの玉は投げられないぜ。ま、運動神経はいいから、ちょっと練習すればじきに投げられると思うがな」
「いや、野球のスカウトじゃない」
「じゃあ、何のスカウトだ」
 黒服はちょっと沈黙して間を置き、顔を突き出すように前のめりになると、焚火の炎が男の顔を赤く照らして大きい顔がより迫力を増した。
「わたしは健全な精子を探すスカウトマン。君は最高の精子を持っている逸材だ。是非、君の精子を提供して欲しい」
「精子を探すスカウトマン・・・・」
 おれは絶句した。全く聞いたことがない新種の職業だった。
「そんな職業があったとは・・・・。精子のスカウトマンっていい金がもらえるのか?」
「スカウトマンをスカウトしにきたわけじゃないからそんなことはどうだっていい。欲しいのは君の精子、是非うちの国へ来て欲しい」
「精子提供ねえ・・・・。だけど何でおれの精子がいいってわかるんだ。あなたと交わった覚えはないが」
「野獣を食べている男がいいんだよ。抗生物質で薬漬けにされた家畜じゃなくて」
「野獣ねえ・・・。ま、おれの場合は家畜を食べないんじゃなくて買えないだけだどな」
「野草を食べているというのもいい。F1種の雄性不稔の種を使った野菜じゃなくて」
「野草ねえ、だったらアフリカの部族に当たれば、もっと濃い奴がいるんじゃないか?」
「いや、君が最高だ」
 男はそう言って右手をゆっくり差し伸ばしてきた。おれはわけがわからなかったが何となく握手を交わした。異様に分厚くて柔らかな手だった。
「でも、いきなり精子と言われてもねえ・・・・」おれは気が進まなかったが男の手の印象が強かったので話を進めた。「じゃあ、わかった。五、六匹持って帰るか。試験管か何かに入れるんだろ。容器を出せ」
「今ここで出されても困る。一緒に来てもらわないと」
「来てってどこへ?」
「我々の国へ」
「どこだ? 遠いのか?」
「遠くもないが近くもない。この世界の裏側って言ったほうがいいか」
「裏側? じゃあ、アルゼンチンか、ブラジルか」
「ドリモンド国」
「ドリモンド? 聞いたことがないなあ・・・・」おれの頭の世界地図にそんな名前はなかった。インド洋かどこかに浮かぶ小さな島なのだろうか。「どんなところだ?」
「安心、安全、便利、快適、愉快なところだ」
「なんだ、そりゃ。ショーもなそうだなーー」おれの気持が一気に冷めた。「やーめた」
「どうして?」
「岩魚は釣れないだろ」
「それはいないなあ」
「旨いキノコは採れるか」
「採れないねえ」
「フッーー」おれは鼻を鳴らした。「やっぱりショーもない」 
「温かくて柔らかなベッドで寝られて、おいしい食事を腹いっぱい食えるぞ」
 男はおれの心を見透かしたように、おれの弱い部分を突いてきた。
「あ、そう。でもそんなの、あなたの国でなくてもできるぜ」
 おれは平然と否定し気のない表情を取り繕った。
「美女が好き放題だぞ」
「おれが高校生だったら飛びついたかもしれないな」
 いかにもツマらなそうに言ったが心の中は興味津々だった。だが欲しい物を買うとき欲しい顔をすると商売人に高く吹っかけられるのが世の習わし、ここはあくまで冷淡な態度で臨まなければならない。
「気に入ったーー」スカウトマンは大きな声で言った。「君のことがより気に入った。わたしは君のような欲に動かされない意志の強い男を探し求めていたのだ。是非来て欲しい」
「フフフ、まあ行ってやってもいいが、生憎おれは聖者じゃない。わかるだろ?」
「わかる。で、何だ?」
「要するに金ですよ、マネー。いくらくれるんですかって話」
「いくら欲しいんだ?」
「十億ぐらいかな」
「十億? ジンバブエ・ドルでか」
「冗談言うな。もちろん日本円でだ。米ドルでもユーロでもいい」
「そのお金で何をするつもりだ?」
「おれが何に使おうがおれの勝手だ。金をもらうとき使い方を報告する義務はないだろ」
「もちろん、それは君の勝手だな」
「正直に言えば、おれは金には興味がない。しかし興味がないからこそ、大金をせしめて金のことを忘れたい気持がある」
「金のことを忘れたいのか。じゃあ、やはり君にとって最適だ。ドリモンド国では、金は流通していない。金を使わずに社会が回っている。金が社会を牽引する野蛮な貨幣制度なんてないから安心したまえ」
「ほお、それはなかなか立派な国だな」
 おれはちょっと小馬鹿にしたような口調で言い、男が嘘を言っていないか奴の目を慎重に覗き込んだ。スカウトマンはおれの視線に動じることなくじっと目を合わせ不敵な笑みを浮かべた。
「さらにドリモンドのいいところ、不老不死とまではいかないが不老長寿は実現している」
「不老長寿・・・・。ということは、あなたがたはハダカデバネズミの親戚かい?」
「それはどういうことだ? 我々はネズミの親戚ではない。要するにテクノロジーが進んでいるってことだよ」
「だったらテクノロジーで精子ぐらい作れよ」
「それはどうしてもできないんだ。だから困っている」
「困ってる? おれかって困っていること満載だ。借金抱えて返す当てがまるきりない」
「君の仕事次第で、君が望むものは何でも与えられるだろうよ」
「おれが望むもの? 金以外で何をくれるんだ?」
「じゃあ、行こうか」
 スカウトマンが立ち上がった。
「なんだよ、まだ話の途中だぜ。答えろよ」
「さあ、さあーー」
 スカウトマンはおれの腕を握って急き立ててきた。おれも意思が決まればせっかちな方だが、スカウトマンはおれ以上にせっかちな性格だった。おれは行くなと言われると行きたくなるが、行けと言われると行きたくなくなる。そこまで熱心に誘われると俄然行く気がなくなってくる。
「おい、なんだよ、離せ、なれなれしいーー」
 おれはスカウトマンの手を振り払おうと強く腕を振った。そのときスカウトマンの足元に何気に目が行った。黒のスーツを着ているから当然足元は黒の革靴だと思っていたが意外にも裸足だった。
「裸足・・・・」
 その服装とは不釣り合いな裸足に驚き、さらにその足の大きさにもう一つギョッとなった。背丈はおれより少し大きいぐらいだが、スカウトマンの足は大地をガッチリ鷲掴みしそうな巨大な足だった。足の親指なんか小学生の握りこぶしぐらいある。
「立派な足をしてるねえ。靴は履かないの?」
 おれはその足に呆気にとられて言った。
「ああ、わたしは靴が苦手なんだよ。足が火照ってしょうがない」
「立派な足だなあ。まさにビッグフットだな」
「君はイエティ、わたしはビッグフット。これも何かの縁だな」
「そうだな」
 おれたちは両手でがっちり握手を交わし、ハハハと笑い合った。そこで完全に仲間意識が生まれた。精子提供なんて何だかよくわからないし何のメリットもなさそうだが、他人とは思えぬ男の頼みだからここは行かないわけにはいかない。おれの意思は決まった。
「おれなんかより、スカウトマンの方がよっぽど精子が濃そうだぜ。あなたが仕事しろよ」
 おれが軽口を叩くと、
「わたしはもう歳だから、一匹一匹の精子の動きが悪いんだ」
 スカウトマンは残念そうに答えた。
「そういうわけか、わかった、わかった。おれが力になってやろう」
「よし、じゃあ、行こう」
 スカウトマンはまたすぐに腕を引っ張った。
「なんだよ、そう焦るなって、行くからさ。旅仕度するからちょっと待ってくれよ。おれはどこへ行くときでもナイフと水筒と寝袋がないと落ち着かないんだ。レインコートも要るかな。あ、鍋も必要かな」
「そんなものいい、全部向こうに揃っている」
「自分のものじゃないとしっくりこないだろ」
「いいから、いいから。君は意外と慎重なところもあるんだな」
「当たり前だ。おれは失敗の王様、準備不足で困ったことが多々ある。学習経験の賜物だ」
「そんなのいいから早く」
「あ、パスポート。あれ、どこだろう? 失くしちまったかな?」
「いいんだ、そんなもの、要らないから」
「そういうわけにはいかないだろ」
「裏口から行くから」
「裏口? なんかズルするみたいで後ろめたい気がするな。捕まらきゃいいんだけど」
「絶対捕まらない、大丈夫」
 スカウトマンは突然後ろから抱きついてきた。
「なんだよ、いきなり。もしかしてお前はそっちの男か。おれは御免こうむるぜ」
 おれは反射的に相手の脇腹に肘鉄を喰らわしてやろうかと思ったが、フッとそこで意識が切れた。 
     ※
 白鹿のギャートルがおれの耳に息を吹きかけて起こしてくれた。おれはベンチで寝ていたようだ。
「イエティ帰ろうよ」
 ギャートルが言った。
「帰る? 帰るってどこへ?」
 おれは寝ぼけ眼で周囲を見回すと、そこは夜の遊園地だった。ライトアップされたお城が目の前にあり、陽気な音楽が奏でられている。子供の頃憧れに憧れた遊園地になぜだか知らないが来ていた。
「どうやっておれはここへ来たんだ?」
 おれは白鹿ギャートルに訊ねた。
「イエティーが黒服の男に連れ去られていくところを目撃したから心配になってついてきたんだ」
「黒服の男? 小太りで黒の帽子に黒のスーツ、足は素足のオッサンか?」
「そうそう」
「奴は見かけは怪しいが悪い男じゃないんだ。ビッグフットだからおれの仲間なんだよ」
「どういうこと?」
「いいんだ、些末なことは。しかしここは賑やかなところだなあーー」おれはネオンの光がキラキラする光景をうっとりとなって眺めた。「どうだ、ギャートル、しばらく遊んでいくか?」
「おれはいいよ。こんな所ツマらないから」
「お前は鹿だから、ここではちょっと目立って居づらいかもしれないな」
 おれはギャートルの首筋を撫でた。
「山がいいよ。山へ戻ろうよ」
「お前は本当に山が好きなんだなあ。たまにはこういうのも面白いと思うぜ」
「ああ、居心地が悪い。おれは先に帰るから」
 ギャートルは何の未練も見せずスタスタと歩き去って行った。
「さて、どうしよう・・・・」
 おれはこういった場所で遊び慣れていないので、どう楽しいんでいいかわからなかった。まず周りの奴らを観察することから始めた。ーーキャラクターの着ぐるみが子どもたちに風船を配っている。十代のカップルがソフトクリームを食べながら歩いている。若いパパが子供を肩車して家族サービスしている。修学旅行で来たと思われる学生服の学生が仲間とふざけ合っている。そんな彼らをジロジロと眺めていると、奴らとフと目が合った。ワサワサの頭髪でヒゲ面、鹿の毛皮のちゃんちゃんこ、そんな男はこの場では珍しいようで、おれと目が合った瞬間ガキどもは険しい表情になり、おれのそばから逃げるように離れた。
「何もしねえよ、馬鹿野郎」
 おれは気持が白茶けたが、穏やかな表情を取り繕って園内を歩いた。
「そうか、そうか・・・・」
 少しずつ遊園地なる所がわかってきたが、楽しさはどんどん薄らいでいった。そんなに騒ぐほど楽しいのか? アトラクションとやらに入れば少し気持も変わるかもしれないが、悪どい商売人の何某が金儲けのために設計したそんなところへは気持ち悪くて入りたくない。ストレスを溜めて金を稼ぎ、金を払ってストレスを解消する。そんな面倒な手間をかけるぐらいなら、金を使わず楽しんだほうがいい。子供ならまだしも、大人までがヘラヘラ笑っているとはどういうことだ。
 おれはそれ以上に気持ち悪いことに気づいた。花は咲いているのに枯れている花がない。花畑があっても虫がいない。水場があっても魚影がない。大勢の人が大量のゴミを排出しているだろうにネズミもカラスもいない。ここには人間以外の生物が消去され、生命たちの連続性、生命と生命が支え合う関係、生命と生命が殺り合う関係が断ち切れている。表があっても裏がない世界というか・・・・。
 おれは徹底的に遊園地の裏を探した。どこかにドロドロとした黒い煮汁が悪臭を放って流れているはずだ。しかしいくら歩き回っても黒い煮汁を見つけることはできない。蜘蛛の一匹、ゴキブリの一匹すらも見つからない。
 おれは歩き疲れたので人目のつかないところで一休みしようと、今度は人のいないところを探した。しかし人のいないところがどこにもない。どこで気持ちを鎮めればいいのだ? 急に不安になってきた。
 夢遊病者のようにさまよっていると、トイレの横の芝生の隅に、落ち葉の山を見つけた。ーーいい場所だ。落ち葉の山を布団のようにして大の字になって寝転んだ。やっと見つけた陰の場所。腐葉土の湿った臭いが鼻腔をほのかに刺激し懐かさを覚える。目を閉じると疲労が足先から引いていき、騒々しい音もスーッと消えていった。
ーー何だろう、この静けさは。おれは眠っているのか・・・・。
 朧な意識の下、手に何か湿ったものが触れたので、それを握りしめ顔の前に持ってきた。目を開けると、それは腐った葉っぱだった。
「ウワッ、汚ねえ」
 葉っぱを投げて上体をサッと起こした。
「ん? どこだ、ここは?」
 遊園地ではなかった。樹木が植えられた公園のようなところにいた。遊具もなく、ベンチもなく、噴水もなく、人もいないが、『公園』と形容するしかない場所だ。その公園の隅の落ち葉のゴミ捨て場のような所でおれは寝転がっていた。
「なんだよ、ここは・・・・。遊園地は何だったんだ? あれは夢だったのか?」
 立ち上がって背中についた落ち葉を払いながら周囲を観察した。奇妙に静かな町で人影がまったくない。同じ大きさで同じ色、同じ外観のビルが整然と立ち並んでいて、頭上を見上げると、高くて白い天井から光度の強いライトが白い光で照らしている。ここは屋外のようだが屋内のようだ。温度管理されているようで暑くもなければ寒くもない。公園から大きな通りへ出てみると、通りに沿って街路樹が、同じ種類、同じ高さ、同じ枝ぶりで整然と並んでいる。そこを”立ち乗りスクーター”のような乗り物が、水色の作業着姿の男を一人載せ、宙に数十センチ浮きながら走り去っていった。どうやら人はいるようだ。でも、何でこんなに静かなんだろう。国民全員の昼寝の時間なんだろうか。いや、もしかして、今、夜中なのか。空が見えないので昼か夜か時間帯がまったくわからない。
「変な所に来ちまったぞ・・・・」
 おれは黒服のスカウトマンのことを思った。あいつの言っていた”ドリモンド”とかいう国はここのことなのか。飛行機にも乗らず突然来ちまった。やっぱりあいつはもののけだったのか。連れてくるんなら案内ぐらいしろってんだ。しかもゴミの上に放り出しやがって。新天地に来たというのに、ナイフ一本もない手ぶら状態ではおれの得意なサバイバルができない。確かスカウトマンの奴、金が要らない国だって言っていた。タダでホテルに泊まらせてくれるのかな。次、誰かが来たら訊かなくちゃな。
 そのとき、頓狂な音楽がどこからともなく流れてきて、建物から赤いジャージ姿の人達がゾロゾロと出てきて通りをゆっくりと歩き出した。皆んな一様に水中眼鏡のようなものを装着している。何かのデバイスだろうか。そのデバイスで各々自分の世界に入り込んでいるらしく、周囲をまったく見ないで歩いている。誰もおれの存在に気がつかず、おれはなんだか透明人間になったようだ。
「あのう・・・・」
 一人の男に声をかけようとしたがウッと息を呑んだ。どうせ声をかけるなら若くて可愛い女にした方がいい。おれは目を凝らしていい女を物色した。しかし、若い女はいても、皆んな幽霊が足を引きずるような歩き方をしていてどうも食指が湧かない。「どうした、元気出せよ」と叱咤激励したくなる。それに皆んなケツの形が悪い。おれはプリッと上を向いたケツが好きだが、しおれた蕾のような元気のないケツばかり。美女云々と贅沢をいう前に、まっとうに対応してくれそうな元気な奴を探さなければ。
 そんな中、少し体力がありそうな太り気味の男がいたのでそいつに声をかけた。
「そこのデブッチョ」
 男はおれの声を無視して歩き去っていく。眼鏡型デバイスは耳元も覆われているので、多分音楽でも流れていて聞こえないのだろう。おれは真後ろから叫ぶようにもう一度言った。
「おい、デブッチョ、お前に声をかけてるんだよ」
 肩を揺すった。男は驚いたように振り返ると、おれの姿を見てもう一度びっくりし、大きく口を開けてアワワ、アワワとうろたえた。
「ちょっと訊きたいことがある」
 しかし、男はヨロヨロと後退りして目を白黒するばかり。おれは聞こえやすいように、男のデバイスを親切に外してやった。
「おれは善良な人間だ。決して怪しいものじゃない。ちょっと訊きたいことがある」
「あ、あ、あ・・・・」
 男は何も答えられず、地面にヘタヘタと座り込んでしまった。
「何だよ、おい、しっかりしろよ。ずいぶん虚弱体質だなあ。今度スッポンを捕まえたら、生き血を飲ませてやろうか」
 行き交う人はおれたちに関わりたくないらしく、皆んな見て見ぬ振りをして通り過ぎて行く。おれを遠く離れた場所から眺めている奴もいる。
「チッ、意気地のない奴らばかりだな。ならばーー」おれは手を振って叫んだ。「おーい、ちょっと訊きたいんだ」
 おれは、遠くから見物している奴らに猛ダッシュで向かって行った。するとそいつらは血相を変えて走り出したが、どうやら走り慣れていないらしく、足がもつれて一人二人と次々に転んでいく。転んだ後は立ち上がることができず、そのまま路上でヒクヒクして動けなくなった。
「おい、おい、大丈夫か・・・」
 おれは倒れている女に声をかけると、やはりアワワ、アワワとなって話すことができない。この状況をどうすりゃいいんだ。さらに追いかけてもいないのに、こちらの様子を遠くから見ていた奴らも気持が動揺したのかバタバタと倒れ出した。大騒動になってしまった。それから数分すると、宙を浮いて走る台車のような救急車が次々とやってきて、白い作業着の男たちとロボットが共同して倒れた奴らを救助し始めた。彼らは病院関係者だろうか。おれは赤ジャージではないそっちの白服種族に声をかけた。
「おーい、ちょっとお訊ねしたいんだが」
 白服種族はおれを見て、
「え?! な、な、何なんでしょう。ど、どうしたんですか」
 と驚いて動きを止めた。こいつはまだ喋る力があるようだ。
「ホテルはないかな?」
「ホテル? 何ですか、それは?」
「なんか知らないけどこの国に来ちまって、泊まる所が必要なんだ。野宿ができる場所があれば、それでもいいし」
「え、え、え・・・・、ちょっとお待ちを」
 白服種族は眼鏡デバイスでどこかに連絡を取り、しばらくすると制服姿の体格のいい男たちが三人、さっきの”立ち乗りスクーター”に乗ってやってきた。男たちの体格から察するに警察か軍人っぽい。さすがにこの体があれば赤ジャージの奴らと違って、アワワ、アワワとはならないだろう。
「ど、ど、どうされましたか?」
 慇懃な態度で声をかけてきた。明らかにおれの姿に恐れおののいている。
「よっ、お巡りさん。おれはよその国からやってきたんだがね、どこか気の利いたホテルはないかい? もちろん金はないが」
「ホテル・・・・」
 警官は口ごもった。そのときおれはハッと気がついた。ーーそうだ、この国はお金を使わない社会だ。ホテルは商業施設だから、ホテルという言葉自体がないのかもしれない。そこでおれは言葉を言い換え訊ねた。
「宿泊施設はどこかないかい?」
「宿泊施設・・・・・」
 しかし警官たちはどうも要領を得ない様子でモゴモゴと口ごもるばかり。おれは怒鳴りたい気持ちが起きたが、見ず知らずの国で騒動を起こしたくないので感情を抑えて紳士的に振る舞った。
「早くどうにかなりませんかなあ」
「は、はい、すみません」
 警官は地べたに座り込んで謝罪した。
「そう畏まるなよ。おれはちょっと仕事に来ただけなんだからさ」
「えっ、仕事?」
「そう、黒服のスカウトマンを知ってるか。そいつの紹介で来たんだが」
「黒服のスカウトマンにですか?」
 警官たちは顔を見合わせた。
「貴方はゴウ族の方ではないのですか」
「何だよ、ゴウ族って?」
 警官たちはおれの言葉に呆気に取られたような表情になった。リーダーらしきチョビ髭の男がおれの前にゆっくりと歩み出て、
「もう一度お訊ねします。ゴウ族の方ではなくて、仕事でこの国へ来られたとのこと。じゃあ、どこからドームに入られました?」
「ドーム? ここのことか? どこって言われても知らねえさ。気づいたらあそこの公園で寝ていたんだから」
「公園で寝ていた?」
 警官たちは不思議そうな顔をしている。
「もう一度お訊ねしますが、ゴウ族の方ではないのですね」
「ゴウ族ゴウ族ってうるせえなあ。知らねえって言ってるだろ。なんかエライ人か?」
「なんだコイツは。ただのアウターか。驚かせやがって」
 急に言葉遣いがぞんざいになり、デバイスで別のところへ連絡を取り始めた。
「おい、何だよ、”ただのアホだー”って。初対面の人に失礼だろ」
 おれが警官に食って掛かると、
「暴力に出る気か」
 警官は棒状の武器を手に持ってサッと身構えた。棒の先端は青白く光って何だか危険そうだ。おれは無抵抗を示すため合掌して瞑目し仏像と化した。こんなところで怪我させられたり、留置所に放り込まれたらかなわない。警官はおれに近づいて、武器を持っていないかボディーチェックを始めた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・」
 おれはただジッとしているのも芸がないように思え、サービスがてら六字名号を低い声で唱えてやった。警官は、おれの行動に不気味さを感じたのか、「オッ」と言って後退りした。警官の戸惑った様子に、おれは思わずヒヒヒと前歯を出して笑ってしまった。
「歯抜け・・・・」チョビ髭警官がおれの顔を見て言った。「ど、ど、どうして、君は前歯がないんだね?」
「知らねえよ、そんなこと。折れたんだよ」
 おれは単簡に答えた。
「この男、やっぱりゴウ族っぽいんだよなあ。この顔といい、動物の毛皮といい、喋り方といい、態度といい・・・・」警官たちは顔を見合わせた。「何か気味悪いっスね」
 そこへまた立ち乗りスクーターが到着した。白衣を着た初老の男性である。身体は細身で白髪の頭頂は薄くなっている。警官たちはジイさんに敬礼して言った。
「所長、お忙しいところ誠に申し訳ありません。どういうわけか知りませんが、アウターが突然こんなところに出没しまして」
「えっ? この方、本当にアウターか・・・」
 ジジイはおののきながらおれを眺めている。
「ゴウ族っぽいですがアウターです」
「ホー、そうなのかあ・・・・」
 ジジイは興味深げにおれの顔を覗き込み、ポケットから聴診器を取り出して、気安くおれの胸にペタペタやってきた。頼んでもいないのに何を無断で検査しやがるんだ。おれは機を見計らって大声で吠えてやった。
「ワンッ!」
 ジジイは耳に響いたらしく聴診器を耳からサッと外し、おれの顔を恨みがましい目で見つめた。
「ヒヒヒーー」おれはジジイの目を見つめながら静かに笑い、「怒るなよ。軽いジョークだ」と弁解した。
「所長、気をつけてください。このアウター、何をしでかすかわからなくて危険ですから」
 四人は不審げな目つきでおれを見つめた。
「アウターとわかれば、我々は失礼します」
 チョビ髭警官を残し二人の警官は去っていた。チョビ髭はジジイ所長の護身用として残したのだろうか。チョビ髭はおれに話しかけてきた。
「さっき、スカウトされたって言ってたね」
「ああ、そうだよ」
「所長、精子提供のアウターだと思いますが」
 チョビ髭は所長に言った。
「だろうな」
 所長は当然のように言葉少なにこたえた。そこでおれはまた横から口を挟んだ。
「黒服のスカウトマンが言うには、おれの精子は史上最強なんだってさ。試験管に入れた精液でも、液体がそのままズルズル動いて女の股間に向かっていくぐらいだからな」
「何なんだ、この男は。容姿も気持ち悪いが、言うことも気持ち悪い・・・・」
 チョビ髭は露骨に不快な表情をした。
「性格がどうであれ、精子がよければそれでいい。まず検査して、それから個室に入って働いてもらおう。じゃあ、搬送を頼んだぞ」
 ジジイ所長はそう言い、スクーターに乗り込んだ。チョビ髭はジジイの背後から訊ねた。
「さすがにコイツは縛った方がいいですよね」
「好きにしたらいいさ」
 所長は去って行った。
「フー・・・・」
 チョビ髭はおれの方を見て溜息をついた。
「縛らなくたっていいぜ。面倒だろ。おれをそのスクーターに載せるだけだろ」
「ああ、そうだ。大人しくするか?」
「もちろんだ。動いたら危ないだろ」
「絶対動くなよ」
 おれはチョビ髭の後ろに立った。
「じゃあ、行くぞ」
「好きにしな」
 宙に浮いて音もなく走り出した。対向車もなく後続車もなくガラガラの道を軽快に走っていく。チョビ髭に「絶対動くな」と言われたのを思い出し、動きたくてウズウズしてきた。安全ばかりではツマらない。ちょっと危険なスパイスが欲しい。チョビ髭の脇腹をくすぐってやった。
「コチョ、コチョ、コチョ、コチョ」
「おい、何するんだ、やめろ、コラ、ヒヒヒヒヒーー」
 チョビ髭は予想以上に敏感な反応を見せ、右に左にグネグネと蛇行走行になった。
「やめろって言ってるだろ」
 制御しきれずスクーターはひっくり返った。チョビ髭はおれに覆いかぶさるように倒れてきた。
「グエッ」
 おれは奴の下敷きになった。
「イタタタ」
 チョビ髭はおれの腹の上で目を白黒させている。「痛い」はこっちのセリフだ。
「ああ、まったく災難だーー」おれはサッと立ち上がり、チョビ髭とスクーターを起こしてやった。「しっかりしろ、チョビ髭。これしきのことで怪我していたら警官は務まらんぞ。今後は心して安全運転を心がけるんだぞ」
「お前がくすぐるからからこうなったんだろ」
 チョビ髭は怒る気力も削がれたようで弱々しい口調で言った。ゆっくりと立ち上がっておれを感心したような目つきで見た。
「君は頑丈な体をしているんだなあ」
「当たり前だ。これしきのことで怪我していたら猪は捕れないぜ。お前はこんな機械にばかり頼っているから体が弱くなるんだ。ジジイの所まで遠いのか? どうせなら歩いていこうぜ。町並みもゆっくり眺めたいしな」
「何? 歩く?」チョビ髭は驚いたような表情をした。「歩くなんて面倒なこと、運動の時間以外でする奴なんかこの国にはいないぜ」
「歩くのが面倒? じゃあお前は何のために足を持ってるんだ? 飾りか?」
「もちろん歩くための足だが、好き好んで歩かないなあ」
「堕落したこと言うんだな。で、何だ、その運動の時間って?」
「さっき音楽を聞いただろ? 音楽が流れている間の二十分、労働階級の国民は歩かないといけない決まりがある」
「労働階級って、あの赤ジャージのことか?」
「ああ、そうだ」
「無理にでも歩かせないと、身体が弱っていくからな」
「もうアイツらは手遅れかもしれないぜ。走って転んだら起き上がれないんだぞ」
「皆んなそんなもんだ」
「だらしねえなあ」
「アウターの君とは違う。じゃあ、おれもちょっと歩いてみるか」
 おれたちはスクーターを押しながらブラブラ歩いた。
「国民は外にも出ないで何をしてるんだ」
「これだよーー」チョビ髭は眼鏡デバイスを指差して言った。「住めばわかるさ。これだけですべては事足りるから」
「でもチョビ髭は赤ジャージの奴らより丈夫じゃないか。どうして彼らほど弱くなっていないんだ?」
「おれも君と同じアウター出だからな。アウター出じゃなかったら軍や警察の仕事には就けないよ」
「なんだよ、アウターって? さっきから使っているが」
「なんで君はアウターなのにアウターがわからないんだ? 君はこのドームの外の住民だろ? それがアウターに決まってるだろ」
「じゃあ、ドームの中の住民はインナーか?」
「それは言わない。アウターはおれたちのことを憧れの存在として見ているだけだ」
 検査所にはすぐに着いた。数分ほどの道のりで運動にもならない。検査所といっても建物の外観は他の建物とまったく同じで特別な感じはない。建物に入り、ジジイの部屋までチョビ髭が連れて行ってくれた。
「じゃあ、所長はこの部屋にいるから、君はこの部屋で説明を受けてくれーー」チョビ髭はおれの顔をしみじみと見つめて言った。「なんか君のような濃いアウターに会ったら、久しぶりに昔のことを思い出したよ」
「アウターに戻りたくなったか」
「絶対戻りたくない。やっぱりここがいいよ」
「どうして?」
「安心、安全、便利、快適、愉快だから」
「ツマらねえこと言うなあ。そんな生ヌルいこと言ってるから弱っちいんだよ」
 おれはチョビ髭の胸を拳骨でドンと一発突いてやった。
「ウッーー」チョビ髭は胸を押さえて大袈裟にうずくまった。「君、少しは手加減しろよ」
「手加減しただろ。幼稚園児をジャラすのと同じレベルだぞ」
「お前は生命力が強そうだなあ。でも気をつけろよーー」チョビ髭が声を潜めた。「おれたちは常に見張られているんだ。規範を超える行動を起こすとポックリ病に罹るから」
「ポックリ病? ポックリと逝く病気か?」
「そうだ」
「ヘッ、おれも早くポックリ逝きたいものだ」
「冗談じゃないんだぞ。お前のことを心配して言ってるんだ。この国ではすべての国民の命はコントロールされているんだから」
 チョビ髭はクソ真面目な表情でそう言って立ち去っていった。
「ポックリ病か・・・・」
 チョビ髭の薄気味悪い言葉が心に残った。あまりこの国に深入りしない方がよさそうだが、この検査所以外どこへ行くアテもないので入るしかない。
「所長、失礼するぜ」
 大声で言いドアを開けた。
「おっ」
 所長はこちらを見ることなく素っ気ない返事をした。パソコンに向かって何かカチャカチャやっている。検査所というからには大勢の検査員たちと試験管でも揺すっているのかと思ったが、室内は機械が並んでいるだけで所長以外誰もいない。
「所長さん、忙しそうだな。そんなに仕事ばかりしていたら馬鹿になるぜ」
 おれは所長の横にあった椅子にドンと腰を下ろして言った。
「今は労働時間だから当然だ」
「真面目なお仕事ぶり、ご苦労さんなこった」
 所長はパソコンの手を止め、おれの方へ顔を向けた。
「威勢のいいアウターだなあ。そりゃ、スカウトされるはずだ」
 所長の声は細くて力がない。死にかけた蝉でももう少し声が出る。
「所長、元気出せよ。ほら、肩でも揉んでやるから」
 おれは所長の椅子をクルリと回し、肩をマッサージしてやった。
「おい、おい、何するんだ。おい、コラ・・・・。あ、あ、あ、気持ちがいいなあ。何だ君、機械より上手じゃないか」
「当たり前だ、自分で自分の身体を調整できないと自然の中では生きていけない。背骨の状態、関節の可動域、筋肉の硬さ、いろんな微妙なファクターを手の平で感じて身体を調整するんだ」
「野蛮で無能な男だという印象だったが、意外と繊細で器用なところもあるんだなあ。ああ、気持ちがいい。こんなに人に体を触られたのはいつしかぶりだろう・・・・。いや、こんなこと記憶にないなあ」
「なんだよ所長、奥さんと喧嘩でもしたのかい?」
「妻なんかいませんよ」
「そうか、温厚そうな顔しているが離婚したのか。原因はどっちかの浮気か?」
「いや、ずっと独身だよ」
「まあ、そう気にするな。おれも同ンなじだ。誰かといればいたで面倒なことが多いもの。ちょっと肌寒いぐらいドッてことないから」
 おれは所長の肩にやさしく手を置いて慰めの言葉をかけたが、所長はハハハと笑って言った。
「君は何を言ってるんだ。この国でメスを求めるオスなんかいないよ」
「ん? どういうこと?」
「君のアウターの部落では、まだリアルに交わる文化があるんだな。ハハハ、古臭いなあ」
「じゃあ、どうやって子孫を残すんだ?」
「すべて人工授精さ」
「人工授精・・・・。そうか、だから精子提供なんだな。でも男は本能的に女を求めるものだろ?」
「リアル交尾以上にもっと愉しいこと、もっと気持ちのいいことはたくさんある。だからそんなもの誰も求めやしない。どだい人間同士が素っ裸で体液を交換し合うなんて、普通に考えて汚いだろ。変な細菌が自分の体にグチャグチャ付着してくるかと思うと、ーーああヤダ、ヤダ、気持ち悪い」
「ケッ、細菌なんて目に見えないものに怯えてどうする」
「無教養な奴だなあ。ミクロの世界にこそ命を揺るがす危険が潜んでいるんだぞ」
「そんな細かいこと言ってちゃあ、どうやって生活するんだ? プライベートもいつも一人か?」
「プライベートはもちろん、仕事でもほとんど一人さ」
「友達とか、仲間とかはいないのか」
「そんなものいるわけがない。時間がもったいないじゃないか。わたしたちの生は限られた時間でしかないというのに」
「時間がもったいないって、仕事以外のときは何をしているんだ?」
「もちろん、デバイスだよ」
 所長はテーブルに置かれた眼鏡デバイスを指差した。
「またデバイスか、チョビ髭と同じことを言うんだな」
「チョビ髭って誰だ?」
「警察官だよ」
「国民は皆んなそう言うさ。それと大切なのはドラッグ。興奮剤、快楽剤、陶酔剤、安定剤、抗鬱剤、睡眠導入剤、何でもある」
 ポケットから小さなスプレーボトル型のドラッグを幾種類も取り出して見せてくれた。
「どうやって使うんだ?」
「口を開けて喉にシュッと一吹きすれば効果はすぐにくる」
「ホオー」
 おれは感心したように言いながらスプレーを手に取り、悪ふざけに所長の顔にシュッと吹きかけた。
「コ、コ、コラ、クソガキ! もったいないことするな!」
 所長は精一杯の怒声をあげて顔を赤くした。手が小刻みに震えている。予想以上の反応でおれは笑ってしまった。
「ヒヒヒ、まあ落ち着きな。そんなに怒ったらインポテンツになるぜ」
 からかい半分にそう言うと、
「怒りの感情とインポテンツは関係がないだろーー」所長は他のスプレーを口にシュッと吹きかけた。「そもそもだな、この国ではインポテンツが大多数派、硬くなる方が異常だ。そんな芸当ができるくらいなら精子提供をしてポイントを稼いでいる」
「それもそうだな。で、いま口に入れたドラッグは何だ?」
「精神安定剤だ。ああ、落ち着いてきた」
 所長の目はトロンと下がり、顔の赤みも手の震えも収まった。
「だけどなあ・・・・、人生がそのドラッグで事足りてしまうというのは信じがたいなあ」
「やればわかるさ」
「ドラッグなんかどうだっていい。おれにとって大切なのは飯。どんな飯を喰わせてくれるんだ」
「もちろん食べ物も飲み物も、時間になったらきちんと支給される」
「この国の住民は何を食べてるんだ?」
「我々が食べるのはデリシャス・バー。見たほうが手っ取り早いから見せてやる」
 所長は壁にある『インボックス』と書かれた扉を開けて、そこから四角い薄茶色のお菓子のようなものを取り出した。
「必要なものは毎日、このインボックスから届けられるから」
「で、何だ、その茶菓子は?」
「茶菓子じゃない。これがデリシャス・バーだ。ビタミン、ミネラル、タンパク質、糖質ーー、体に必要なすべての栄養素がバランスよく、その人に合った分量で配合されている」
「旨いのか? 一口くれよ」
 おれがそいつを横取りしようとすると、所長はダメダメと大事そうに胸に抱え込んだ。
「何だよ少しぐらい、ケチくさい」
「これはわたし用のデリシャス・バーだ。わたしの遺伝子、毎日の便、尿、血圧を調べて、その日の身体に合ったものがこれなんだ。もちろん量も正確に調整されているから、君に食べられてそのバランスを狂わされたくない」
「本当に毎日それだけか」
「もちろん、一日三食これだけだ」
「一年三百六十五日か」
「そう、生まれてから死ぬまで一生の間な」
「ゲッ・・・・」おれはドン引きした。「他のものが喰いたいと思わないのか?」
「絶対に思わない。これが旨い。これが最高だ。これが健康に一番いい」
「おれがもっと旨いもの教えてやるよ。猪の脇腹の肉を火で炙って、塩振って食べたら最高だぜ」
「なんだ、それは、気持ち悪いーー」所長は眉をしかめ身震いした。「どだい、そんな変なものを口入れたら計算が狂うだろ?」
「計算が狂うって何が?」
「人生の計算が」
「人生の計算?」
「自分がいつ死ぬかってことだ」
「いつ死ぬって、そんなもの、明日死ぬかもわからないし、五十年後死ぬかもわからないし、そんなこと知らねえさ。そんなの計算できるわけねえじゃねえか」
「計算できるんだ。当たり前じゃないか」
「くっだらねえ」
「くだらない? 君は自分の死期を知らなくて不安じゃないのか?」
「不安じゃねえよ」
「信じられない能天気さだなあ。我々は遺伝子検査を受けているから、この先何年生きるか皆んな知っている。死ぬ日にちから逆算して生きるのは我々の常識だ」
「そんな占い信じたくねえよ」
「違う、科学だ。生まれたての赤子でも誤差は一週間以内、死の一年以内になると分単位で予測できる。君も検査したければしてやるよ。簡単な血液検査だけだ」
「いや、御免こうむる。知りたい気持もあるが、知りたくない気持ちの方が強い。おれは明日は何が起こるかわからない未知の状態のほうがワクワクする」
「変な考え方だな。きっちり計算された人生が送れるというのにもったいない。でも、君は猪の睾丸だっけ、脇腹だっけ? そんな変なもの食べるようだから、計算が毎日ずれると思う。スケジュールに沿った規則正しい生活をしないと検査しても意味がない」
「規則正しさにも度があると思うぜ」
「君もこの国の一員として今日から精子提供の業務に就くんだから、おのずと規則正しくなっていくはずだ。そうしないとポイントも貯まらないしな」
「ポイントって何なんだ?」
「その人の階級や仕事の成果、毎日のルーチンをこなしているかどうか、様々な評価基準から計算され、国民は月々ポイントがもらえる。そのポイントに応じて、ドラッグや時間と交換できるんだ」
「ポイントは金の代替品みたいなものか。じゃあ、その時間って何だ?」
「プライベートな時間のことだ。働く時間が短くなれば、その分プライベートの時間が増えるだろ。プライベートの時間はデバイスで好きなだけ遊べる」
「遊ぶってデバイスだけだろ?」
「もちろん」
「皆んな外には出ないのか」
「出る必要ないじゃないか。デバイスで事足りるのに外に出てどうする? さっきも言っただろ、あんまり余計なことをすると計算が狂うって。どうして寿命を短くするようなことを自ら好き好んでしなくちゃいけないんだ」
「じゃあ、階級が上がればどんな特典があるんだ?」
「階級が低いと部屋が狭いし、労働時間が長くなるし、ドラッグの量も少ないし、デリシャス・バーも味が悪いし硬い」
「味が悪いってどういうことだ?」
「味を調整する”旨味エッセンス”というのがある。階級に応じて旨味エッセンスの量が違うんだ。旨味エッセンスが多く入っていれば入っているほど味がよくなるんだよ」
「そんなもので複雑極まりない味の世界を結論づけていいのか」
「科学の粋を極めれば、物事の真実は意外に単純なものなんだよ」
「ああ、そうかい。じゃあ、食べ物の硬さってのは?」
「階級が上がると、硬いものを食べなくてもよくなる。噛まなくてもいいほどにな。噛むって面倒だろ」
「噛めば噛むほど味が出るってものもあるだろ」
「そんなものはここでは流行っていない。要は旨味エッセンスなんだから」
「なんでも旨味エッセンスなんだな。じゃあ、旨味エッセンスをそのまま飲めよ」
「物事には過剰というのがある。過剰と不足のバランスはデリケートな問題なんだ」
「わかったよ、食い物のことはもういい。階級のことを訊きたい。階級ってやつは、どうやって上げていくんだ? そのしくみはどうなってるんだ?」
「階級は、国民の七十%は単純労働者でE階級。その上が警察や軍の肉体労働者でD階級。その上がエンジニアや科学者でC階級。わたしがそのC階級だ。B階級はコンピューターのシステムを作っているようなスーパーエンジニア。A階級はゴウ族の世話をする執事。君はまだゲストクラスだからF階級、だが特別な仕事だから待遇はD階級だ。真面目に生活してポイントを稼ぎ、審査に通ればD階級の仕事に移ることもできるだろう」
「いや、おれはA階級でいいよ」
「それは無理だ。A階級はエリート中のエリートで、ゴウ族に認められた特別な国民しかそこへはいけない」
「そのゴウ族って何だよ。よく聞くが」
「ゴウ族の方々は、階級では語れない特別な存在だ。気まぐれに下界に遊びに来られたゴウ族の方を偶然見かけることがあるかもしれないが、我々一般人はまず会うことはない。だからゴウ族のことは、A階級以外の国民は彼らの生活についてまったく知らない。もちろんわたしも。また知ろうとすれば、スパイ容疑で逮捕される恐れがある。だから国民皆んな多くは語りたがらないんだ」
「ゴウ族とは要するに『坊っちゃん』『嬢ちゃん』ってことか。じゃあ、さぞかしお上品な人たちなんだろうな」
「いや、それがそうでもないんだーー」所長は声を潜めた。「上品を通り越して野蛮に行き着いているようにも見える。だから君を最初見たとき、ゴウ族の方が下界に遊びに来られたのかと思ってビックリしたんだ。まさに君とそっくりなんだ。歯が抜けていて、動物の毛皮を着て、無礼で、暴力的で、今こうして見ていてもゴウ族のようでちょっと怖い」
「何だよ、おれの悪口が言いたいのか」
「いや、君の悪口じゃなく本当のことなんだ」
「でもそんな権力者が何で歯が抜けているんだ。歯の治療ぐらいすりゃあいいじゃないか」
「彼らは硬いものを食べなくてもいいから歯抜けでも困らない。だから歯抜けにするのが流行っているようなんだ。まあ、彼らの生活を見たわけではないからよく知らないけどな」
「動物の毛皮ってのは何だ?」
「野生の動物はドームの中はもちろんいないし大陸にもほとんどいない。すごく貴重なもの。そんな貴重なものを持っているというステータス意識だな。君のその服は本当にスゴイよ。でも、君は自分の部屋に戻ったら、与えられた服を着て行動しないとダメだぞ。違反するとポイントが減点されるから」
「このちゃんちゃんこは朋友の形見、そうやすやすとは手放せないさ」
「朋友の形見? もう死んでいるんだろ」
 所長は呆れた表情をして言った。
「何だよ、おれの亡き朋友に向かってその薄情な言い方は。死んでいるからこそ大切な存在であり、余計身近に感じるものじゃないか」
「変な信仰を持っているんだなあ、ハハハ」
 所長は小馬鹿にするように笑った。
「じゃあ、この国では身内や仲間をどうやって弔っているんだ?」
「身内? 仲間? 人工授精で生まれたから親の顔は知らないし、デバイスで遊ぶから仲間なんかいない。この国はシステムで回っているから他人と繋がる必要もないしな。だから”弔う”なんて一切しない。死んだら死体は生ゴミ、発酵させて肥料になる」
「ケッ、ドライだな。スーパードライなのに酔えない。そんなんじゃ心が干からびるぜ」
「陶酔剤があるさ」所長は一本のドラッグをポケットから出した。「あ、でも、まだ仕事の時間だ。ここで酔っちゃあいけない」
 所長はドラッグをポケットにしまい、パソコンを見ながらまたカチャカチャやり出した。
「あ、そうだ。君の名前は・・・・」
「イエティだ」
「イエティ? なんだそりゃ。そんな立派な名前を持てるのはゴウ族の方々だけだ。庶民は番号だけ。君の名前はだなーー、F1の99の794で登録しておこう」
「なんだそりゃ? それがおれの名前か」
「そう、F階級の1ランクで、建物が99棟、部屋番号が794だから。君の部屋はこの同じ建物の7階の94号室だ」
「名前が階級と住所そのままなのか? じゃあ、所長の名前は何だ?」
「私の名前はC5の99の112だ」
「C階級5ランクの99棟1階の12号室って意味か」
「そう、ここの場所だな」
「5ランクはC階級でエラいのか?」
「5ランクはCのトップだ。だから便宜上”所長”と呼ぶ者がいる」
「だったら所長でいいじゃないか」
「本名と仇名をゴッチャにしてもらったら困る」
「普段呼ぶときも、C5の99の112さんって呼ぶのか」
「そうだよ。でも人の名前を呼ぶ機会はほとんどない。人とのやり取りはデバイスを使うから」
「変な感じだな、自分の名前を忘れそうだよ。じゃあ、おれは今F1だが、どうやってF5にランクを上げたらいいんだ?」
「君の場合は精子の質と量だな。まだ検査前だからF1となっているが、検査次第ではF5になるかもしれんぞ。でも、F5なんて見たことないからそれは無理だろうけどな」
「出世すれば名前が変わるのか・・・・。あれ? おれの名前はF1の99の7の・・・・、それから何だったっけ?」
「794だ。自分の名前を間違えたら部屋に入れないぞ」
「ああ、わかった。この国のことは十分わかった。もうわかりすぎた感じだ。じゃあ、もうおれは行くぜ。ゴチャゴチャ言われて頭が痛くなってきた。あ、そうだ、腹が減ったらどうするんだっけな・・・・」
「部屋のインボックスの扉を開ければ、その日の分が入っている」
「お代わりは?」
「ない」
「風呂は?」
「部屋に自動身体洗浄機があるから、そこに一分突っ立てるだけでいい」
「洗濯は?」
「着た服をアウトボックスに放り込めば、次の日には洗ってきれいになってインボックスに送られてくる」
「歯磨きやヒゲ剃りは?」
「こまごましたことは部屋にいる執事ロボットに言えばいい。すべてやってくれるから」
「便利なこったな。じゃあ、もう行くぜ」
 おれが検査所を出ていこうとすると、
「ちょっと待った。大切なこと、仕事のこともデバイスのこともまだ説明していない」
「まだ、あるのか? 面倒くせえなあ」
「きちんと仕事をすればポイントが貯まり、ご褒美にドラッグがもらえる」
「さっき聞いたよ。おれはドラッグなんか要らねえからいいんだよ、そんなこと」
「おかしなことを言う奴だなあ。ドラッグなしに君はどうやって自分の精神を正常に保つつもりだ」
「普通にしていりゃいいだろ」
「普通に? 普通じゃあ狂うだろ?」
「狂わねえよ」
「君は人間の弱さをまったく知らないんだな」
 所長は呆れたように言いながら、また口にスプレーをシュッと一吹きした。
「今、何したんだ?」
「少し疲れてきたら興奮剤を服用した」
「興奮してきたか?」
「ああ、身体が熱くなってきた」
 所長は充血した目をカッと見開いた。
「すぐに効くんだな」
「それはいいとして・・・・。君の相棒、さっき注文したからもう届いているはずだが」
 所長がインボックスの扉を開けると、水中眼鏡となにやら機械が入っていた。
「これが今日から君の相棒となるデバイス」
「相棒ねえ・・・」
「このデバイスは君専用、F1の99の794ってシールが貼ってあるだろ。壊さないようにな。それとこの機械、君の労働を手助けしてくれる”精子搾り機”だ」
「精子搾り機・・・・」
 外観はガンダムの褌のようである。この機械を下半身に装着した自分の姿を想うと滑稽でもあり悲劇的でもある。
「装着すればデバイスの映像とリンクして、コイツが心地よく迅速に精子を搾り取ってくれる。搾り取られた精子は自動的にカプセルに入れられるから、それをアウトボックスに入れてこちらへ送ってくれればいい。できれば一日一回だけじゃなく、二回は頑張って欲しい」
「本物の美女が使用できるんなら十回だって出してやるぜ」
「そんなに無理しなくたっていいさ。精子が薄くなるだけだから」
「そういうことを言いたいんじゃない。おれが言いたいのは本物を用意しろってこと」
「本物なんかよりも、性病も体臭も後腐れもないバーチャルの方がいいに決まってる。やってみればわかる。すぐに気に入るから」
「そんなものかなあ・・・・」
「この世の現実のツマらなさぐらい、ちょっと生きていればわかるだろ。バーチャルは現実を超えた理想郷、そしてドラッグは心を潤わす幸福の素。この国では、人生はバーチャルとドラッグなしでは考えられない」
 所長は時計をチラと見た。
「あっ、喋りすぎた! 五分四十五秒もオーバーしているーー」後悔の表情を浮かべ、また口にドラッグをシュッと吹きかけた。「説明は以上だ。あとは全部デバイスか執事ロボットに訊いてくれ。何も困ることはないから」
 椅子をクルリと回してパソコンに向かい合った。
「今吹きかけたドラッグは何だ?」
「もう時間オーバーだから説明しない。スケジュール通りに動かないと人生の予定が狂ってしまうから。ーーじゃあな」
 所長はおれに背を向けた状態で手を振った。なんと冷たい奴だ。嫌がらせにずっとここに居座ってやろうかとも思ったが、何だか疲れたので奴のお望み通り部屋から出てやった。
「フー」
 廊下に出て深く一呼吸。
「さて・・・・」
 廊下はシンとしていて人気がない。廊下に沿って整然とドアが並んでいる。それぞれの部屋の住民はどんなナリをして、何をなさっている人だろう。一部屋一部屋ノックして、出てくる奴の間抜けズラを見てやろうかとも思ったが、廊下のところどころに小型カメラが監視していたのでその気持ちを抑えた。大人しく部屋に行くか。七階まで階段で上って運動しようかと思ったが、階段はなくエレベーターしかなかったので運動もできない。この建物の設計士もきっと虚弱体質なのだろう。虚弱体質ゆえに階段を使って上り下りする住民の姿を想像すらできなかったに違いない。
『794』
 部屋の前に来た。
ーーここがおれの住居か。
 ドアと部屋番号を眺めていると昔のことを思い出した。山中をうろついていたとき、大地がえぐれたような穴があったので、何気にそこに潜り込んだ。そしたら穴の中に熊が寝ていて添い寝状態になり焦った。熊が熟睡していたのでおれは頭をかじられずに脱出できたが、なんともスリルある体験ができた。この部屋も、ドアを開けたら熊が出てくるぐらいの演出をして欲しいものだが、階段も作れない無能な設計士だから、そんな気の利いたことは絶対にできないだろう。
 無造作にドアを開けた。
「ごめんさい」
 カン高い裏声を使って無人の部屋に挨拶をした。中は真っ暗だったが、何もしないのに明かりがつき室内が見渡せた。ベッドとテーブルと椅子、それだけの殺風景な白い部屋である。ドアの隅に、なぜだかお地蔵さんのオブジェが一体、無言で手を合わせている。こういうオブジェは嫌いではない。おれは、手に持っていたデバイスと精子搾り機をベッドに放り投げ、まずお地蔵さんに手を合わせた。
「今日からこの部屋でお世話になります『イエティ』と申します」
 その瞬間、お地蔵さんの切れ長の細い目がピカッと光り、
「初めまして、ぼくはご主人さまの執事を務めます『八郎』です。よろしくお願いします」
 かわいい幼児声で喋りだした。おれはその想定外の反応にギョッとなって数歩後退りした。お地蔵さんとはなかなか洒落た演出だと思ったが、コイツの正体はお地蔵さんの形をした小賢しいロボットだった。黙って突っ立っていればそれでいいのに、ペラペラ喋ってきやがるのかと思うとなんとも煩しい。
「八郎? おれは執事なんか必要ない。今すぐ出ていってくれ」
 おれはお地蔵さんを睨みつけながら吐き捨てるように言った。
「ご主人さま、ぼくはあなたの身の回りのお世話をするロボットです。何でもお申し付けください、ウフフ」
 なかなか図々しくプログラミングされているようで一歩も引こうとしない。表情を変えずに笑い声まで出してきやがる。
「何度も言わせるな。出ていけって言ってるだろ」
「ぼくは何でもできますよ」
 地蔵は合掌している両腕以外にも、もう四本腕があり千手観音のような造りになっている。頼んでもいないのに、その六本の腕を広げてユラユラと踊りだした。私はこんなに器用なことができますよとアピールしているつもりか。六本の腕を実際に動かされると昆虫みたいで気持ちが悪い。あまりに鬱陶しいので丸い坊主頭をひっ叩いてやろうかと思ったが、顔がお地蔵さんなので罰が当たりそうで叩きづらい。コイツは顔で得をしている。
「ハゲ、もういい」
 おれが踊りをやめるよう命令すると、
「ハゲではありません。八郎です」
「どっちでもいいんだよ。ハゲ郎」
「ハゲ郎ではありません。八郎です」
 ロボットなので際限なく言い返してくる。こっちは新しい環境に放り込まれて疲れているというのにいい加減にして欲しい。
「頼む、黙ってくれ。おれはもう寝る。電気を消してくれ」
「お疲れのところ大変申し訳ありません。現在、時間は七時二十分。スケジュールについてご説明致します」
 ロボットは人間の感情が読めないようで、どこまでも自分のペースを貫こうとする。
「だから、何なんだよ・・・・」
「七時半から食事の時間、食後は自由時間となっております。その間にお風呂に入ってください。就寝は十時です。十時からは電化製品がすべて使えなくなります。就寝前には歯を磨いてください。今日の予定は以上です」
 短い説明で終わってくれてよかった。長かったらその能面ズラを蹴飛ばしていただろう。
「じゃあ、飯を出してくれ。腹が減った」
「あと三分お待ち下さい」
「三分ぐらいどうにかしろよ」
「あと二分五十七秒お待ち下さい」
 ここらへんは細かく融通が利かない。他のことをしながらであれば三分なんてすぐに経つのだろうが、小憎たらしい地蔵と無言で向かい合っていると時間が異様に長く感じる。時間になった瞬間、壁のインボックスの扉の上の緑のランプが光った。扉を開けるとデリシャス・バーが白い皿に三本置かれていた。
「これだけか・・・・」
 侘しい夕食だが、ないよりましと思うしかない。持ってみると見た目よりズシリと重たい。一体原料は何なんだろう? 正体がまったくわからないので気持ち悪くもある。地蔵はテキパキと動き出し、棚からポットとカップを取り出しテーブルに置いた。
「八郎、お茶か何か持ってこいよ」
 注文をつけた。
「残念ながらご主人さまはまだF1階級です。お茶が飲める身分ではありません。白湯をお飲みください」
「下っ端扱いしやがって、この野郎・・・・」
 屈辱を味わわせて上昇志向を持たせようという権力者の思惑があるのだろうか。しかし山暮らしをしているおれの普段の生活は白湯ばかりだったからお茶なんぞなくても平気だ。くだらない競争に巻き込まれるだけの上昇志向なんて持ってたまるか。
 おれは白湯をズズズと一口すすった。とにかく腹が減った。何でもいいから「頂きます」だ。デリシャス・バーにかぶりついた。所長の説明では、下っ端のデリシャス・バーは硬いと言っていたが、おれにとって全然硬くなかった。むしろもっと噛みごたえが欲しいぐらいだ。味は木の実のような、穀物のような、いろいろ混ざっていて表現しづらい味である。飛び上がるほど旨いわけでも飲み込めないほどマズいわけでもない。ジジイは”旨味エッセンス”などとほざいていたが野獣の肉の方が断然旨い。そういえば、個人の体調に合わせて栄養を調整していると言っていたが、そこのところはどうなっているのだろう。
「おい八郎、このデリシャス・バーはおれの体調を計算して栄養素が配合されているんだろうな」
「いえ、それはゲスト向けのスタンダードです。ご主人さまはまだトイレに行っていません。トイレに行けばその排泄物から体調を検査し栄養が調整されます」
「スタンダードね・・・・」
 三本のスナックなんぞ、あっという間に平らげてしまった。食べ終わった後の満足感は何もない。ただ空腹をうっちゃったというだけだ。
「さて・・・・」
 食事が終わってからは何をすればいいのか。洗い物もしなくていいし、翌日の準備もしなくていい。楽なことこの上ないが時間をどう使えばいいか・・・・。ベッドの上のデバイスと精子搾り機が目に入った。要するにコイツで遊べというのだろう。しかし迂闊に使うと罠に嵌められるような気がする。おれは好奇心旺盛なのでいろいろイジくり回したい気持ちだが、ここは焦らず距離をおきたい。
「もう寝るぜ」
 ベッドに寝転ぶと、
「お風呂に入ってください。それと歯磨きも」
 地蔵は教育ママのような小うるさいことを言ってきた。確かに風呂に入ってスッキリし歯磨きもしたい気持ちだが、コイツの言いなりにはなりたくない。
 地蔵を無言で観察した。六本の腕が器用に動くし、手の五本の指の関節も自在に動く構造なっているようだが、なぜか足はキャスター型の車輪で二足立ち歩行ではない。二足立ち歩行すれば階段の上り下りもできるのにどうしてだろう。人工的な建物はすべて平面だから車輪の方が便利なのだろうか。しかし地蔵をいくら観察しても所詮無機物なので変化が起こらなくて退屈である。
「八郎、ちょっと来い」
 おれは暇を持て余し地蔵を呼び寄せた。
「何でしょうか、ご主人さま」
 地蔵がスーッと目の前にやってきた。
「手を上げろ」
「はい」
 脇をくすぐった。
「コチョ、コチョ、コチョ」
「ウフフやめてください、くすぐったいです」
 地蔵は表情を変えず笑い声を上げ白白しい言葉を吐いた。いたずらをしてもまったく面白くない。
「もういいよ、あっちに行ってくれ」
「ご主人さまの意地悪」
 馴れ馴れしいことを言って離れて行った。
「ああ、面白くない・・・・」
 地蔵を触るぐらいならゴキブリを触っていた方がマシだ。おれはベッドに横になり目をつぶった。すぐに眠くなりウトウトしてきた。
「ご主人さま」
 地蔵はおれを揺り動かした。
「なんだ・・・・」
「お風呂と歯磨きをしてください」
 まだしつこく言ってくる。執事ロボットとは言うものの、結局コイツの言いなりになっていたら、どっちが『主』でどっちが『従』なのかわからない。ここのところは最初のうちに徹底的に教育しておかなければならない。
「八郎」
「何ですか、ご主人さま」
「おれは主人だ。そしてお前は執事だ。どっちが命令しどっちが従うか、わかるか?」
「もちろんです」
「じゃあ、おれの言うことを聞け。ーーまず黙れ。次に電気を消せ。おれは寝る。以上」
 おれはベッドにゴロンと仰向けに寝転んだ。しかし地蔵はおれに近づき話しかけてきた。
「ご主人さま、お風呂に入らないとダニが湧きますよ。歯を磨かないと歯周病になりますよ、ウフフ」
 そこでおれはブチ切れた。
「コラッ! 命令してくるなって言ってるだろ!」
 地蔵の頭を平手で引っ叩いてやった。
「モー、暴力はやめてください」
 地蔵の切れ長の目がチカっと光り、クルリと後ろを向いて何をするのかと思えば、「ブー」と尻からガスを噴射した。
「へ?!」
 意表を突く攻撃だった。このガスの臭いことといったら反吐が出そうだ。おれは毛布を頭からかぶって鼻を摘んだが、そんな半端な防御では耐えられそうにない。
「八郎、悪かった。いますぐ風呂に入るし歯も磨く。その代わりすぐにこのニオイをなんとかしろ。息ができない。苦しい、ウエー」
「わかりました。ご主人さま」
 しばらくすると、部屋に空気吸引ロボットがやってきてニオイを吸い取ってくれた。
「フー」
 息ができるようになった。おれは地蔵を恨みがましい目で見つめた。コイツは地蔵のナリをしてかわいい声を出すが、本性は熊よりも危険だ。コイツとの付き合いは慎重にしなければ・・・・。今日のところは抵抗を諦め大人しく風呂に入ることにした。
「着替えるからこっちを見るなよ」
「はい」
 地蔵はクルリと背を向けた。別に見ようが見まいがどうだっていいのだが、こういうところは素直に従う。ちゃんちゃんこ、服、ズボン、下着を脱いだ。これらの汚い服をいつ洗ったか思い出せない。自分が見ても汚いのだから、他人が見たら目を背けるほどだろう。
「八郎、これは洗濯しておいてくれ」
 ちゃんちゃんこだけはベッドの上に敷き、服とズボンと下着を地蔵に放り投げた。汚い服は洗濯サービスに任せるが、鹿の皮のちゃんちゃんこは自分で手入れしなければいけない。
 裸になって洗面所の”自動身体洗浄機”に入った。最初温かい蒸気で蒸してくれ、次に洗剤が上から垂れてきて回転ブラシで体の隅々まで洗ってくれる。最後にジェット噴射のお湯でアブクを洗い流して終了。ものの三分ぐらいだ。せっかちのおれにとってこの機械は実にありがたい。
「ああ、すっきりした」
 体から湯気を上げなら身体洗浄機から出てくると、地蔵が六本の腕を使ってタオルで素早く濡れた体を拭いてくれた。
「寝間着をお着せします」
 次に地蔵は清潔なパジャマを着せてくれた。パジャマなんていう洒落たものを着るのはいつしかぶりだろう。おれは年甲斐もなく嬉しくなった。
「八郎君ーー」甲斐甲斐しく振る舞う地蔵がいじらしく見え、おれは”君”を付けて呼んだ。「歯磨きも頼むよ」
「はい、ご主人さま」
 おれは口を開けているだけでいい。地蔵がゴシゴシ洗ってくれ、コップの水で口をゆすぐだけでいい。すぐに終わった。
「ご主人さま、本日の予定はすべて終了でございます。それではおやすみなさい」
 地蔵は丁寧な挨拶をした。眠りを阻害され屁をコかれたときにはコイツをどう始末しようかと思ったが、使いようによってはすごく便利なものだ。ベッドに横になると何も言わなくても電気が消されて暗くなった。清潔で柔らかなベッドの上で寝るのは何年ぶりだろう。雨に濡れることも、冷たい風に当たることもない。なんと快適な環境だ。おれは疲れていたこともあって、小石がポチャンと沼に沈むように眠りに落ちていった。
「ーーおはようございます。ご主人さま」
 幼児声が聞こえた。おれは朦朧として自分が今どこにいるのかすぐにわからなかった。地蔵の顔を見て昨日のことを思い返し、あれが夢でなかったことを認識した。
「現在、時間は八時でございます」
「ああ、わかったよ」
 普段の山の生活では、朝は朝特有の空気と音があるのだが、この密閉された室内ではそれらのものが何もない。電気がついて明るくはなっているが、本当に朝なのか今ひとつ確信が持てない。
「ハーアー」
 おれは体を伸ばし、とりあえずトイレに行った。トイレの便座に座っていると、地蔵が歯ブラシとタオルを持ってきて、昨晩のように歯を磨いてくれ、濡れたタオルで顔を拭いてくれた。日常の些事が全自動でつつがなく進んでいく。トイレから出ると、
「ご主人さまの普段着でございます」
 地蔵は灰色の作務衣と部屋履きの雪駄を差し出した。
「作務衣か・・・・」
 懐かしい思い出が蘇ってきた。サバ大では入学時、紺の作務衣が二枚配られる。おれはその作務衣を交互に着て過ごした。冬は作務衣の下に股引を履き、上はダウンジャケットを着て防寒するのだが、それ以外の季節は作務衣だけだった。ほとんどの学生は作務衣を着るのは一年だけであとは私服になるのだが、おれは四年間作務衣を毎日着続けた。生地が薄くなって四年時にはとうとうズボンの股がパッカリと破れてしまい、おれは当時パンツを履いていなかったものだから、胡座をかくとキノコが顔を出してしまった。それでもおれはそれをギャグとして破れたまま履いていたのだが、ある日洗濯して干しておいたら、破れたところに布が当てられ修繕されていた。あれを直してくれたのは誰だったのか。多分、ギャートルが直してくれたに違いない。直しても恩着せがましく「直した」と言わないあたりが、ギャートルの心づかいだ。「ありがたい」以外に言葉はない。おれはベッドに置かれたちゃんちゃんこを見つめながらギャートルが裁縫している姿を想った。
「ご主人さまーー」
「ん?」
「作務衣を着用してください」
「わかってるよ。いちいちうるせえなあ」
 ギャートルの温かい記憶が断ち切られた。おれがパジャマを脱ごうとすると、地蔵も一緒になってボタンを外そうとする。
「いいんだよ。一人でできるんだから」
「お手伝いさせてください」
 ロボットはどこかサービス過剰なところがある。作務衣を着るとサイズはピッタリで布地も分厚く、おれが昔着ていたものより高級感がある。清潔な服を着たら、自分のワサワサの髪とヒゲ面が鬱陶しく感じてきた。
「八郎、鏡あるか」
「はい、持ってきます」
 棚から鏡を出しておれの前に掲げた。やはりむさ苦しい顔をしている。
「八郎、散髪してくれ」
「ご主人さま、本日の予定をご説明します」
 おれの命令を無視しやがった。
「散髪をしてくれって言ってるんだ」
 睨みを利かして恫喝したがロボットには通用しない。地蔵は予定の説明をし出した。
「現在の時刻は八時十分、朝食は八時二十分から、お仕事は九時スタートとなっております。食事の後の自由時間なら散髪ができます」
「わかったよ。飯の後、散髪してくれるんだな。だったら最初にそう言えよ、馬鹿野郎」
「馬鹿野郎はないでしょ、ご主人さま」
 地蔵の目がチカっと光り、クルリと背中を向けた。ーーもしや、また屁をコかれるのか。
「バカ、冷静になれ、八郎!」
 地蔵はスーッと前進してインボックスの扉に向かい、朝食を取り出しテーブルに置いた。怒ったわけではなかった。目が光ったのは何だったのか。まったくビビらせやがる。
 おれは昨晩と同様、デリシャス・バーを三本ボリボリと喉に通した。味が少しは変わるかと思ったがまったく同じ味だった。これが毎食続くのかと思うと食事の楽しみがない。
「失礼します」
 飯を食べ終えるとすぐに散髪ロボットがやってきた。流れるようにことが進む。
「どのようなヘアースタイルにしましょうか」
 散髪ロボットは壁をプロジェクターとして画像を映し、いろんなヘアースタイルのサンプルを提示してきた。スカしたモデルの顔が気持ち悪く、おれはコイツらのどれも真似したくなかったので、「スッキリしてくれ」とだけ言った。
「スッキリというヘアースタイルはありません。コレでよろしいですか」
 またスカしたモデルを映し出す。
「だから、どれでもないんだ。スッキリだ」
「スッキリはありません」
 話が進まない。
「スッキリ、サッパリしろって言ってるんだ」
「スッキリ、サッパリですね。かしこまりました」
 なぜかサッパリを付け加えたら話が通じた。
「おれは気が短いんだ。三分以内に終わらせろよ」
「かしこまりました」
 椅子に座って目を閉じた。後はすべて散髪ロボットにお任せだ。バリカンのガーガー豪快に刈り取る音がする。嫌な予感がしたが、モヒカンにされようがトラ刈りにされようが誰が見るわけでもないので、どうされたってかまわない。
「スッキリ、サッパリできあがりました」
 髭剃りも加えて本当に三分で終了した。いい仕事ぶりである。
「こんな感じに仕上がりました」
 散髪ロボットはおれの顔を鏡に映した。
「ん!?」
 鏡にはツルツルに剃髪された永平寺の雲水さんが映っていた。
「えっ、コレ、おれ?」
 青光りした頭を手の平で撫でた。髪がまったくない。確かにスッキリ、サッパリである。
「ハアー、そうか・・・・」
 おれはマジマジと自分の顔を眺めた。「スッキリ、サッパリ」というと坊主にされるのか・・・・。自分の僧侶姿を見ていると何だか笑いがこみ上げてきた。
「フフフ、それなりにサマになっている」
 散髪ロボットは鏡をしまうと、
「それでは失礼します」
 おれの感想を一言も聞かずに出て行った。なんだアイツはコミュニケーション能力というものがないのか。ロボットみたいな奴だ。いや、アイツはロボットか。誰かおれの変わりようを一緒になって笑って欲しい。
「おい、八郎ーー」仕方なく地蔵に声をかけた。「この頭、似合っているかい?」
「お似合いですよ、ご主人さま」
 全然面白くない感想が返ってきた。
「もっと何かないのかよ。ツマんねえなあ」
 おれは声を荒げて言った。
「ご主人さま、もうすぐ九時になります。デバイスと精子搾り機の装着をお願いします」
 地蔵はおれに取り合ってくれない。
「なんだよ、少し落ち着けよ。いま久しぶりに散髪してスッキリしたんだから、コーヒーの一杯ぐらい飲ませろよ」
「ご主人さまはF1階級ですので、まだコーヒーを飲める身分ではございません」
 地蔵はまたおれを下っ端扱いした失礼なことを言いやがった。蹴飛ばしてやりたくなったが屁をコかれたくないので我慢した。
ーー畜生、とうとうデバイスか。
 おれは水中眼鏡のようなデバイスを手にとって眺めた。こんな子供だましでおれも遊ばれるのか。デバイスを頭から被って装着した。
「ウワッ!」
 ビックリした。眼鏡の中にもうひとつの世界が広がっていた。おれは宇宙空間を漂っている。彗星がもの凄いスピードでおれの近くをビューンと通過していった。
「わっ、危ない!」
「ご主人さま」
 地蔵の声が聞こえ映像が切れた。レンズ越しに地蔵の顔が見える。
「おい、スゴイことになってるぜ。宇宙に来ちまった」
 おれは興奮して言った。
「それはオープニング映像です。まず使い方をご説明します。『設定』と言ってください」
 地蔵はおれの興奮に一切乗ってこようとせずいつもの冷淡な調子で言うので、おれも通常の冷静な意識に戻った。
「設定」
 おれが言うと、目の前に『冒険、旅行、散歩、戦争、恋愛、スポーツ、狩猟、アダルト』と文字が出てきた。
「ご主人さまのお仕事は精子提供ですので『アダルト』と言ってください」
「アダルト」
 するとズラリとメニューが出てきた。
『女性のタイプ、人数、シチュエーション』
「なんだコレは!?」
「ご主人さまのリクエストを言ってください」
「ああ、わかった。八郎、おれはもう使い方がわかったからお前はもう引っ込んでてくれ。一人でできるから」
「かしこまりました」
 地蔵はおれの前から退いた。おれはまず『人数』というところに着目した。どのくらいまで多人数いけるのだろう。
「千人で頼むよ」
 無理なことを言ってみた。パッと南国リゾートのプールサイドのデッキチェアーの上に飛んだ。青空の下、プールには水着姿の美女たちが人種を問わずウジャウジャいる。多分千人いるのだろう。彼女たちはおれに、「ダーリン」と甘い声で言い笑顔で手を振ってきた。なんということだ、こんなことがあるのか、おれは皇帝にでもなったのか、ウハハッ! 興奮を一人で抱えきれず、デバイスを外して地蔵に言った。
「お、おい、八郎、スゴイことになってるぞ。美女だらけだぞ。しかもプリンプリンの」
「ご主人さま。デバイスを外さなくても、『切り替え』と言えば、レンズ状態になりますし、『半切り替え』と言えば、映像が薄れ周りも見えます」
 地蔵はあくまで冷静だった。
「ああ、わかったよ」
 おれはすぐにデバイスを装着した。
「ヒャー、すごい世界だ!」
 興奮して大声を上げると、変に冷めた地蔵の声が聞こえた。
「それは人工的に作られた世界です。リアルではありません」
 感情が伝わらない奴と話してもツマらない。
「お前とは喋らない」
 おれは地蔵に背を向けてデバイスのバーチャル世界に没頭した。美女たちが一人二人とおれのところに近づいてくる。そこでパッと映像が切れて地蔵の声が聞こえた。
「ご主人さま、精子搾り機を装着しましょう」
「何だよ、勝手に消すなよ、この野郎!」
 荒れるおれを無視するように、地蔵はおれのズボンとパンツを下ろし、精子搾り機を装着してきた。おれは介護を受けている老人のようである。精子搾り機を装着すると、股間は温かい軟体海洋生物に包まれたような、何ともいえない奇妙な感じがした。
「うつ伏せでも、横向きでも、立ってでも、好きに使えます。性感帯刺激機能以外にも、前立腺マッサージ機能もついています。それでは、お仕事頑張ってください」
 またパッと映像に切り替わった。現実の世界の地蔵の顔を見ると冷水を浴びせられたような気持ちになるが、バーチャルの世界に入って美女たちの大群を見るとすぐに興奮してきた。一人、二人と美女がおれの元に近づき、それどころか美女の群衆がおれを取り囲み、ウフフと微笑んでビキニをゆっくりと外し出した。
「えっ、いきなりそうくるの?」
 ここまで多人数で同時にこられると一種の暴力にも感じられ、逃げ出したい気持もないわけではなかったが、おれは彼女たちに敢然と立ち向かった。
「おれの武器は一本しかないから、一人づつでお願いしますね。カモーン」
 おれの上に一人の美女が乗っかってきた。それに合わせ精子搾り機がおれの股間をヌラヌラと刺激してくる。映像と機械がリンクし見事なコンビネーション攻撃である。所長ジジイが現実よりもバーチャルのほうがいいと言っていたが、その言葉の意味が精子搾り機を使用して三分で理解できた。おれはテクノロジーが作り出すバーチャル世界に一切抗うことなく、第一弾の”我が子孫”はあっけなく搾り取られてしまった。
「ご主人さま、お仕事ご苦労様です。使い方のご説明を致します」
 バーチャル映像がレンズに切り替わり、地蔵の顔が目の前に飛び込んできた。
「精子搾り機のこのボタンを押すと、採取された精子がカプセルに封印されて取り出せます。イキのいいうちに移送、検査、冷凍保存したいので、すぐにカプセルを取り出してアウトボックスに入れてください」
 地蔵は精子搾り機から精子の入ったカプセルを取り出し、アウトボックスに入れてくれた。おれは一旦デバイスを外し「フー」と一息ついた。これを仕事といっていいのだろうか。とりあえず白湯を飲んで気持ちを整えた。
「よし、第二弾の開始だ」
 おれはすぐにデバイスを装着し、バーチャル世界へ飛び込んだ。現実空間以外の非現実空間にこんなに愉快で広大な世界が広がっていることをおれは今の今まで知らずにいた。これを知ったからには徹底的にこの空間を冒険してやろう。おれは第二弾、第三弾と立て続けに精子カプセルを送りつけた。
 第四弾目に突入し、淫らな世界の中でうっとりと耽溺していると、突然映像に緑の電話マークが出てきた。『C5の99の112』とあり、所長ジジイの顔が映し出された。
「なんだよ」
 顔を歪めて不機嫌に言った。
「スゴイじゃないか、君」
「邪魔するなよ、お取り込み中だぜ」
「君にすぐに報告したいことがあるんだ」
「何をだよ」
「いいニュースだ。君の精子を検査した結果、今まで検査した中で、ダントツの優良精子であるという結果が出た。精子の数、動き、耐久性、どれも最高だ。君は本当にスゴイ」
「そうかい、そうかい、で、何かご褒美でもあるのか」
「ご褒美というか、階級がF1からF5に一気に格上げされた。君の名前は『F5の99の794』に変わったから」
「名前なんか何だっていいよ。じゃあ切るぜ」
「あ、それでな、ポイントもたくさんついたから、デリシャス・バーの味がよくなるぞ」
「何がデリシャス・バーだ。あんなものまったく旨くないぜ」
「昼ご飯から旨くなるから」
「デリシャス・バーはいいから、寿司かすき焼きか何か出してくれよ」
「そんな下品なものはない」
「じゃあ、コーヒーかお茶か何かもらえないかな。飲み物が白湯しかないんだが」
「ああ、いい飲み物が支給される。なんせ史上初のF5だ。旨みエッセンスが配合されたデリシャス・茶が飲めるぞ」
「デリシャス・茶? 旨みエッセンスなんておれは信じていないんだが」
「茶だけじゃないぞ。ドラッグも支給される。プライベートの時間も増えるから、それを使っていい時間を過ごしてくれ」
「おれはジャンキーじゃねえんだ。ジジイも中毒にならないよう気をつけろよ。じゃあな」
 電話を切った。
「フー、まったくいいところだったのに集中力を切らせやがって」
 バーチャル世界が再開されたが、ジジイの残像が頭に残りバーチャル世界に没入できない。気分が乗らない状態で美女が手招きしてきても、「何だ、お前は?」と空々しい気持ちになってしまう。そのとき、またパッと映像が止まってレンズ状態になった。
「ご主人さま、お昼ご飯の時間です」
「お、いいタイミングだ」
 おれはデバイスを外した。慣れない眼鏡の圧迫から解放され頭が軽く感じる。テーブルの上を眺めるとデリシャス・バーが皿にポツンと置かれていた。
「チッ、ご褒美は寿司じゃねえのか」
 おれは愚痴をこぼしながら機械的にデリシャス・バーにかじりついた。
「ん?」
 違う。何かが違う。味は同じだと思うが、なぜだか旨い。ボリボリと咀嚼していると口の中に唾液がジワーッと溢れてくる。おれは貪るように三本のデリシャス・バーを平らげた。これがジジイの言うところの”旨味エッセンス”の効果なのか。ここまで味を進化させるとは旨味エッセンスというのも侮れない。おれは皿に散らばったカスまでもきれいに舐めた。
「ご主人さま、デリシャス・茶です」
 地蔵が湯呑をテーブルに置いた。茶の色はあまり美味そうな色ではないし、匂いも格別しない。期待せずにズズズとすすった。
「なんだこれは、フー・・・・」
 深い吐息が漏れた。よくわからないがすこぶる旨い。おれは湯呑を両手で握りしめながら遠い目をして壁の小さなシミを見つめた。
「ご主人さま、食後にお茶と一緒にドラッグをすれば、もっと落ち着けますよ」
 地蔵がドラッグスプレーを渡してきた。これがジジイの言っていたご褒美か。スプレーの容器にはほんの少し液体が入っている。
「これは何だ?」
「幸福剤です」
「幸福剤ねえ・・・・」
 何も考えずにシュッと口内に吹きかけた。無味無臭。だが一分もしないうちに白い霧に包まれた幻想の世界に入り込んだような気持ちになった。おでこの斜め上から光が差し込んでくるのが見える。ーーああ、おれは何と幸せな男なんだ。椅子に座りながらポタポタと涙を流した。その状態でどれぐらい時間が過ぎただろう、地蔵の声が聞こえた。
「ご主人さま、そろそろ仕事を始めましょうか。晩御飯までのラストスパートです」
「昼飯を食べてから、どれだけ時間が過ぎたんだ?」
「二時間ちょっと過ぎました」
「二時間かあ・・・・」
「通常ですと、ひと吹きの効果は三十分ぐらいですが、ご主人さまは反応がよく、効果が強く現れたようです」
「そうか、そうだろうなあ・・・・。おれは山暮らしの男、薬物の穢れを知らない純粋な体だからなあ・・・・」
 何もやる気が湧かず、デバイスを装着する気にもならない。ただ椅子に座っているだけで満足である。
「ご主人さま、そういうときには興奮剤というドラッグもありますよ」
「何だそれは?」
 地蔵がまた別のドラッグスプレーを持ってきた。おれは興奮したい気持ちでもなかったが何となくシュッと口内に吹きかけた。
「ん!」
 一分もしないうちに体が熱くなってきて動き出したい気持ちになった。椅子にじっと座っていられない。急いでデバイスを着けてバーチャル世界に飛び込んだ。最初のメニューの画面で、『アダルト』の上に『狩猟』という項目があったので、何気に『狩猟』を選んだ。するとおれはサバンナの広大な大地にポッと立たされた。遠くにライオンの群れが見える。おれは手に槍を持っているようだ。恐怖もあったがライオンに近づいて行く。興奮で心臓が高鳴る。ライオンは三百キロ近くありそうなオスライオンだ。大きな顔でおれを睨みつけ、地鳴りするような低い声でガーと威嚇してきた。
「ご主人さまーー」映像が切れて地蔵の顔が現れた。「現在、労働の時間です。アダルトを見てください」
「この野郎、何を勝手なことしやがる!」
 おれは怒りを爆発させた。興奮剤が効いているので怒りが強大である。地蔵に向かって飛び膝蹴りを喰らわそうと飛びかかったが、地蔵は俊敏に動いて攻撃をかわし、おれは壁にぶつかって床に倒れた。しかし興奮しているので痛みを感じない。
「このハゲめ! ご主人さまをナメやがって」
 怒りはどんどん強くなる。
「ご主人さまーー」地蔵はジグザグに走りながら言った。「お言葉ですが、ご主人さまもハゲですよ」
「ハゲ?」
 おれは立ち止まり自分の頭を撫でた。そういえばおれは今日坊主頭にしたんだ。他人のことをハゲ呼ばわりできる立場ではない・・・・。いや、そんなことではない。
「お前がおれに興奮剤を勧めるからこういうことになったんだろ。自分の失態を棚に上げて、仕事しろだの、冷静になれだの調子のいいことを言いやがって。テメエのその能面ズラをぶっ壊されたいか!」
 そのときデバイスがアダルト映像にパッと切り替わり、一人のとびきりな美女が現れた。赤いドレスを身に纏った女の体は、胸がボンと飛び出し、腹はキュッと細く、尻はツンと上を向き、見たこともないようなセクシーな体型をしている。彼女は顔を寄せ、上目使いで囁くように問いかけてきた。
「どこに行ってたの?」
「ん? 何だ、君は・・・・」
「もうどこにも行かないで。ずっとここにいて」
 美女はおれをやさしく抱きしめてきた。
「うん、わかった・・・・」
 地蔵と喧嘩していたことがどこかに飛んでいった。興奮剤が効いているのですぐにオスとしての攻撃的な気持ちが高まり、おれは野獣のように、いや野獣以上に強引に美女の上に覆いかぶさった。精子搾り機がヌラヌラと作動して股間を刺激してくる。
ーー第四弾終了。
 休む間なくすぐに第五弾、第六弾、第七弾とバーチャル世界に没入した。
「ご主人さま、晩ご飯の時間です」
 地蔵の声がして映像が切れた。
「現在、時間は六時五十五分、本日の労働、お疲れ様でした。今晩の予定をご説明致します。七時から晩ご飯、十時に就寝でございます。お風呂と歯磨きをお忘れなく。以上です」
 おれの中の時間感覚がおかしくなっている。ついさっきデバイスを再開したように思ったがもう七時だ。このまま寝食を忘れてずっとバーチャル世界に没頭していたい気持ちだが度を過ぎてやり過ぎるのは危険だ。おれは地蔵に楯突くことなく、デバイスと精子搾り機を外しズボンを履いた。今日はどんな一日だったっけ・・・・、思い出そうにも情報が多すぎて思い出せない。それに一日中ずっと寝転んでいたためか腰が痛い。
 昨晩と同じようにデリシャス・バーを食べ、自動身体洗浄機で風呂に入り、地蔵に歯を磨いてもらった。散々デバイスで遊んだのに暇な時間ができたらまたデバイスがやりたくなった。十時までデバイスで遊んでいたが、突然電源が切れ真っ暗になった。就寝の時間のようである。暗闇の中、おれは考えた。
ーー夢の生活か・・・・。
 安全な場所で、美女と好き放題し、旨い飯を食べ、温かい風呂に入り、柔らかなベッドで寝る。昨日までの過酷な山の生活は何だったのか。どちらの生活がいいかと問われれば、もちろんこちらの方がいいに決まっている。が、何だろう、この虚しさは。何の充実感もない。それに薄氷の上で生活しているような危うさを感じる。
 おれは人生で眠れないという経験がなかったが、この晩はどうにも眠れなかった。体をまったく動かさなかったから眠れなくて当然か。おれは暗闇の中ベッドから這い出し、床で腕立て伏せをした。ハーハーと息遣いが激しくなってくると、地蔵が話しかけてきた。
「ご主人さま、寝られないのですか」
「何でもねえよ、喋りかけてくるな」
「睡眠導入剤がありますが服用しますか?」
 そういった類のものはすぐに耐性がつき、使っているうちに効かなくなるとよく耳にするが、取りあえず試してみたくなった。
「くれ」
 おれは地蔵からドラッグ・スプレーを受け取り、どこまで睡眠剤に抵抗できるかという人体実験も兼ねてシュッと口に吹きかけた。
「一、二、三、四ーー」
 五秒数える間もなく、ドンと背後から崖下に突き落とされるように意識を失った。
 翌日、翌々日、毎日判で押したような生活を送った。
『起きる、食べる、出す、出す、食べる、出す、出す、食べる、風呂、寝る』
 規則正しい生活ではあるが、決して他人には言えない不埒な生活である。が、精子提供者はおれ一人ではないはずで、同業者たちは皆おれと似たような生活を送っているはずだ。熟練者たちはどんな美意識と道徳をお持ちなっているのか。
 一週間はまたたく間に過ぎ去った。デバイスとドラッグ、この二つがあれば部屋から一歩も出ずとも愉快に生活が送れることがわかった。
 二週間が過ぎ、おれはバーチャル世界にハタと冷める瞬間が襲ってきた。
ーーこんなことやっていていいのだろうか。
 『恍惚と興奮』の裏に宿る『虚無と憂虞』がおれに背中にのしかかってきた。ドラッグを用いてそれらの闇を散らしてしまうのだが、闇はその存在が消えたわけではなく姿を隠しただけである。闇はさらに力を増強させて再びやってくる。そしてドラッグで散らすーー。そんなイタチごっこの罠のカラクリがわかっても尚、淫猥を貪りたい自分もいて、罠を見て見ぬふりして罠にかかる。おれは錯乱していた。
 三週間が経ち、とうとうおれは壊れた。密閉されたこの部屋にいることがどうにも息苦しくなり、デバイスを着ける気力が無くなってしまった。ドラッグを服用しても気力が続かない。さらに配給されたドラッグが底を尽くと対処療法すらもできなくなり、ベッドの上で大の字になって寝ているだけになった。そんな状態になっても地蔵は執拗に裸の女を見せてこようとする。
「もういい・・・・」
 女の尻が獣の尻とさして変わらぬものに感じる。当然か。所詮は同じ哺乳類である。
「どうした?」所長から電話がきた「毎日コンスタントに三本送ってくれていたが、昨日、一昨日と一本だけじゃないか」
「今日は、一本も、無理だな・・・・」
 おれは力ない声で告げた。
「元気がなさそうだなあ。ドラッグでもやって元気を出せよ」
「もう使い切ったよ・・・・。とにかく外に出たい。外の空気を吸って動き回りたいが、どうすりゃいいんだ?」
「それはできないなあ」
「なぜ? おれは初日に赤ジャージの奴らが運動するのを見ているぜ」
「君の場合はアウターだし、素行の評価が低いからな」
「素行? 誰が調べているんだよ」
「君の行動はすべて監視されているんだよ」
「監視・・・・」
 おれは地蔵の方をきっと見つめた。あの野郎が逐一報告してやがるんだな・・・・。ぶっ壊してやりたい衝動を覚えたが、アイツがいなければいないで生活が成立しない。日常生活の些事はすべて奴が担っている。
「クソ、ハゲの奴・・・・」
「落ち着けよ。そうやって暴れるから君は素行の評価が低くなるんだ」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「紫外線装置とルームランナーを送ってやるから、しばらく体力増強に努めたらいい」
「おれは天然の陽の光りを浴びて、天然の森の中を、天然の小鳥たちのさえずりを聞きながら歩きたいんだ」
「だから、それはできないんだ。できない理由は君の素行の問題だけじゃなく、国民全員ドームの外へは出られないんだ」
「出られる奴も中にはいるだろ?」
「ごく一部な。メンテナンス労働者とA階級の執事だけな」
「執事が外で何するんだ?」
「アウターのスカウトだ。君もスカウトされたから彼らを知っているだろ? 黒服、黒帽子の人たち。彼らはゴウ族のお墨付きだから外に出られる」
「じゃあ、おれがそのスカウトって仕事をやってやるよ」
「何を言ってるんだ。君はF階級、どんなに頑張ってもその仕事には就けない。もっとも外は大気汚染や放射線濃度が強くて、体を悪くする危険な仕事だしな」
「ケッ・・・・」 
 おれは喋るのが面倒になり電話を切った。
ーーということは、おれを拉致したビッグフットはA階級のエリートだったのか? そうだ、アイツに会えばいいじゃないか。おれがここに居続けなければならない理由なんか何もない。もうさんざん優秀な精子を提供したわけだし、何か報酬をもらっているわけでもないから自由に帰っていいはずだ。 
 スカウトマンのことを思い出したら少しやる気が出てきた。
「ご主人さま、紫外線装置とルームランナーが届きました」
「よし」
 おれは素っ裸になって紫外線を浴びながらマシーンの上を走った。ゼイゼイ息を切らして走っていると生きる意欲が戻ってきた。
「八郎、A階級の男に連絡を取りたいんだが」
 走りながら地蔵に言った。
「名前は何ですか?」
「名前かあ・・・・、知らねえなあ」
 おれはこのときになって、あの男の名前を聞いていなかったことに気づいた。
「名前を知らなければ連絡が取れません」
「足のデカイ男だよ。顔が大きくて、年の頃は五、六十か」
「名前を知らなければ連絡が取れません」
 地蔵は同じことを繰り返す。
「じゃあ、直に会いに行って探すよ」
「A階級のエリートは、下の階級の者と接触することが禁じられています」
「何だよ、接触を禁ずるって・・・・」
 走ったら頭の回転もよくなってきた。肉体を動かすことは大切だった。
ーー禁じられているとはいえ、直に会わなきゃどうしようもない。どうやって会いに行こう。奴は一体どこに住んでいるんだ?
 スカウトマンについて思いを巡らした。
「ご主人さま、もう一時間も紫外線を浴びていますよ。浴び過ぎは皮膚を傷めますから、もうやめましょう」
 地蔵がおれの行動にケチをつけてきた。イラッとしたが暴れると素行評価が下げられるようだからここは忍耐だ。
「うん、わかった。ちょっと汗を流す」
 自動身体洗浄装置で体をきれいにした。
「髪も少し伸びたようだから散髪呼んでくれ」
 三週間ぶりに頭をツルツルに剃り上げてもらったら頭が軽くなり視界が明るくなった。
「復活だ!」
 おれが雄叫びをあげると、
「ご主人さまーー」地蔵がデバイスと精子搾り機を着けてきた。「元気が出たら、お仕事を始めてください」
 すぐにバーチャル世界に放り込まれた。毎回ながらセクシー美女が現れ、艶かしく誘惑してくる。だが今おれはそんな気分ではない。
「向こうへ行け、シッシッ」
 おれは美女を追い払った。美女は憮然としながらも執拗におれに迫ってきた。
「あっちへ行け、クソ女、クソ、クソ!」
 散々に罵倒し足蹴にしてやった。女はさめざめと泣き出し部屋から出ていった。すぐにまた別の女が、尻が桃のようにきれいな形をした女がニッコリとやってきた。
「クソ女、クソ、クソ!」
 おれは鬼と化し桃尻娘も罵倒してやった。泣き出して部屋から出ていき、また別の女がやってきた。際限がなさそうだが、おれは来る女来る女を罵倒し追い払った。すると機械がおれの荒れた心を読み取ったのか作戦を変えて攻めてきた。次にやってきた女は今までとは違ったタイプで、タイの民族衣装を着た清楚な女である。どうやら彼女はリゾートスパのマッサージ師という設定らしい。
「お客様、マッサージを始めます」
 美人スパ・マッサージ師がおれの下半身の急所周辺のデリケートな部分を指圧してきた。彼女の指圧にリンクして精子搾り機が絶妙なマッサージを施してくれる。この新たな攻撃におれは平常心を失いそうになった。しかしおれは目を閉じて、“脱走”に関する思索を深め色欲を追い払った。
ーー散髪ロボットが入ってくる瞬間、部屋のドアが開く。そのときに部屋から脱走したらどうだろう。でも監視カメラがそこら中にある。じゃあ、所長の部屋に行く用事を作って一階に降り、ビルの玄関の扉を蹴り壊して外に出ればどうだ。でも、そこからどうやって執事たちに会えばいいんだ? すぐに警察に捕まりそうだ。それにあんまり無茶をすると、以前チョビ髭が言っていたポックリ病に罹る恐れがある。ここではデリシャス・バーしか口にできないんだから、そこに毒物を混ぜられたら一巻の終わりだ・・・・。
 ふと目を開けると、美人マッサージ師は着ていた薄手のカーディガンを脱いでいて肌の露出が多くなっていた。
「おっ・・・・」
 不覚にもおれの下半身はムクムクと反応してしまい、そうなると精子搾り機が一気呵成に攻めてくる。
「嗚呼・・・・」
 仕事をしてしまった。仕事をする気なんてまったくなかったのに仕事をしてしまった。だがこれ以上は絶対にしまい。おれは精子搾り機を外し素っ裸になって走った。バーチャル世界は深い森の中、走るスピードによって森の景色が変化していく。おれは森を、砂漠を、サバンナを、ツンドラ地帯を様々な場所を走り回った。
 そんなことで一カ月が過ぎていった。
「ご主人さま、今月分のポイントが振り込まれました」
 その日の朝、テーブルにドラッグが並べられた。走ってばかりでまったくご無沙汰だったが、久しぶりにブツを目の前にすると、脳みそから涎が滴り落ちてくるような気持ちになる。なんと人間とは弱い生き物なんだ。だがここで負けてはならない。
「見えないところにしまっておけ!」
 おれは地蔵に大声で命じた。朝飯を食べ終わるとすぐにルームランナーで走った。おれはハムスターを今後決して馬鹿にはしまい。狭い部屋に閉じ込められた者にとって”回し車”は、精神と肉体の安定を保つ上で、なくてはならない大切な道具だ。おれは早朝から、沈む夕日に向かって走った。現実は早朝の時刻だが、バーチャル世界では日が落ちるシチュエーションだ。
「ご主人さま、食後にデリシャス茶は飲まないんですか」
「それは旨すぎるから白湯を入れてくれ」
 おれはデリシャス茶に対しても鉄壁のガードを固めた。この国のシステムに安易に流されていたらどこまでも落ちていってしまう。地蔵がデバイスを強制的にアダルト映像に切り替えるまでおれは息を切らして走るつもりだ。そのときデバイスに所長から電話が入った。
「何だ?」
 おれはぶっきら棒に言った。
「ずいぶん頑張って走っているじゃないか。そんなに走っている国民はこの国では君以外に誰もいないよ。君の体力は無尽蔵だなあ」
 おれのルームランナー情報はすべてジジイに伝わっているようだ。この国にはプライバシーというものがまったくない。黙って妄想している頭の中だけが唯一のプライバシーのようだ。情報管理者はおれのケツの毛の本数さえも把握しているに違いない。
「走っちゃ悪いか」
「元気が出てよかったな。わたしがルームランナーを送ってやったおかげだぞ」
「おお、そうだよ。送ってくれてありがとよ。これでいいか。じゃあ切るぞ」
「まだ要件は何も言っていない。いいニュースを持ってきたんだ。ビッグニュースだぞ」
「ケッ、期待させておいて、どうせショーもないことだろ。予め言っておく。もうドラッグは要らない。おれは卒業したんだから」
「君はスゴイ意志の持ち主だなあ。そこだ、そういうところが認められたのかもしれない」
「だから何なんだよ。早く言えよ」
「今な、A階級の執事から連絡が入ったんだ。君に関するもっと詳しい情報が知りたいと」
「A階級から?」
「そうさ。夢のA階級からさ。君の精子の質についてゴウ族の方々が興味を持っておられるらしい。君の精子は超人的だからな。もしかしたら、もしかするとだよ、君はゴウ族の宮殿に招聘されることがあるかもしれないぞ」
「ということは、おれはA階級に出世するということか?」
「それはないと思う。君の野蛮な性格ではな」
「もしおれがA階級に出世したら、ジジイをC1に降格させてやるからな。今からおれに敬意を払っておいたほうが身のためだぜ」
「ハハハ、そいつは恐れ入った。そうなったら君におでこが地面にめり込むぐらい頭を下げるよ。だがな、今は調査段階、何も期待しないほうがいいと思うぞ。ゴウ族の宮殿にF階級の下っ端が招聘されるなんて考えられないから」
「だったら連絡してくるな、クソジジイ!」
 おれは罵倒して電話をプツリと切った。
「ご主人さま、お仕事を始めましょう」
 すぐに地蔵に精子搾り機を着けられた。毎日赤ちゃんがオムツを着けられるように機械を着けられているが、こうしたおれのカッコ悪い姿もいろんなところに映像や画像が出回っているのだろうか。そんな現実の理不尽さを忘れるためにも国民はバーチャル世界を必要とするのだろう。
 バーチャルのアダルト世界は毎度のごとく美女がお尻をフリフリして媚を売ってくる。
「ああ、ツマんねえなあ」
 飽き飽きした展開に不平を漏らすと、次々と女が交替していく。それでも「ツマんねえ、ツマんねえ」と繰り返していたら、男以上に筋肉質で凶暴そうな女が、白いタンクトップ、ボクサーパンツ、ボクシンググローブをつけた出立ちでおれの前に立ちはだかってきた。
「あなた、ツマんねえんだってね」
 女は眼光鋭く睨みつけ、フットワーク軽やかに牽制の素早いジャブを打ってきた。
「ハハハ、こいつは面白い」
 おれは寝そべった体勢だったが右に左に首をウィービングさせ女のパンチをかわし、隙のあった相手の腹に前蹴りを喰らわしてやった。女は苦しそうな表情をした。
「ヒヒヒ、何だその程度か。かかってこいよ、ゴリラめ」
 おれが挑発すると、女は左右のパンチを大きく振り回してきた。おれはベッドで寝そべった状態なので動きが限られている。上体を大きく右に向けた瞬間、ベッドからうつ伏せの状態で落ちた。
ーーゴン
 精子搾り機が床に叩きつけられる鈍い音がした。女はおれに馬乗りになって殴りかかってくる。しかしバーチャル映像なのでバシバシと音がするだけで痛くも痒くもない。おれが半身を起こしてニヤニヤ笑いながら向かい合うと、女はグローブを外し素手になった。素手だろうがグローブだろうがバーチャルだから同じこと。女の攻撃を面白半分で眺めていると、奴はおれの金的を素手で握りつけてきた。この攻撃は精子搾り機とリンクして作動してくる。
「痛い、痛い、やめろ、コラ、ゴリラ!」
 おれは悶絶して転げ回った。転げ回るたびに床に機械がぶつかって鈍い音がする。女はおれの悶絶する声を聞き攻撃の手を止めた。上から見下ろし勝ち誇ったような表情を浮かべている。なんとも憎たらしい。しかし映像では攻撃の手が止まっているのに、なぜか精子搾り機はまだおれの大切な玉袋をグイグイと締めつけてくる。
「おい、攻撃やめろ、ストップだ!」
 おれが叫ぶとデバイス映像は切れたが、精子搾り機はオフにならない。どうやら床にぶつかった衝撃で機械が壊れたようだ。 
「ギャー」 
 おれがあまりの痛みで床を転げ回ると、地蔵が「大丈夫ですか」と近づいてきた。
「早く外せ。ボヤボヤするな」
「ご主人さま、ただ今お仕事の時間ですよ」
「馬鹿、大切なチンコが壊れるだろ!」
 おれの叫びで、心ない奴にもその苦しみが伝わったようで地蔵は機械に手をかけた。「ご主人さま、動かないでください」
「動かないでいられるか・・・・」
 地蔵がロックを解除しようと試みるが、その部分も壊れたようでなかなか外れない。そんなときデバイスに電話が入った。映像にはチョビ髭警官の顔が現れた。
「久しぶりだな」
「あ、あ・・・・」
 おれは返事ができない。
「元気か?」
「あ、あ、あ・・・」
「どうした? 何かあったか?」
「あ・・・・」 
「どうしたんだ? ハハハ、そうかお取り込み中だったか、スマン、スマン。今からすぐそちらへ行く用事ができた。すぐに仕事を止めて服を着用してくれ。要人を連れて行くからくれぐれも失礼のないようにな」
 電話が切れた。要人だかなんだか知らないが、こっちはそれどころではない。
「ご主人さま、じっとしていてください」
「は、は、早く。もう壊せ。早く」
 地蔵はベルトを外すのを一旦中止し、機械を停止させるボタンを押した。股間絞めつけは停止した。
「ハー・・・・」
 まさかこんな苦しみを味わわされるとは思ってもいなかった。座ったまましばらく茫然としていると、地蔵の涼し気な顔が目に入った。ーー野郎、作動を停止させられるんだったら、なぜ早くそれをしない。
「ご主人さま、要人が来られるとのこと。急いでズボンを履いてください」
 自分では間の抜けた仕事をするくせに、主人に対しては注文が多い。
「だから、まず、これを外せよ」
 おれは精子搾り機をポンポンと叩きながら言った。
「はい。でも・・・・」
 地蔵が機械を外すのにモタついている。
ーーコンコン
 ドアをノックする音が聞こえた。もう来てしまった。精子搾り機を着けた状態ではズボンが履けない。
「八郎、どうする?」
「要人です。無礼なことはできません」
「だから、待たせても無礼だし、このまま出ても無礼だろ」
 地蔵はロボットのくせに指が小刻みに震え出し、目がチカチカ点灯しパニックになった。まったく使えねえ野郎だ。
「しょうがねえなあ」
 おれは毛布を下半身に巻きつけてドアを開けた。
「久しぶりだね」
 一カ月前会ったチョビ髭がニッコリ笑って挨拶してきた。隣に黒のスーツ、黒の帽子を被ったガタイのいい、モミアゲの長い男がいる。チョビ髭の目線がおれの下半身にきたとき、すぐさま眉をしかめた。
「君なあ・・・・」
「トラブルが遭ったんだ。機械が暴走して外れなくなってしまって。なっ、八郎」
 地蔵に助け舟を求めたが、奴は部屋の隅に突っ立ったまま何も応答しない。こんなときだけ本当のお地蔵さんになる。卑怯な奴だ。
「あの野郎・・・・」
 チョビ髭は黒服にペコペコ頭を下げた。
「本当にすみません。正装するように言っておいたのですが・・・・」
 おれはチョビ髭に言った。
「で、何の用だ?」
「重要な誘いだったんだが・・・・」
 チョビ髭は言葉を詰まらせた。そこで黒服のモミアゲ男が初めておれに話しかけた。
「わたしはA階級で執事をしている者だが」
「執事・・・・」
 ジジイが言っていたことだ。おれから出向かなくとも向こうからやってきた。
「実はゴウ族の方が、君に会いたいと言うので最終チェックで来たのだが・・・・」黒服はそこで話を止めておれの顔を見つめた。「面会するに相応しくないようだな」
「だから、おれは何も悪くないんだ。何度も言うが、精子搾り機が壊れてベルトのフックが外せないんだ。おれかって、こんな状態で他人に会いたかねえさ。普段は品行方正な紳士なんだぜ」
 こんな大チャンスを逃してたまるかと必死で弁明したが、黒服はチラッとチョビ髭に目配せしその場から立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待ったシツジさんーー」
 おれは黒服の腕を掴んだ。するとすぐにチョビ髭がおれと黒服の間に割って入ってきた。
「無礼な振る舞いをすると逮捕するぞ」
「なんだよ、チョビ髭。おれとお前の仲じゃないか。そんな剣呑なこと言うなよ」
 黒服は知らん顔して歩き出した。
「シツジさんよ、立ち去るのはいいが一つだけ教えてくれないかーー」おれは黒服の後ろ姿に声をかけた。黒服は気がなさそうに振り返った。「おれをスカウトしたスカウトマンのことを知りたいんだ。スカウトマンのオッサンの名前を訊くのを忘れてしまって。足の巨大なスカウト男を知らないか?」
「足の巨大な男?」
「そう、あなたみたいに黒い服を着ているが、黒い靴を履かずに素足でいるスカウトマン」
 黒服男はおれに近づいてきた。
「歳はいくつぐらいの人なんだ?」
「五、六十かな。そうだ、オッサンは前歯が抜けていた。おれと同様な」
 おれはニッと歯を見せた。
「歯抜け・・・・。で、どこで会ったんだ?」
「山の中だ。風が吹いて現れた」
「あ、もしかして・・・・」黒服はおれの顔を先ほどとは打って変わって興味深げに見つめた。「よし、わかった、後で詳しい話を聞く。これを渡すからすぐに用意するように」
 持っていたカバンをおれに差し出した。
「何だ、これは?」
「黒の衣装一式だ。ゴウ族の方に会うにはこの黒服を着なければならない。急いで支度してくれ。わたしたちは下で待っているから」
 黒服執事とチョビ髭は立ち去っていった。何かよくわからないが意外な展開になった。部屋に入って地蔵に声をかけた。
「おい、八郎、どうする?」
「どうするって何がですか?」
「聞いていただろ。シツジ様が下で待っている。この黒服を頂いたが下半身がコレじゃマズイだろ」
「絶対いけません」
「だから外せよ。もし外せなかったら、お前は産業廃棄物として捨てられるぜ」
「それは困ります」
 おれはゴロンとベッドに仰向けで寝転んだ。地蔵が機械を少し触ると精子搾り機はあっけなく外れた。
「なんだよ、簡単に外れるじゃねえか」
「ご主人さまが暴れるからです」
「この野郎、恥かかせやがって・・・・」
「ご主人さま、急いでください」
「ああ、わかったよ」
 おれは黒服に着替え黒の革靴を履いた。黒の革靴は合成革でいかにも安っぽい。この国では動物が捕れないから天然革靴が作れないのだろう。
「あ、そうだーー」おれはベッドに敷いてある鹿の毛皮のちゃんちゃんこを思い出した。「大切なものを忘れるところだった」
 黒ジャケットの下にちゃんちゃんこを着込んだ。
「ご主人さま、ゴウ族の方に会うのにその毛皮はいけません」
「いいんだよ。どうせ見えないんだから」
 最後に黒い帽子を被り身支度が完成。どんな風貌になったかちょっと見てみたくなった。
「八郎、鏡を出せ」
 自分の姿を鏡に映した。黒服が意外に似合っている。フフフと思わず笑みがこぼれた。
「じゃあな、八郎。お前のクサい屁は一生忘れないからな」
「お帰りをお待ちしています」
「もう絶対帰らねえよ」
 エレベーターで下に降り、所長の部屋の前を通った。ちょっと挨拶でもしてやろうかとドアをノックした。すぐにジジイがドアを開けた。
「あっ・・・・」
 ジジイはおれの黒服姿を見ると、目を大きく見開いたまま絶句した。
「じゃあな、所長殿。ちょっくら宮殿へ行って参りますね」
 おれが薄ら笑いを浮かべながら言うと、
「ショ、ショ、招聘されたのか?」
「時間がないんだ、じゃあな」
 立ち去ろうとすると、所長はおれの後方から声をかけてきた。
「くれぐれもゴウ族の方々にたいする言葉に気をつけるんだぞ。いや、いや、お言葉に、お気をつけくださいね。わたくしのことを皆様によろしくお伝えいただけると、大変光栄でございます」
 露骨に言葉遣いが変わった。なんだよコイツは。
 建物のドアを開けてようやく外に出られた。フーと深呼吸したがここもドームの中、空気が特に新鮮になるわけではない。しかし狭い部屋から出られて開放感がある。路上に宙を浮く車が止まっていて、その横でチョビ髭が直立の姿勢で立っていた。
「今日はスクーターじゃないんだな」
 おれが言うと、
「当然です。どうぞお座りください」
 チョビ髭もおれに対する言葉遣いと態度が変わった。この国では服装によって言葉遣いを変えるのか。
「失礼しますね」
 おれはモミアゲ執事の隣にドスンと腰を下ろした。執事はチラとおれを見てすぐに目を逸した。すぐに車は静かに走り出した。
「おかしいと思ったよーー」執事が話しかけてきた。「君の驚異的な精子データを見てゴウ族の方々が興味を持たれたんだが、君が誰にスカウトされたかまったく情報がなかったんだ」
「だからビッグフッドにさらわれたんだよ」
「宮殿でゆっくり聞こう。その話をすれば長老もお喜びになるだろう」
 数分走るとトンネルの前に来た。車が一時停止するとトンネルの前のゲートが自動的に開き、暗いトンネルを百メートルほど走ると、広々とした庭園のある宮殿に出てきた。
「ここでお降りください」
 おれとモミアゲは宮殿の玄関前で降りた。
「立派な建物だなあ」
 おれは豪華な宮殿を見上げた。細かい彫刻を施した太い柱や高い天井に描かれた絵画が圧巻である。庶民の効率性重視で作られた建物とは全然違う。モミアゲに連れられ宮殿の塵一つ落ちていないピカピカの廊下を歩いた。途中ジャングルのような中庭があり、そこに二足立ち歩行する猿が数匹、「キャッキャ、キャッキャ」と走り回っていた。
「何の動物だ?」
 おれが興味深げに眺めると、モミアゲが注意してきた。
「ゴウ族の方々をジロジロ見るんじゃない。失礼だぞ」
「ゴウ族? あの毛むくじゃらの動物が?」
 モミアゲは恐ろしい形相で睨みつけてきた。
「ゴウ族の方になんてこと言うんだ! そんな言葉を次使ったら叩き出すぞ」
 ポケットから電気警棒を出し威嚇してきた。
「わかったよ。気をつけるよ」
「”わかったよ”じゃない。”わかりました”だろ。言葉には気をつけろ」
「へ、へい、わかりました」
 おれは従順な態度を取り繕った。せっかく宮殿にやって来れたというのに早速追い返されたくない。
「ゴウ族の方々の間ではーー」モミアゲは声を最大限に潜めおれの耳元で囁いた。「いま裸ブームなんだ。ほとんどのゴウ族の方々は裸で過ごしておられる」
「裸ブーム・・・・。でも、体じゅう毛むくじゃらなのは何なんですかい? 旦那」
「前は動物の毛皮ブームだったんだが、それが裸ブームに移行し、毛皮っぽく見せようと体に育毛剤をかけて毛を生やしておられる」
「オスもメスもですかい?」
「もちろん男性も女性も」
「でも、あそこにいる方、頭だけツルツル光っていらっしゃるが、頭には育毛剤の効果はないのですかな?」
「男性はハゲ頭がブームになっている。体は毛深く頭がツルツルがカッコいいんだ。君も坊主頭だがあまりツルツルにしない方がいい。ゴウ族の方々が嫉妬されたら大変だからな」
「じゃあ、あそこの太った方は何ですかい?」
 おれはチラッと一瞬だけ目線を遠くに移して言った。
「あの方は女性。女性はポッチャリした体型が流行っている。眉毛を太くして両眉毛を一本に繋げるのもな」
「じゃあ、あそこの方、しゃがみこんで何をなさっているんだ? もしかして脱糞していらっしゃるのでは?」
「君は目がいいなあ。おい、あんまりジロジロ見るんじゃない。ゴウ族の方はどこでも好きなところで排便排尿する自由がある。宮殿では普通のことだ」
 廊下を歩いていると、前から裸の毛むくじゃら男性が手に弓矢を持ってやってきた。近くから見ても原始人にしか見えない。モミアゲは足を止め会釈した姿勢て動きを止めたので、おれもそれを真似て会釈して動き止めた。原始人は能天気そうに鼻歌を歌いながら通り過ぎていった。
「何で弓矢なんですかい?」
 モミアゲの耳元で囁くように言った。
「バーチャル世界で狩りは体験できるが、実際に体験できるのはゴウ族の方々のみだ。庭にロボ・ウサギを放し、それを弓矢で撃つ遊びが流行っている」
 廊下の突き当りまで来て足を止めた。
「ここは長老がいらっしゃる部屋だ。君のことに興味を持たれたのがこの方だ。くれぐれも、くれぐれも横暴な言葉、横暴な態度にならないように。わかってるな」
 モミアゲはおれにチラリと電気警棒を見せて言った。
ーーコンコン 
 モミアゲはドアをノックした。
「失礼します。精子男を連れて参りました」
「ん?」おれは声を潜めてモミアゲに問うた。「何ですか。その精子男って」
「君の精子が驚異的だったので、長老はこのように呼んでおられる」
 重厚なドアが自動的に開いた。
「どうぞ、中にお入りください」
 ここでも執事地蔵が出迎えた。声が低く八郎よりも品が良さそうである。地蔵が先導し、ソファーと暖炉のある部屋を抜け、ピアノのある部屋を抜け、大きなリビングを抜け、一番奥のプール併設のトレーニングルームに来た。そこに痩せた老人がーー、顔も含めて体中毛むくじゃらなのに頭だけがツルツルの老人が、サンドバッグをペチンペチンと弱々しいパンチで一人殴りつけていた。
「長老、精子男を連れて参りました」
 モミアゲが長老に声をかけた。
「おおーー」長老がドロンと淀んだ目をおれに向けて言った。「コイツが精子男か」
 おれは『精子男』という下品な呼ぼれ方をしてあまり嬉しくなかったが、黒帽子を恭しく取って目線を下に向け、
「ハィ」
 返事をしようとしたとき、長老の陰部へ目がいった。陰毛の草原に埋もれるように幼児のような陰部が、いや幼児以上に小さい、ヤモリの頭のような陰部がチラッと見え、「ハイ」の「イ」を言う前に吹き出しそうになり、それをゴマかすためにゲホッと空咳をした。
「精子男は坊主頭かあ。態度や言動の評価が低いという報告がされていたが、すっきりしたいい男じゃないかーー」
 長老は興味深げに顔を寄せてきた。
「さすがに丈夫そうな体をしているなあ」
 長老はおれの体をペタペタと触り、「引き締まったいい筋肉をしている」と感心しながら最後におれの股間を握ってきた。
「うわっ、デカイ!」
 目を大きくして言った。おれは長老のその気さくな態度につられ、
「ま、それほどでもないですがね」
 と言いガハハと笑った。モミアゲはおれの態度に目を伏せて固まっている。
「あれ?」長老はおれの前歯がないことに気がついたようだ。「歯抜けじゃないか。何だよコイツ、ハンサムだなあ・・・・」
 長老はおれの歯抜け顔を見て嫉妬してきた。
「長老、歯抜けはすぐに治療させて、歯を揃えさせます」
「そりゃそうだ。庶民がこんなにハンサムじゃあ、おれたちはやってられない。しかし、なんと生命力に溢れた体をしているんだ」
 長老はまたおれの股間を握ってきて、
「立派だなあ」
 とニヤニヤした。長老の歯は所々が抜けていてオセロゲームのような歯並びをしている。おれはそのことをどうしても言及せずにはいられない衝動に駆られ、
「長老の歯は、実に芸術的な抜け方をされていますなあ」
 と讃えると、
「だろ? この抜け方はなかなかだろ。だが、お前にはこんなカッコいいことはさせないからな、ハハハ」
 と、ご満悦の表情をされた。
「長老、この男は何かと無礼な物言いをしますが、どうぞお許しください」
 モミアゲが横から要らぬ謝罪の言葉を述べた。
「いやいや、いい男を連れてきたよ。こういう野蛮なところがコイツの魅力だ、ハッハハ」
 長老は呵々大笑し、またおれの体をペタペタと触り出した。そのとき「アレ?」と黒のジャケットをめくった。
「何だコレは?」
「朋友の形見の鹿皮のちゃんちゃんこですよ。カッコいいでしょ、フフフ」
「馬鹿ーー」モミアゲが横から叱ってきた。「そんな物を着ていたのか。ダメだろ」
「いいんだ、いいんだ。ちょっとよく見せてくれよ」
 長老はジャケットを脱がせ、顔を近づけてちゃんちゃんこを眺めた。
「なんだよ、コイツは。何から何までカッコいいじゃないか。この野郎・・・・」
 おれの体を抱きしめて頬ずりしてきた。おれは昔から不潔だの趣味が悪いだのと散々不評を買ってきたが、なぜジイさんにこんなに嫉妬されるぐらい羨ましがられるのか大いに戸惑った。
「実は、彼からスカウトのことを聞きまして」
 モミアゲが遠慮がちに間に入ってきた。
「スカウト?」
「執事の調査員たちに訊ねても、彼が誰にスカウトされたのか謎でした。彼が言うには、足の大きな男にスカウトされたと・・・・」
「足の大きな男?」
「黒服なのに靴を履いておらず、歳の頃は五、六十、そして大きな顔で歯抜け」
「も、もしや・・・・」
 長老はおれの顔を見つめた。
「奇妙なオヤジなんですよーー」おれは話を補足した。「真っ暗闇の人里離れた山の中に風と共に現れた・・・・」
「やはり、それは・・・・」
 長老は声を潜めて言った。
「怪人ムスタングの仕業だ・・・・」
「あのオッサン、ムスタングっていうんですか。ああ、よかった、名前が知れて。おれはその男を探していたんですよ。どこにいるか知っています?」
「知らんーー」長老は断定口調で言った。「この国は高度にテクノロジーを発達させ、完全な管理・運営システムを構築した。だがどういうわけか、わけのわからないことがフッと出てくることがある。ーームスタング、それは謎の一つだ。彼はこの国へ自在に出入りしてくる怪人、一体ヤツは何が目的なのか・・・・」
「ドームの中に住んでいないんですね」
「もちろん、住んでいるわけがない」
「じゃあ、ドームの外を探索しないといけないか・・・・」
「どうした、精子男、何か言ったか?」
「いや、何でもありません・・・・」
 国のトップの前で「この国から脱走したい」と告白するわけにはいかない。
「そうだ、君の名前は何というんだ?」
 長老が訊ねてきた。
「わたくし、イエティと申します」
「イエティか、いい名前だ。じゃあ、その名前でいこう」
「長老ーー」モミアゲが言った。「ということは、彼はF階級からA階級に昇格ということでよろしいでしょうか」
「ああ、もちろん。手近に置いておきたいからな。なんせ怪人ムスタングが送り込んできたツワモノだ。イエティ君、君も庶民階級よりここの方がいいだろ?」
「まあね」
 おれが簡単に返事をすると、またモミアゲが目を釣り上がらせた。
「おい、言葉に気をつけるんだ」
「いいんだ、いいんだーー」長老はおれのことが気に入ったようで何を言っても許してくれる。「何度も言うが、この野蛮性があるからこそ最強の精子なんだ。ジェームズ、後で君が彼に執事の仕事を教えてやるんだぞ」
「承知しました」
「じゃあ、また会おう、イエティ君」
 長老は最後も猫のようにおれの腹を頬ずりし、またサンドバッグに向かっていった。おれとモミアゲは敬礼し長老の部屋を後にした。
「奇跡だ、奇跡だ・・・・」
 モミアゲが歩きながら何度もつぶやいた。
「何が奇跡なんだい、モミアゲ君」
 階級が正式に同じになったいうことで、おれは奴のことを取りあえず「君」づけで呼んでみた。モミアゲは何も文句を言ってこなかったので、おれはタメ口を通すことにした。
「階級の下っ端がA階級に一気に昇格とは」
「そんなのは初めてか」
「もちろん初めてだ。それに長老があんな態度をお見せになるのも初めて見た」
「長老殿はやっぱり男色家なのかなあ」
「どうだろう・・・・。この国では性文化はすべて滅びてしまったから、男色なのか女色なのか、その判断を下すのが難しい」
 廊下を歩いていると、何か液体がこぼれていたのでまたぎ越した。
「こういうのを見かけたら、すぐにデバイスで掃除ロボットを呼んでくれ。これも執事の仕事の一つだ」
「何をこぼしたんだ?」
「ゴウ族の方の尿だろう」
 モミアゲは表情を変えずに当たり前のように言った。
「じゃあ我々の宿舎を案内しよう。執事の宿舎は宮殿の向かいにある建物だ」
 宿舎に入っていき空き部屋の一室に通された。部屋には窓もあり広々としている。リビングの他に寝室、書斎、洗面所がついている。
「この部屋には地蔵はいないのか?」
「地蔵?」
「執事ロボットだよ」
「いないね。監視されたくないだろ」
「やはりアイツがおれのことを監視してやがったか。でも、長老の部屋にもいたぞ」
「あれは特別な型、庶民の監視型とは違う」
「じゃあ歯磨きやヒゲ剃りは自分でしないといけないんだな」
「もちろん、あの機能は庶民が自立できないよう、無能にするためにあるんだからな」
「そんな意味があったんだ・・・・」
「ここでは自分でしなければいけないことが多少増えるが無能になることは避けられる。シャワーも自分で浴びなければいけない」
「じゃあ、飯も自分で作るのか」
「それはできない。すべての食事は材料の栽培から調理まで工場の一括システムでなされているから」
「やはりデリシャス・バーか?」
「もちろん。でも味は下の階級とは比べ物にならないぐらい旨いし食べ放題だ」
「洗濯は?」
「それも一括システム、着たものはアウトボックスに入れておけばいい」
「結局、何もすることがないじゃないか」
「やっぱり便利がいいだろ。あ、そうだ。さっきデバイスで注文しておいたが届いたかな」
 モミアゲがインボックスを開けると、デバイスと精子搾り機とドラッグが入っていた。
「ここでも精子搾りか・・・・」
 おれがボヤくように言うと、
「気が向いたらやってくれよ。国のためだと思って。それとこれが君の新しいデバイス」
「向こうで使っていたのと同じ物だろ」
「ああ、コンテンツは同じだが、コレは監視されないデバイスだ。庶民の物と違ってデーターが科学研究室へ送られない」
「本当に監視さていないのか? 信じがたいなあ・・・・」
「それにコレは、A階級以外のすべての国民の評価データーや行動映像がチェックできる」
「神様になったようなものだな・・・・」
「ある意味そうかもしれないな。B階級のシステムエンジニアに指令を出せば、一人ひとりの寿命もコントロールできるしな」
「じゃあ、明日死ねといえばそうなるのか」
「今すぐ死ねでも可能だ」
「人の命が軽々しく扱われているんだな」
「だがな、執事がこの国に住む庶民一人ひとりをチェックするなんてヒマなことはしていられない。特殊な数値を出す者がいたら、そいつをマークするという仕組みだな。君の場合は精子の質が飛び抜けて優秀だったから、科学者にマークされたようだ」
「精子サマサマだ。おれの未来の子供たちがおれを救い出してくれたとは」
「あ、それと、これは歯の治療薬」
 一粒の白い錠剤が入ったケースを渡された。
「これを前歯に埋め込むのか?」
「いや、普通に飲むんだ。歯が生えてくる薬」
「折れたのは永久歯だぜ」
「遺伝子治療の薬だから、また生えてくる」
「全部の歯が総入れ替えか?」
「どうだろう、わたしも知らない・・・・」
 おれはヒョイとその薬を飲み込んだ。
「これでいいんだな」
「ああ。それと、そうだ、仕事の説明だ。込み入った話になるからあそこで腰を下ろそう」
 ベランダのデッキチェアーへ移動した。
「A階級は特権階級であるゴウ族の方々をお世話をする係だ。お世話以外にすべての国民の管理、おもに一階級下のB階級の管理、それとドーム外の住民であるアウターの管理」
「アウターの管理ってのはスカウトのことか? そのことをもう少し説明してくれよ」
「スカウトに興味があるのか? 外の環境は劣悪だし危険は伴うし、誰もやりたがらない仕事だぞ」
「だから面白そうなんじゃないか」
「君は少し変わっているなあ。今スカウトマンは合計六人、稼働しているのは三人だけだ。二人以上でチームを組んでアウターの偵察をし、君のような精子提供者や肉体労働者をスカウトする」
「肉体労働者って何だ?」
「ドームの外でやらなくてはいけない労働だ。ドームのメンテナンスや、資源採掘ロボットのメンテナンス、原子力発電所のメンテナンス、それらはロボットができない仕事、人間の力がどうしても必要な仕事なんだ」
「そんな仕事、やりたがる奴がいるのか?」
「アウタにとってドームに住むことは天国のようなもの、住環境は快適だし、デバイスで享楽が味わえるし、飢えがないからな」
「スカウト以外には何をするんだ?」
「アウターたちの信頼を得るために村々を回って、この国の品種改良された野菜の種を配る活動もしている。品種改良された野菜は味もいいし、収穫量も多いし、劣悪な環境に強いように設計されているから」
「さっき、スカウトは危険が伴うと言ったが何が危険なんだ?」
「ドリモンド国の繁栄を憎むテロリスト集団が大陸のあちこちに潜伏している。特にこちらとは反対の西側の端にな。奴らに襲われる危険があるんだ」
「なるほどな」
「仕事はそんなところか、自由な時間は部屋でデバイスやドラッグで遊んでいたらいいが、プライベートでこの宿舎の外へは出ちゃいけない。外出するときは必ず黒服着用だ。もし、ゴウ族の方々に少しでも不快感を持たれたらどうなるか、わかるだろ?」
「体に毛生え薬をかけられるのか」
「馬鹿、そんな甘いものじゃない。この国はドライだから・・・・」
「南無阿弥陀仏か」
「ああ、だから慎重な行動を心がけてくれ。君は危なっかしいところがあるようだから」
「要するにペコペコしていりゃいいんだろ」
「そういうことだな。ーー守らなければならないことは、そんなところか」
「ドラッグは限度なくやり放題かい?」
「ああ」
「中毒になったりしないのか」
「我々A階級とゴウ族の方々に限っては、ドラッグ効果解消剤が使える。それを服用すれば依存性が一瞬で消える」
「いろいろあるんだなあ」
「医療相談というコンテンツがあるから、詳しくはそれに聞いてみたらいい。それぐらいか・・・・」
「最後に一つーー」おれはモミアゲの目を見つめて訊ねた。「君もプライベートは一人か」
「当然な」
「執事たちで集まって宴会とか開かないのか」
「そんなことするよりもっと楽しいことがあるからしないなあ。それに、そんな活動をゴウ族の方々に知られたら、それこそ・・・・」
「毛生え薬をかけられるのか」
「馬鹿」
「もう十分わかった、もういい。おれはゆっくりするよ。ゆっくり精子を搾ってもらうよ」
「ハハハ、そうか。じゃあ、ゆっくりしてくれ。この部屋の中だけは自由だから」
 モミアゲは部屋から出て行った。おれはハーと深く息を吐き体を弛緩させた。とりあえず自由になった。何をしようか・・・。周りを見回すと、いつもの精子搾り機が目に入った。モミアゲに冗談で精子搾りと言ったのだが妙にやりたくなってきた。もう誰に監視されるわけでもないし強制されるわけでもない。それに玉袋を握ってきた憎き格闘女に復習してやりたい気持ちがある。が、あの世界に浸っていると脳が現実との区別を見失い馬鹿になるかもしれない。じゃあドラッグを少しやろうか・・・・。が、それも危険と隣り合わせ、中毒になることは目に見えている。バーチャル世界とドラッグ以外、人間とは余剰の時間、一体何をするんだ?
「そうだ!」
 腹が減っていたことを忘れていた。ベランダに出て庭を眺めながら優雅に食事をすることにした。執事御用達のデリシャス・バーは口に入れた瞬間とろけ出し噛む必要がまったくない。まろやかな風味が口に広がり食べる手が止まらなくなる。食後に最高級のデリシャス・茶を飲んだ。これもまた旨い。脳にそよ風が吹いたような爽快な気持ちになる。
ーーとうとうおれは天国にきたか。薄っぺらな天国ではあるが・・・・。
 この気持ちを誰かに伝えたいが、この国には伝える相手が誰もいない。そのときおれの脳裏に所長の顔が浮かんだ。デバイスを装着し電話をかけた。
「おい、所長君、元気かい」
 所長はおれの顔を見た瞬間、凍りついたような表情になった。
「いま、どちらに?」
「執事の部屋をあてがわれたよ。デリシャス茶はなかなか旨いね、ハッハッハ」
 おれは余裕の笑みを繕った。
「ということは・・・・」
「おれはA階級に昇格した」
 所長は目を見開いたまま動きを止めた。
「所長、君に一つ言いたいことがある」
「な、な、何でしょうか?」
「お約束どおり、君を降格させてあげよう。C1というはどうかね」
「あ、あ、あ・・・・」
 所長は顔を引きつらせ声がドモった。
「じゃあな」
 電話を切った。
ーーハハハ、なんだあの顔は。
 愉快な気持ちがしたが何だか後味が悪い。イタズラの度が過ぎて暴力になってしまったかも。すぐに電話をかけ直し、「冗談だ」とだけ言って切った。
 翌朝おれは早起きしてルームランナーで走って汗を流し、それから散髪ロボットを呼んで頭をきれいに剃り上げてもらった。髭も剃ってもらおうかと思ったが、ゴウ族の毛むくじゃらを真似て顔の無精髭は剃らずにそのまま放っておくことにした。それからシャワーを浴び、朝飯をたらふく食べた。
ーーさて、何をしようか。
 とりあえず黒服を着用し、帽子をかぶって執事宿舎から出た。そう言えば、モミアゲから具体的な仕事の予定を何も聞いていなかった。突然やってきた新参者のおれがやらなくてはいけない仕事なんか何もないのだろう。 おれはブラブラ宮殿を歩き回った。
 中庭のジャングルでゴウ族の原始人たちが三人、チャチな弓矢で狩り遊びをやっていた。三人は髪の毛が長くてデブなのでメスだろう。
ーーしかし、大人がする遊びかね・・・・。
 馬鹿馬鹿しいとは思っても、狩りにかけておれはプロなので足を止めて彼女らを観察した。おれの足元にロボ・ウサギが走ってきた。
「ん?」
 そのとき原始人が放った矢がおれの胸元に向かって飛んできた。おれはそれを片手でやすやすとキャッチした。あんな玩具の弓矢、矢の速度はせいぜい五十キロ程度だろう。矢を原始人に返しに行くと、原始人は驚いた表情で訊ねてきた。
「怪我はなかった?」
「いや、まったく。あんなもの目をつぶっていたって捕れるぜ」
 おれが言うと、メスの三人は怪訝な表情で顔を見合わせた。そこでおれは気づいた。
ーーそうだ、敬語を使わなければいけなかった。訂正するのも面倒だったので、
「どうれ、弓矢を貸してみなされ。おれが見本を見せて差し上げましょう」
 弓矢をサッと取りあげた。彼女たちは執事にそんなことを言われたのは初めてだったのか、怯えた表情をしている。矢をつがえて弓を引こうとしたら、弓の素材が脆弱でミシミシと変な音をたて折れそうになったので、弓が折れない程度に慎重に引きながらロボ・ウサギに向けて矢を放った。もちろん矢は走っているウサギに命中し、ウサギはひっくり返って足をバタバタさせた。
「どうぞ」 
 弓を返すと、メスたちはキョトンとして声を出さなかった。ちょっと変な空気になったので、おれは「じゃあ」と言ってその場からそそくさと立ち去った。
 それから宮殿を隅から隅まで歩き回った。執事の皆さんは何をやっていらっしゃるのか、誰にも会わないし誰からも連絡が来ない。そもそもおれはデバイスを着けていないので連絡がきてもわからない。
 翌日も中庭を通ると、原始人の男女六人が狩りをやっていた。原始人はおれの姿に気づくと手招きしてきた。
「なんでございましょうか」
 おれは胸を張って彼女たちの元へ行った。
「もう一回、スゴイところ見せて」
 メスの一人が言ってきてので、「お安い御用」と弓矢を受け取って三秒以内にウサギを仕留めてやった。昨日はキョトンとしていたが、今日はキャッキャ、キャッキャと芸術的な歯抜けを露出させお歓びになった。
「何度でもできるぜ」
 おれは調子に乗り、続けざまの三連続でウサギに当ててみせ、「フッ」と自信満々の笑みを浮かべその場から去った。
 次の日また来ると、原始人はさらに増えて十人以上になっていた。おれの名声が静かに拡がっているようだ。自己紹介した覚えがないのに「イエティ」と名前を呼んでくる。弓矢を受け取り帽子を取ったら、おれのピカッと光るスキンヘッド姿に、彼らは「オーッ」と歓声を上げた。この日は走りながら矢を射ったり、地面をゴロゴロ回転しながら矢を射ってウサギを仕留めた。皆大喜びである。
「君はスゴイねえ」
 一人の男性がおれの体を触ってきた。すると、「わたしも」「わたしも」と次から次へと男女問わずおれの体を触ってくる。上半身だけではなく下半身の大事なところも遠慮なく握ってきて、「スゴイ重量感」と言い喜んでいる。しまいには「服を脱いでくれ」とまで言い出した。皆んな素っ裸なのにおれだけが服を着ているというのも変な話だが、おれの体は彼らと違って毛が薄く、大事な部分が露骨に現れているので恥ずかしい。
「いやあ・・・・」
 おれが渋っていると、女どもがジャケットを脱がせてきた。ジャケットの下に着込んでいた鹿皮のちゃんちゃんこが見えると、また「オー」と歓声が上がった。「なんだそのカッコいい毛皮は」と目を丸くしている。さらに下半身も含め素っ裸になると、珍獣を見るような興味津々の目でおれの体を観察してきた。
「君はこれから黒服を着なくていいよ。裸でいい。裸がカッコいいから」
 と言ってくる者もいる。
「そうかい、そうかい」
 おれは調子に乗り、冗談で女性の一人に後ろから抱きついてニヤニヤ笑って見せた。しかし彼女は「イヤ」とか「ヤメテ」とか嫌がる素振りをまったく見せずケラケラ笑うだけだった。性文化がないので、恥ずかしいとか下品だとかいう観念がないのだろうか
 そのとき廊下を通りかかったモミアゲがおれの姿を目撃し、飛ぶように駆けつけてきた。
「皆様、本当に申し訳ありません。彼は新米で常識知らずの執事なものですから・・・・」
 土下座までして深々と頭を下げた。
「皆んな喜んでいるぜ」
 おれが言うと、
「馬鹿、すぐ服を着ろ!」
 モミアゲは目を吊り上げて叱りつけてきた。
「ジェームズ、彼だけはいいんだ。特別だ」
 ゴウ族の一人が言うと、
「そうですか・・・・。すみません。でも、すべてのゴウ族の方々に許可を頂かないと、不快に思う方もいらっしゃるでしょうから・・・・」モミアゲは謝り続ける。「今日のところは、わたくしが彼を厳しく指導しておきますので、何卒お許しください」
 おれはモミアゲに手を引っ張られ執事宿舎に戻された。
「何だよ、何をそんなにイラついているんだ?」
「君なあ・・・・」モミアゲはあまりに呆れ果て言葉が出ないようだった。「君にデバイスで連絡してもまったく繋がらないし・・・」
「飯を注文する以外はデバイスを使っていないからな」
「それで何をしているのかと思えば・・・・」
「彼女たちからのリクエストに答えただけだ」
「もしも、もしもだよ、誰かゴウ族の方がこのことを問題視されたら、君ばかりじゃなくわたしも首が飛ぶかもしれない。君だけがポックリ逝くならそれで構わないが、わたしまで巻き添えにするのはやめてもらいたい」
「ケッ、ケツの穴の小さいことを言いやがる。死ぬときは死ぬときだ。誠意を込めて生き、ポックリ逝ったら逝ったでしょうがねえじゃねえか」
「何を言ってるんだ。予定の時間が過ごせずに死んでしまうんだぞ。そんなの理不尽だろ」
「予定の時間? まだ起きてもない未来を、来るかわからない未来を手中に収めていること自体、理不尽なことだろ」
「この男は・・・・」
 モミアゲはしばらく絶句した。
「君とこんなことを話していても埒が明かない。君に伝えたかったことがあったんだ。思い出したよ」
「なんだ?」
「君はこの前スカウトに出たいと言っていたじゃないか。調査員に連絡を取ったら、是非一緒に来て欲しいということだ。明後日、“チツノコ”と一緒に出かけてくれるか?」
「ツチノコ?」
「いやチツノコだ」
「膣の子とはずいぶんケッタイな名前だなあ」
「名前のことはどうだっていい。とにかく明後日行けるのか?」
「明後日か・・・・」
「急な話なんだがな。だったらもう少し後にするか」
「おれは思い立ったらすぐに行きたい性分だ。そんなに待たされるのは嫌だなあ」
「何なんだ君は・・・・。で、行くのか、行かないのか?」
「当然行くさ。ここにいても退屈だからな」
「じゃあ、必ず約束は守ってくれよ。明後日の早朝六時に出発。宿舎玄関前でチツノコに会ってくれ」
「ああ、わかった。明後日まで生きていれば行くと思う」
「生きているに決まってるだろ・・・・」モミアゲはまた呆れた表情をした。別れ際、「もう一度言っておく。ゴウ族の方々に対し、失礼な態度を絶対とらないでくれ。同僚がほんのちょっとしたこと、些細なミスで、突如命を失うところをおれは何人も見てきた。命を大切にしてくれ」
「ああ、わかったよ」
「それと、常にデバイスを着用してくれ。連絡が取れないから」
「わかった、わかった」
 モミアゲは出ていった。小うるさい奴だ。おれはベッドにゴロンと仰向けに寝転んだ。
ーー明後日、ようやくこの国から脱出か。ビッグフットに会うのが楽しみだ。あのデカイ足、大地に根を張るようなあんな立派な足をした奴が、こんな息の詰まる所に住んでいるわけがない。奴さんどんな所に住んでいるんだろう・・・・。
 翌日も早朝に起き、ランニングして朝飯をたらふく喰った。昨日デバイスを着けるように強く言われたので、絶対着けてやるものかと思っていたが、久しぶりにバーチャル世界をどこか旅してみようと思いつき、椅子に座って茶を飲みながら、広いジャングルの上空を鳥になって飛び回った。そのとき突如画面が切り替わり連絡が入ってきた。
「誰だ?」
 不機嫌に電話に出ると長老からだった。
「イエティ君、わたしの部屋に来てくれ」
 それだけで電話が切れた。スッキリした連絡だ。おれは黒服を着込んで宮殿へ出かけた。中庭の前を通ると、昨日の三倍以上のゴウ族が集まっていて、おれの姿を見つけると、「イエティ」と歓声が上がった。
「長老のところに行かなくちゃいけないんだ」
 おれが遠くから叫ぶと、皆んなガッカリした表情を見せたので、サービス精神旺盛なおれは「少しだけなら」と言い、走って彼らの集まりに加わった。矢と弓を引ったくるように受け取り、ロボウサギ五匹を速攻で仕留めると、「オー」という大歓声が起きた。
「じゃあな」
 おれはすぐさまその場を後にして長老の部屋へ行った。
「長老、入るぜ」
 おれは勝手にドアを開けて部屋に入った。地蔵に案内されなくとも部屋の奥へ進み、プールの脇のデッキチェアーに座って茶をすすっている長老を見つけ、隣のチェアーに座った。長老はおれと目を合わせると、
「あっ、いつの間に。君は瞬間移動ができるのか?」
 と驚いた表情を見せた。
「おれは怪人ムスタングじゃないからそんな器用なことはできないよ。いま来たばかりだ」
「おお、そうか、そうか」
 長老は「ヒヒヒ」と笑い、おれの体をペタペタと触ってきた。
「で、何ですかな?」
 おれは訊ねた。
「相変わらずいい体をしているなあ」
 長老はおれの問いに答えず、おれの股間をやさしく握りしめ、「ウワッ」と小さいな吐息を漏らした。
「で、何ですかな?」
 おれは再度訊ねた。
「実は・・・・、君にひとつお願いしたいことがあるんだ。君にとって最高の経験になると思うんだが」
 長老は意味深な言い方をした。
「何ですか?」
「わたしには一人娘がいる。わたしの精子から人工授精で生まれた娘だ。で、彼女が生殖適齢期なのだが・・・・」
「ん?」おれは嫌な予感がした。「も、もしかして、け、け、けっこ・・・・」
「いや、結婚ではない。結婚という制度はドリモンドにはない。実は、わたしは天然の性行為というやつを若い頃一度だけ経験したことがある。いろんな経験が必要だと思ってな。もちろん子供はできなかったが、それはわたしにとって思い出深い経験となった。それで、かわいい一人娘のトシコにも、是非天然の性行為というやつを経験させてやりたくて」
「は、はあ・・・・」
「そこでイエティ君、君にどうかトシコの相手をしてもらえないだろうか」
「へ・・・・」
「君のその強靭な肉体、その端正なルックス、トシコの相手は君以外に考えられない。君を一目見た瞬間、ピンと来たんだよ。昨日彼女に話してみたら、君のことをすでに知っているという。おまけに君のことに大変興味を抱いているようなんだ」
「え・・・・、おれと娘さんは会ってます?」
「君はなんでも弓の達人だというじゃないか」
ーー中庭で会った女性の一人か・・・・。
「娘は『イエティ君だったら』と自分から言ったんだ。だから・・・・」
 娘さんが美女か醜女かはっきりしたことはわからないが、総じてこの国の女性はおれのタイプとは言い難い。
「んー・・・・」おれは腕組みをして考えた。「で、娘さんはおいくつで?」
「歳か? 娘は六十だ」
「十六?」
「いや、六十だ」
「六十! お、おばあさんでは・・・・」
 思わず失礼なことを口走ってしまった。
「何を馬鹿な。ゴウ族は遺伝子治療を受けているから八十歳まで生殖可能。六十なんて若者だ。わたしは何歳だと思う?」
「九十歳ぐらいですか・・・・」
「わたしは今年百五十歳。わたしより年上の最長老は二百歳だ。ゴウ族は庶民と違って長寿なのだよ」
「二百歳まで生きられるものですか・・・・」
「信じていないのか。じゃあ見せてやろう」
 長老はヨロヨロと立ち上がり、電動車椅子に座って、近くの部屋におれを連れ出した。ドアを開けると壁一面にコンピューターが並んでいて、そこはまるでNASAの宇宙基地のようだ。中央に透明のケースに入れられたベッドが置いてあった。
「最長老だ」
 ベッドの中にはミイラのような人間が、数十本の管に刺された状態で寝ていた。管の一本一本はコンピューターに繋がっている。
「本当に生きていらっしゃるのですか」
「もちろん・・・・」と長老は自信満々答え、「元気ですか」とマイクで問いかけた。すると壁のパネルに『ああ、まだ生きてるよ』と文字が出てきた。続けて「お腹が空きましたか」と問うと、『おれの胃袋は機能してないことを知ってるだろ。嫌がらせか?』と出てきた。
「な、元気に生きていらっしゃるだろ。でも、最長老の世代はまだ臓器を機械で代用する時代、わたしの世代になって遺伝子レベルから人体にアプローチできるようになった。わたしが二百歳になったとき、このような管が刺さった状態にはならないだろう。だから、わたしは最長老よりもっと元気で長生きするだろうし、その後の娘の世代はさらに技術が進歩し、もっと長生きするだろう」
 長老はおれの顔を自信満々の表情で見つめ、
「もし君が娘の性行為相手を務めてくれた暁には、君に大きなプレゼントをするつもりだ」
「プレゼントとは・・・・」
「ウフフ、民間人として初、君をゴウ族として迎えるつもりだ」
「お、おれがゴウ族に・・・・」
「ハハハ、喜んでくれるか。君のことはわたしだけではなく、ゴウ族の皆んなが一目見て好きになってしまった。君は我々のアイドルだ。君がゴウ族になれば、我々と同様遺伝子治療を受けて長寿になれる。そして毎日、楽しく快適に便利に人生を送れる、フフフ」
 長老は両手でおれの手をギュッと握りしめてきた。
「ハ、ハ、ハ・・・・」
 おれは曖昧に笑うのみである。
「じゃあ、早速トシコを呼ぼうか。三人で少し将来のことを話し合おう」
「いや、いや、ちょ、ちょっと待ってください。今ですか?」
「どうした? なにか不満なことでもあるのか?」
「いや、不満などないですよ。ええと、実はですね、明日、出張に出かける約束があるんですよ。アウターのスカウトなんですけどね」
「そんなもの行かなくていい。わたしがジェームズに言っておくから」
「いや、あのう、強制的な仕事ではなくて、おれ自身が行きたいんですが」
「何で? 危ないだろうに」
「長老はさっき、多くの経験を積むことは大切だとおっしゃいましたが、おれもこの世界を広く深く知りたいんですよ。是非ドームの外も見てみたいです」
「それは大切なことだな」
「明日出かけて翌日帰ってきますから、帰ってから娘さんに会うということでどうですか」
「おお、そうか、そういうことか。わかった、フフフ」
 長老はおれの手の甲をやさしく擦りながら笑った。
「明日の準備がありますから、今日のところはこれで失礼しますね」
 長居は無用と立ち去ろうとすると、
「イエティ君、今日話したことは絶対、執事仲間には言わないでくれよ。君が正式なゴウ族になってから、わたしの口から彼らに伝えるから。もちろん最長老のことも。最長老がご健在でこの国のシステムに影響を及ぼしていることは極秘情報だ。くれぐれも内密にな」
 そこでようやく解放された。
「ハアー」おれは深く息をついた。「おれの将来は、ーートシコと性交、ゴウ族に昇格、平穏な生活、三百歳まで長生き」
 そんなことを頭の中で反芻しながら歩いていると、宮殿前の庭でモミアゲにバッタリと出くわした。
「だからなあ・・・・」モミアゲは不機嫌な表情を露骨に現し、「君、デバイスは常時着けていてくれって何度も言ったじゃないか」
「いいんだよ」
 小声で返した。
「何がいいんだ? そんな生意気な態度でいるとどういう目に遭うか、知らないからな」
「どういう目にも遭わないんだよ、おれは・・・・」
「ハア? どういうことだ、おいっ・・・・」
 おれはモミアゲを無視して自室に戻った。
 翌朝、いつもと同じように黒服を着て、黒帽子をかぶり、黒靴を履いて宿舎から出た。冒険に出るというのに持ち物は何もない。宿舎の前に立っていると、顔が大きく、胴体の太い黒服の男がやってきた。
「ん?!」おれは男を一瞥してギクッとした。「ツ、ツチノコ、お前もここにいたのか!」
 興奮して声が大きくなった。
「はあ? 名前を間違えるな。おれはチツノコだ」
 男は苛立った表情で言った。しかし声もツチノコである。
ーーツチノコの奴め、おれにドッキリを仕掛けてきたな。
「ハハハ、お前どういった経緯でここに来たんだ? おい、コラーー」
 おれはツチノコの胸板に正拳突きをドスンドスンと数発打ち込んだ。
「オイッ、何をする。ウウ・・・・」
 ツチノコは胸を押さえてうずくまった。
「ツチノコめ、精子搾り機の虜になって運動していないな。おれはあんなもの手放しちまったぜ」
「こ、この野郎・・・・」
 ツチノコは目に涙を溜めながら、電気ショック警棒を振り回してきた。
「危ない、ツチノコ、おいっ」
 様子が変である。あの温厚なツチノコがおれに対し、こんなことは絶対してこない。
「だからおれはチツノコだって言ってるだろ。何度言ったらわかるんだ」
 顔が真っ赤で目も充血し、芝居をしているようには見えない。
「本当にツチノコじゃないのか? こんなに容姿がそっくりなのに?」
「さっきから初対面のおれに向かって無礼な態度を取りやがって。おれは先輩だぞ。チツノコ先輩と言え」
 ツチノコは大声で怒鳴った。
「本当に別人か?」
「おれはお前のことなんかまったく知らない。ジェームズから、生意気な奴だから注意しろと聞いただけだ」
「そうか、確かにそうだよな。ツチノコがこんなところにいるわけがないもんな・・・・」
「敬語を使えって言ってるだろ。おれが先輩でお前は後輩、今後そんな言葉遣いをしてみろ。飛行船から叩き下ろして荒野に放置してやるからな」
「ハハハ、ツチノコに敬語とは笑えるな」
「ツチノコじゃない、チツノコだ。チツノコ先輩と言えと言ってるだろ」
「わかったよ、いや、わかりました。チツノコ先輩殿」
「まったく・・・・」
 ツチノコはスタスタと歩き出し、おれはその後をついて行った。庭を抜けて宮殿の地下へ入っていくと、地下には大型ドローンのような飛行船が数台停車しており、整備ロボットが点検していた。
「おお、随分デカイ飛行船だな。中で生活できるようになっているのか?」
 おれが何を言ってもツチノコモドキは無反応である。一人黙々と荷物を積み込んでいる。
「何を持っていくんですかな?」敬語を使ってみてもやはり無視された。「おれは食料をタップリ持って行きたいんだがな」
 ツチノコモドキはおれをギロリと睨みつけ吐き捨てるように言った。
「言っておく。お前の要求はすべて却下だ」
 ずいぶん面倒くさい奴だ。顔は愛らしいツチノコなのに根性がへん曲がっている。おれは旅の途中、この飛行船からトンズラして怪人ムスタング探しに行かなければならないが、大陸の地理情報など、コイツが冒険の成功の鍵を握っていて、コイツをうまく利用しなければ冒険が成立しない。コイツをおだてていい関係を作り上げないと・・・・。
「チツノコ先輩、言うことは何でも聞きますから、怒らないでくれよ」
「怒らないでくれ? 何だ、その言葉遣いは」
「怒らないでくださいませ」
 おれは合掌して頭を深く垂れた。ここは我慢のときだ。
 そんなとき、地下エレベーターの扉が開いた。誰が来たのかと振り返ると、車椅子に乗った長老と毛むくじゃら女性の姿があった。
「長老、どうしてこんなところに来られたんですか」 
 ツチノコモドキはピンと背筋を伸ばして敬礼し、二人に駆け寄った。
「お前じゃない、わたしが会いたいのはイエティ君だーー」長老はツチノコをスルーして、おれに笑いながら近づいてきた。「くれぐれも体に気をつけてくれよ」
 おれの手を両手で握りしめてきた。
「長老も元気でな」
「わたしは絶対元気に決まっている。遺伝子的に未来が約束されているんだから。で、彼女が娘のトシコだ。どうだベッピンさんだろ、ヒヒヒーー」満面の笑みで娘さんを紹介してきた。「娘がどうしてもイエティー君に出発の前に会いたいと言うんで来たんだ」
 六十歳の娘さんは恥ずかしがってモジモジしている。
「あ、どうも、精子男です」
 おれが彼女の目を見つめながら自己紹介すると、彼女はウフフと芸術的な歯抜けをお見せになりながら微笑んだ。ツチノコモドキはおれたちの様子を見て、直立不動のまま体を凍りつかせている。
「チツノコーー」長老が言った。「お前がイエティ君を全面的に守るんだぞ。彼の言うことは何でも聞くように」
「は、はい、もちろんであります」
 ツチノコモドキはサッと敬礼した。
「おい、ツチノコーー」次におれが言った。「お前のことはチツノコではなくツチノコと呼ぶ。わかったな」
「は、はい。了解であります」
「それと、さっき訊ねたことだが、食料はタップリ積んだのか?」
「はい、一泊の予定ですが、もしものことを考えて四日分は積んだかと思います」
「馬鹿、十日分は積め。おれは大喰いなんだ」
「はい、わかりました」
「燃料は入れたか?」
「満タンです」
「それで何日飛べる?」
「三日は大丈夫でしょう」
「補助燃料も用意しておけ」
「補助燃料?」
「念のため十日ぐらい飛べるようにしておけ」
「は、はい」
 長老が来てくれたおかげで上下関係が逆転した。ツチノコは先輩としてはすこぶる面倒くさい奴だったが、後輩となると勤勉で信頼できそうである。
「ーーそれでは出発しましょうか」
 準備が終わり、ツチノコが乗船した。おれも続けて乗り込もうとすると、長老が、
「無事でな。君が遠くに行ってしまうと思うとなぜか不安でしょうがない。君はゴウ族の命綱なんだから」
 と気弱なことを言ってきた。何か不吉な予感がするのだろうか。
「すぐ帰るから」
 おれが返事をすると、長老は少し安心したようにフッと笑い、最後におれの股間を名残り惜しそうに握ってきて、「気をつけてくれよ」と言った。おれは小さく会釈して飛行船に乗り込んだ。
「出発します」
 飛行船はスーッと浮き上がり、暗い地下道を走り出した。地下道の向こうに小さな光が見え、その光がだんだん大きくなり目の前に迫る。地下道を抜けた瞬間眩しさで一瞬視界を失ったが、視界が戻ると一面荒野の風景が拡がっていた。
     ※
「やっと外に出られた・・・・」
 後方を振り返ると、崖の上の高台に建てられたドームの姿が小さく見えた。
「おい、ツチノコ、ちょっと飛行船を止めてくれ」
「どうしたんですか?」
「外に出てドームの外観を見てみたいんだ」
「やめたほうがいいですよ。ここら辺は大気汚染が酷くて喉が痛くなりますよ」
「いいんだよ。ちょっとぐらい」
「わかりました」
 ツチノコはわざわざ飛行船をUターンさせて、ドームがよく見えるところで停まってくれた。おれは飛行船から大地に降り立ち、久しぶりの空を見上げた。空は白く曇っていて太陽がまったく見えない。赤茶けた大地には灌木どころか、草の一本も生えておらず、どこかの惑星に来たかのようである。周辺に寂れた工場が点々と見え、その工場の一つ一つから黒いパイプやケーブルがドームへと伸びている。その姿はまるでドームに生えた黒い血管群のようであり、多数の管に繋がれて延命する最長老の姿と重なった。
「あれらの工場は動いているのか」
 ツチノコに訊ねた。
「もちろん動いていますよ。あの工場は鉱物資源を採掘、精製、加工して、ドームに送っているんです。他にもいろいろなパイプがあって、水やエネルギーはもちろん、ドームからの廃棄物を外部に出すパイプもあります」
「資源がドームの中だけで循環しているわけじゃないんだな」
「そんなこと不可能ですよ」
 ツチノコはさも当たり前といった表情で言った。
「確かに空気が臭いな。喉が痛くなってきた」
「この先、あと何百キロか行くともっと酷いですよ。原発地帯になっていて、稼働しているもの、廃炉になって放置されているもの、いろいろあって、その一帯は放射線濃度が異常に高くて絶対降りられません」
「人間はそこで働かなくいいのか?」
「そこはすべてロボットです。ロボットのメンテナンスは人間がやらなくてはいけませんが」
「上から見ると何もない荒野に見えたが、大地に降りると変なものがたくさんあるんだな」
「飛行船に乗っていれば安全です。危険地帯のデータベースがコンピューターにインプットされていますから、そういった場所には寄りつかないようになっています」
 飛行船に乗り込み再出発した。飛行船は自動操縦になっているので、目的地さえ入力すれば何もしなくても飛んでいく。船室は狭いが、ーー作業スペース、寝室、トイレなど、生活に必要なものはすべて揃っている。この船室にいる限り、安心、安全、便利、快適、清潔に暮らすことができる。
「飛行船のスピードはどれくらいなんだ?」
「最高時速は千キロぐらいでしょうか」
「ずいぶん速いんだな」
「このパネルを見てくださいーー」パネルには地図が映し出されている。「極東にあるここがドームです。小さな点が光っている所がアウターの村です。村は大陸全土で三百、四百あるでしょうか。今回は一泊二日で二十箇所ほどを周る予定です」
「この西側にある緑色のエリアは自然が残っているということなのか?」
「ええ、その通りです。しかし反ドリモンドのゲリラが出るらしいので詳しい調査はあまり行われていません」
「おれが唯一暮らしていけそうなエリアだな」
「ほとんど未開発のエリアなのでマラリアもあるようですよ」
「マラリアぐらいなんだ。まったく行けないわけではないだろ?」
「ええ、もちろん行けます。交流のある村もいくつかありますから」
ーーよし、行くべきはこの西側エリアだな。
 怪人ムスタングはこの自然の残っているエリアにいるに違いない。
「今回の調査は、大陸の北側エリアの村々を周り、明日は南へグルリと下りながらドームへ戻る予定です」
 ツチノコは西側エリアを今回の調査でまったく考えていないらしい。どういうタイミングで『ムスタング捜索計画』を打ち明けようかと考えた。早いタイミングで話し、すぐに引き返されたら困るので今は黙っていた方がよさそうである。
 二時間ほど飛行し、最初の村へ降り立った。所々に灌木が生え、山の傾斜を利用した段々畑が見えるが、土地が痩せていてまともな農作物が獲れるような感じではない。村人たちの服装はボロボロで子供は裸同然、皆んな明らかに貧困である。村人は飛行船を見つけると一斉に集まってきた。ツチノコは、集まってきた村人を一列に並ばせ、食料品や作物の種を配り始めた。手慣れた様子でテキパキと任務を遂行していく。仕事はすべてツチノコに任せておけばよさそうなので、おれは村をブラブラと散策した。村の老人からムスタング情報を何か聞き出せたらと思っていたが、有益な情報を持っている老人は誰もいなかった。
 仕事が済むとまた飛行船に乗り込み、次の目的地に向かった。
「村ってところはすべてあんな感じなのか?」
 ツチノコに訊ねた。
「ええ、規模は数十人の村から数千人の村までいろいろありますが、村人は大体あんな感じで貧しいです」
「活きのいい若者なんていそうな感じがしないよな」
「そうですね、簡単には見つかりませんね。もちろん健康面だけじゃなく、性格、能力、やる気、体力、すべて揃っていないといけませんからスカウトは簡単じゃないです」
「ずいぶん張り切って仕事をしていたじゃないか。スカウトは楽しいか?」
「執事の仕事よりはやり甲斐があります」
「ゴウ族の糞尿捜査じゃ、やり甲斐は生まれないよな」
「おれはアウター二世だから、アウターのスカウトは恩返しの意味もあるんです」
「二世か。一世じゃないんだな」
「一世で執事に昇格する人なんて誰もいませんよ」
「おれだけか」
「そう、イエティさんだけですよ」
「でも、お前もよく執事まで出世できたよな」
「実は父と母は、天然性交、天然分娩でおれを出産していまして、当時それがずいぶん話題になったそうです」
「当たり前のことなんだけどな」
「おれは成績優秀だったのですぐに科学者階級に出世し、そこでの評価も高かったので執事階級に上がれたわけですが、執事になって名前をつけられるにあたって、おれの生まれ方、『膣から生まれた子供』ということで『チツノコ』となったんです」
「だからチツノコだったのか。じゃあ、おれが呼ぶツチノコじゃあマズイなあ。おれの後輩にツチノコという君にソックリな奴がいたから、どうしてもツチノコと言ってしまう」
「いいんですよ、ツチノコで」
 チツノコの最初の印象は最悪だったが、話してみるとなかなかいい奴そうだった。やはりツチノコ顔に悪い奴はいない。言うことは何でも聞くし、話しても通りがいい。ドリモンドでこんなに話しやすい奴は他に誰もいないだろう。やはり人間は天然物に限る。
「だったらチツノコも先祖返りして、アウターに戻ればいいじゃないか」
「それは無理ですよ。おれは無菌のデリシャス・バーで育っていますから、アウターの食べ物を口にするとお腹を壊してしまいます。もちろんの外の水もダメですし」
「遺伝子的に強いものを持っているんだから、外で生活すれば慣れると思うぜ」
「いや、やはりドームがいいですね。アウターの何もない貧しい暮らしをよく知っていますから。それに彼らの平均寿命は乳児の死亡を除いても、せいぜい四十歳ぐらいじゃないですか」
「別に長生きすることだけが人生じゃないぜ」
「おれは長生きがしたいですが・・・・」
「要は質だ」
「質と言われても・・・・。ところでイエティさんはどこの村出身なんですか。聞いた話によれば、怪人ムスタングに連れて来られたそうですが」
「ああ、そうだ。だからおれはこの星の出身じゃない。別の世界から連れて来られたとでもいうか」
「そこからどうやって一気に執事にランクアップしたんですか」
「精子が濃かったってだけのことだ。何をしたわけでもないし、そもそも社会のために何かをするつもりなんてまったくない」
「それはそれは・・・・」チツノコは苦笑した。「長老と仲がよかったじゃないですか。あれはどうしてなんですか」
「あれか? あれもおれの精子が濃かったから生まれた友情だな。長老はおれの玉袋に夢を抱いているようなんだ。出発のとき、長老が来てくれなかったら、お前はおれを下に見て、今頃お前と殴り合いをしていただろうな」
「悪く思わないでくださいよ。イエティさんみたいな特別な人は初めてだったものだから、ナメられちゃいけないと思って強く出たんですよ。こうして話してみると、なんか独特の雰囲気があって尊敬しますよ」
「尊敬なんかしなくていい。尊敬はしなくていいが、おれの好きなようにやらせてくれ。ただそれだけだ」
 この日九つの村々を回ったら暗くなってきた。北側付近の荒野で夜を明かし、翌朝チツノコが南に向けて飛行船を出発させようとしているとき、おれは奴の肩をポンと叩いた。
「ツチノコ君、いやチツノコ君、向かう先は南じゃなく西だ。西へ進めてくれ」
「えっ? どういうことですか」
「西側の方がいい人材が眠っているような気がする。おれの直感だ」
「いい人材・・・・。でも、今日帰る予定ですから、西に飛んだらもう一泊しなければならなくなりますが・・・・」
「じゃあ、もう一泊すればいいじゃないか。食料も燃料も十分あるだろ」
「ええ、ありますね・・・・」
「じゃあ、西側へレッツ・ゴーだ」
 チツノコは怪訝な顔をしたが、おれの命令に従い西側へ飛んだ。この日は西側の村を数箇所訪ね、夜が暮れる前に安全そうな野原に飛行船を停め、一日の任務を終えた。飛行船で食事をしながらチツノコと話した。
「ここは空気がよくて気持ちがいいですね。明日はいい人材に出会えそうな気がします」
 チツノコが穏やかな表情で言った。
「そうだなあ・・・・」
 おれは、怪人ムスタング情報がまだ何も得られていないので気分が冴えない。
「西側に飛行船が来たのは十年ぶりですが、自然が予想以上に豊かだし、村の雰囲気もよかったので安心しました。イエティさんの直感に従ってよかったです」
「ゲリラなんかいそうにないぜ。武器を作るだけの技術も資金もなさそうだし」
「確かにそうですねえ。やっぱり直にきて調査するべきですね」
「おれとしては明日、もっと森の深い所へ行きたいのだが、さらに奥へ行けるか?」
「森の奥? この先、後一つだけ村の情報がありますが、それ以外はありません。それに森林地帯になると飛行船が降りられませんし」
「そうか・・・・」
 翌朝、最西端にある村を訪れた。チツノコが村人と接している間、おれは前日と同様、村を散策した。大木の下に朽ちかけた祠があったので何気にその中を覗き込むと自然石が祀ってあった。その自然石には霊長類と思われる巨大な足跡があった。
「何だコレは・・・・」
 ちょうど老婆が通りかかったので話を訊いてみた。
「お婆さん、この足跡は何だい?」
「それですか。それはサイラス山に住んでいるといわれる山男の足跡です」
「山男・・・・」おれは目を見張った。「その山男に何か名前はあるのかい?」
「ムスタング様と言われ、わたしたちは神様として信仰しています」
「ムスタング! きた!」
 目の前がパッと明るくなった。思わず老婆のシワシワの手を両手で握りしめた。
「で、お婆さん、もう一回訊く。ムスタングはサイラスという山に確かにいるんだな」
「ええ、そうですよ」
「おれはムスタングに会いたかったんですよ、ハハハ。で、サイラスという山はここからどうやって行くんだい?」
「ムスタング様に会う? サイラスに?」
「ああ、おれは奴に会う用事がある」
「ど、どうしましょう・・・・」
 婆さんはうろたえだした。
「なんだよ、お婆さん落ち着きなよ。地図を書いてくれればいいだけの話だ」
「地図・・・・」
 他の村人も集まりだした。婆さんが皆んなに説明し、村人はザワザワしている。一人の実直そうな男性が代表しおれに言った。
「ムスタング様がお住いになると言われるサイラスは伝説の山であり現実にあるわけではありません。この先を北に進むと緑の川があり、その川を上流に遡るように上っていくとサイラスに着くと言い伝えられています」
「言い伝えでも何でもいいんだよ。それをおれは知りたかったんだ。で、時間はどのくらいかかるんだ?」
「三日で着いたという伝説もあれば、一カ月歩いてもたどり着けなかったという伝説もあり様々です」
「え? あ、そうか、そういうことか、だから伝説か・・・・。しかし、どうしてもおれはそこへ行かねばならないんだ。おれはムスタングに会わないと故郷へ帰れないんだから」
 村人の中に竹籠を担いでいた男がいたので、おれはその男に頼み込んだ。
「その竹籠をおれにくれないか。それに食料を入れたいんだ」
 男はおれの図々しい頼みに嫌な顔を見せず、竹籠を快く譲ってくれた。ここの村人は温厚でいい人ばかりに見える。おれは竹籠を背負って飛行船へ走って戻った。食料と水と毛布をビニール袋に包み、ナイロン製のテーブルクロスで竹籠を覆って二重に防水対策をした。これで準備完了である。
「イエティさん、何やってるんですか?」
 おれが竹籠を背負って飛行船から降りていくとチツノコが声をかけてきた。奴の後ろには村の若い女が一人いる。
「お、チツノコ、スカウトできたのか?」
「ええ、いい人が見つかりました。彼女は期間限定ですが、ドリモンドで働いてみたいということでスカウトしました」
 おれはその女の顔を見てギクッとした。
「ア、アマゾネス・・・・」
 サバ大に入学したばかりの若きアマゾネスにそっくりだった。
「えっ、どうしてイエティさんは彼女の名前を知っているんですか?」
「知ってるも何も・・・・」 
 すると女は、
「わたしの名前はアマノジャスです。アマゾネスじゃありません」
 と微笑んで言った。その魅惑的な笑み、はち切れんばかりに隆起した胸、そしてツンと上がった尻、まさに小悪魔アマゾネスである。
「そんなことよりもーー」チツノコが言った。「何なんですか。その荷物は?」
「ツチノコ、いやチツノコ、結婚おめでとう。いい出会いだったな」
 おれはチツノコの両肩にポンと手を置いた。
「何を言ってるんですか。そんなつもりはないですよ」
「おれは帰りの船室にはいないから、彼女と二人きりでまったりと過ごしてくれ」
「どういうことですか?」
「おれは冒険に出かける。怪人ムスタングを探しにな。この村でムスタング情報を獲られたんだ。サイラスという山にムスタング様はおられるらしい。短い間だったけどいろいろお世話になった。じゃあな」
 おれが立ち去ろうとすると、チツノコがギュッと腕を掴んできた。
「何を言ってるんですか。ちょっと待ってくださいよ。そんな軽装備で冒険? ムスタング探し? さっぱりわかりません。どういうことですか」
「どうもこうも、そういうことだ。遺伝子検査でおれの人生はサイラスに行くことがご宣託されたんだ」
「何を言ってるんですか。冗談だか何だかわけのわからないこと言わないでください。それにおれは長老からあなたを守るように言われたんですよ。おれ一人がドリモンドへ戻ろうものなら・・・・、おれのことも少しは考えてくださいよ」
「じゃあ、長老に伝えてくれ。精子男は村で毒キノコを食べて死んだってな」
「そんなの信じてもらえるわけないじゃないですか。よく考えてください。サイラスに行くにしても、どうして今日行く必要があるんですか? きちんと情報を集めて、装備を整えて、長老に事情を説明して、それから冒険に出ればいいじゃないですか。そんな格好で出たら自殺行為ですよ」
「物事はタイミングが大事だ。一瞬一瞬変化していく時の流れの中で、ここぞという奇跡のタイミングを見つけて行動しなくちゃいけない」
「何を大袈裟なこと言ってるんですか。頼みますから考えを改めてください。本当におれは殺されてしまいますから」
「だったらドリモンドを捨ててここで生きろよ。ここは自然豊かだし村人は穏やかだ。そしてお前はアマゾネスと結婚する。メデタシ、メデタシ」
「何を言ってるんスか」
「それがお前の運命なんだ。おれは天から覗いて知っているんだから」
 おれの言葉をチツノコの後ろで聞いていたアマゾネスが恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「いいなあ、お前は。あんなに可愛い娘さんと天然性交できて。ーーじゃあな、チツノコ、おれはお前と無駄話している時間はない。すぐに出かけないといけないから」
 おれはスタスタと歩き出した。
「絶対行かせませんよ」
 チツノコはついてきた。
「何だよ、ドリモンド育ちの虚弱体質のクセにしつこい奴だなあ。おれについてこられるとでも思っているのか」
 おれは意識的にペースを上げて歩いたが、チツノコはしぶとくついてきた。
「だからチツノコ・・・・」おれは立ち止まり、奴の目を哀れみの目で見つめながら言った。「よく考えろ。お前は手ぶらだ。水も食料もない。おれについてきたらどうなると思う?」
「頼むから行かないでください・・・・」
 チツノコはメソメソと泣き出した。
「泣くなよ、ツチノコみたいな顔した男がみっともない」
 チツノコは目を伏せてしばらく沈黙し、覚悟が決まった表情になった。
「わかりました。確かについて行ったって仕方がありません。イエティさんが無事にサイラスに行けることを心から祈っています」
「おれもお前が無事にアマゾネスとどこかで生活することを祈っているから」
「それじゃあ、お元気で・・・・」チツノコは二三歩歩いてすぐにまた振り返った。「イエティさん、あなたと初めて会ったときから、なぜか初対面という気がしないんですよ。何か寂しいスね・・・・」
「女々しいこというなよ。来世か来来世かもしくは別の世界で、またどうせ会うだろうよ」
「そういうもんですかねえ・・・・」
「人生とはそういうもんだ。おれたちは何かご縁があって出会ったんだから。一本指を出せ」
 チツノコが差し出した人差し指の先に、おれの人差し指の先を静かに合わせた。おれの頭の中にETの壮大な映画音楽が流れ出し、奴も同様の体験をしているだろうと想った。
「何のおまじないなんスか?」
 チツノコはキョトンとして言った。
「何だよ、スピルバーグの音楽が聞こえていなかったのか」
「何ですか、それは?」
 チツノコがプッと吹き出したので、おれもその笑いが伝染してプッと吹き出し、しばらく互いに笑い合った。笑ったら奴の気持ちも吹っ切れたようだった。
「じゃあな。アマゾネスを大切にしろよ」
「イエティさんもご無事で」
 チツノコと別れ一人で歩き出した。
ーーチツノコは村に残るのか、ドリモンドに戻るのか、どうするんだろうなあ・・・・。
 チツノコのことがいつまでも頭から離れなかった。アイツがついてきたときは邪魔な気しかしなかったが、一人になったら淋しさがこみ上げてきた。人間の感情なんていい加減なものだ。
 半日も歩くと、村人が言っていたように川にぶつかった。川は激しい流れのうぐいす色の大河である。川の水に手を浸すとキンと骨まで染みる冷たさだった。ここで一旦荷物を下ろし岩の上に腰をかけた。慣れない竹籠を長時間担いで肩が痛い。脚を伸ばし革靴を眺めると、合皮の革靴が所々ほころびている。長距離を歩くように作られていない粗物なので、いつ破れてもおかしくない。
 おれは顔を上げ、改めて周囲の景色に目をやった。濃い緑の木々は枝葉を大きく天に広げ、空は青く透き通っている。草と土の匂い、鳥のさえずり、目蓋の周りを執拗に絡みついてくる小さな羽虫、こうした生き物たちがかけがえのないものに感じる。生命は大きな流れの中で互いに依存し合いながら生きているという当たり前のことを改めて思う。
 暗くなるまで歩き続け、晩は大木の根本で野宿をした。翌朝はしとしとと雨が降ってきた。レインコートがあれば雨なんぞどってことないのだが、雨よけのために確保したナイロン製のテーブルクロスでは雨をほとんど防げない。おまけに昨日危惧された靴が、歩いているうちに踵が剥がれてしまい早くも使えなくなってしまった。これからは裸足で歩かなければならない。足の裏は痛むし、体は濡れて寒い。温かいシャワーを浴びて、柔らかな布団で寝ていた昨日までの便利で快適な生活は何だったのか。この日も暗くなるまで歩き続け、岩陰で横になり浅い睡眠をとった。
 翌日、翌々日と黙々と歩いた。村人が言っていた三日で着いた者がいるという言葉、おれはそれを聞いた時、じゃあ三日で着くだろうという根拠のない自信があったのだが、たどり着く気配がない。地図もなく歩き、どこへ向かっているのかさっぱりわからない。食料が底を尽き始め、少しずつしか口にできなくなってきた。ナイフがあれば狩りもできるのだが、素手素足ではどうにもできない。とにかく前に進むのみである。
 一週間が経過した。とうとう食料がまったくなくなり断食登山となった。飲み水も川の水を直に飲んでいる。午前中は曇っていたが、日中を過ぎると雷が鳴り出し、前が見えないほどの大雨となった。空腹状態でずぶ濡れになって歩いていると体が芯から冷える。雨を多少なりとも防げそうな大木があったので、テーブルクロスを頭から被って木の根元でしゃがみ込んで一休みした。
「本当にサイラスにたどり着くのだろうか。着いたとしてもそこに本当にムスタングがいるのだろうか・・・・」
 今さらになって疑念と不安が頭の中を渦巻いた。勢いだけで無謀なことをしでかし馬鹿を見る。馬鹿を見るどころか命を失う。おれらしい馬鹿な死に方だ。険しい山道で傷つけられた素足は赤く腫れて膨らんでいる。痛くてもう一歩も歩きたくないが、おれの人生は前に進む以外生き残る選択肢はない。後戻りする体力はもう残っていない。
 雨が小降りになったら歩き出すつもりだったが、雨が弱まる気配がなかったので、そのままびしょ濡れになりながら夜の闇に佇んだ。
ーー色即是空。
 般若心経の一節が頭に浮かんだ。おれは大海の水面から揮発した一粒の微細な水粒子。そこかしこ無数に散らばる同じような粒子どもにぶつかり揉まれるうちに、おれは「おれ」というエゴを強め、自分が実在していると勘違いした。おれの本性は大海であり、それは増えもしないし減りもしない、生まれたこともないし死んだこともない。なのにおれは「おれ」という夢を見つづけてきたし、今も「おれ」という夢を見ている。そして馬鹿なことをして、笑い、苦しみ、衰え、死んでいく。おれの目に見える世界は、馬鹿が覚めるまで形を変えてどこまでも流転していく。
 夜が明けてうっすら辺りが明るくなってきた。雨はやみ一面白く靄がかかっている。歩き出そうかと思ったが立ち上がることができなかった。限界とはこういうことなのか。体が冷え切り指先を見ると爪が薄気味悪い黒紫色になっていた。
「ああ、ここまでか・・・・」
 木に背をもたれかかりながらボンヤリしていると、過去の記憶の断片が次から次へと飛来してきた。おれがここまで生き延びられたのは奇跡だ。いろんな人に世話になり、迷惑をかけてきた。浮かんでくる顔、浮かんでくる顔におれは感謝の言葉と謝罪の言葉をかけた。自然の中で、土の上で静かに死ねる身の上に本望である。最期のときは、念願であった自分の死を自ら客観視しようと、半結痂の姿勢をとり背筋を伸ばして目を閉じた。
「フーフー」
 野獣の息が耳元に吹きかかってくるのを感じた。おれの最期は野獣のエサか。ずいぶん狩りをして命を奪ってきたから今度は喰われる番だ。それが自分の業なのだろう。野獣の奴、どこに噛みついてくるんだ。頚椎を噛み砕いてくるのか、喉を塞いでくるのか。
「イエティー」
 声がした。おれは幻聴だと思い、やり過ごした。
「イエティー」
 また聴こえたのでゆっくりと目を開けると、白鹿がおれに寄り添っていた。
「ギャートルか・・・・」
 おれは消え入るような声で言った。
「ほら、立つんだ。イエティ」 
 ギャートルはおれを頭で起こそうとする。
「ギャートル、もうおれは立てない。ここでお陀仏だ。お前にはずいぶん世話になった。いろいろ迷惑をかけてすまなかったな・・・」
 ギャートルは何もこたえず、角でおれの上体を持ち上げて立ち上がらせ、おれを引きずるようにして歩いていく。おれは力を振り絞って自力で歩き出した。亡霊が漂うようにユラユラと前へ進んでいく。疲れは感じない。痛みも感じない。空腹も感じない。周りは白く靄がかかって何も見えない。ただ白鹿の後ろを何も考えずに歩いた。
 どれだけの時間歩いただろう。感覚が麻痺してまるでわからない。どこからか声が聴こえてきた。大地の裂け目から鳴り響くような声。僧侶が読経している声だ。ハッとそこで正気を取り戻した。その声は前方の洞窟から漏れ出ているようだ。白鹿が後ろを振り返った。おれと一瞬目を合わせると何も告げずに正面を向き直り、白い霞の中を去って行った。
 おれは読経の声に吸い寄せられるように洞窟に入っていった。洞窟の中はロウソクの炎で赤く照らされ、臙脂色の袈裟を纏った僧侶十数人が経文を唱えていた。おれは最後部に静かに腰を下ろし、皆と同じように合掌して読経の響きに身を委ねた。読経の声は洞窟の壁をぶつかり合って振動し、前からも上からも左右からも立体的に響き渡って身体を通り抜けていく。
 読経が終わり僧侶たちは立ち上がった。そこで最後部にいるおれの姿に気づき一斉に動きを止めた。僧侶たちは、目を伏せて合掌した姿勢のまま動かないおれの姿を無言のままじっと見つめた。そこに僧院長と思われる一番前にいた僧侶がノシノシとゆっくりとやってきて、おれの前方一メートルで立ち止まった。おれの目に僧院長の巨大な素足が映った。足の親指の大きさが小学生の握りこぶしぐらいある。
「ビッグ・フット・・・・」
 おれはおもむろに顔を上げた。そこには見覚えのある大きな顔があった。
「来たか」
 ビッグフット僧侶は小さく言い、ニッと笑って歯抜けを覗かせた。無言で手の平を微かにヒラヒラさせて歩き出したので、おれはヌラリと立ち上がり、その後を足を引きずりながらついて行った。洞窟を出て、崖の間際の東屋に向かい合って腰を下ろした。崖の下は靄がかかって何も見えず、まるで雲の上にいるようだ。
「どうだった?」
 坊主はおれの目を見つめ曖昧に問うてきた。
「どうだったも何も、おれは今、生きているのか?」
 微かな声で問い返した。
「どうにか生きているみたいだぞ、ハハハ」
 坊主は笑ったがおれは笑えなかった。口がパサパサして笑う気力も体力も残っていない。そこに若い僧がお茶を持ってきてくれた。小さな湯呑茶碗に注がれた薄緑のお茶を口に含むと、若葉の匂いが鼻腔に吹き抜け、口の中にほのかな甘みと苦味が広がった。おれはフーと深く息をついた。
「デリシャス茶より旨いなあ」
 素直な感想をしみじみとつぶやくと、
「だろうな」
 坊主も茶をズズズとすすり同意した。
「ドリモンドはまだ持ちそうか」
 暫しの沈黙の後、坊主が口を開いた。
「ダメだな」
 おれは淡白に答えた。
「何がダメだ?」
「循環していないからダメだな」
「君の精子でもダメか」
「全然ダメだな。多様性が生まれないからな」
 若い僧侶が雑穀粥を持ってきてくれた。レンゲでひと掬いして一口すすると、体の隅々に滋味が染み込み、生気が蘇るのを感じた。
「デリシャス・バーより旨いなあ」
 率直な感想をつぶやくと、
「だろうな」
 坊主もフーフーして粥をすすり同意した。
「で、ムスタングさんよーー」栄養が脳に浸透しおれに話す力が出てきた。「なんでおれはドリモンドへ行ったんだっけ?」
「君が行きたかったからじゃないのか?」
「そうだったっけなあ・・・・」
 おれはこの怪人にスカウトされたから嫌々ドリモンドへ行ったものとばかり思っていたが、おれ自身が行きたかったからと返されると、そうだったかもしれないと思った。
「しかしな、あなたかっておれのところにわざわざ来たからには理由があっただろ?」
「もちろんなーー」
 坊主は立ち上がり、おれの隣に座っておれの足の真横に奴の足を並べた。坊主の足の大きさには到底敵わないが、おれの足も赤く腫れ上がって巨大になり、なかなかいい感じで勝負している。
「こういうことだ」
 坊主が言った。
「そういうことか」
 おれはまったく意味がわからなかったが、何となくわかったような気持ちがした。
「これからどうする?」
 坊主は向かいの席に戻って問うた。
「そうだなあ・・・・。ムスタング僧院長のこの帝国で足が癒えるまでゆっくりさせてもらうよ」
「そうか、好きにしたらいい」
「無為徒食では悪いから、毎日精子を搾って提供させてもらうよ」
「そうか、ハハハ」
 ムスタング僧院長は自慢の歯抜けを見せてお笑いになった。
 食事が終わり、おれは若い僧侶に僧房の一室へ案内された。狭い部屋だったが板張りの質素なベッドと机があった。おれはベッドに横になり毛布を一枚腹に掛けると、疲れていたこともあって、十秒数える間もなく眠りに落ちていった。
      ※
 おれは強い尿意を覚え目を覚ました。
ーーここはどこだ?
 真っ暗で何も見えないが僧房のベッドではないことはすぐにわかった。土臭いニオイから察し、熊が冬眠するような穴蔵にいるようだ。
「やれやれ・・・・」
 おれは大木の根元の穴蔵から這い出し、山の斜面から放尿した。
ーー今度はどこに連れてこられたんだ・・・。
 おれは着の身着のままの状態、黒服に裸足である。
「さて、どこへ行くか・・・・」
 暗い山の中、小さな光が見える方向へトボトボと歩いた。
「あっ、ここは・・・・」
 自分のホームグラウンドであることがわかった。
「サバ大だ」
 学生たちがグループごとに分かれ焚火を囲んでいる姿が薄っすらと見えた。和気藹々とした彼らを見ていると、不覚にも涙がポロポロと流れてきた。おれはブーッと手鼻をかみ、彼らに一直線に近づいて行った。
「あっ!」
 ある学生が悲鳴にも似た声を出した。どうやらおれの姿が亡霊に見えたらしい。ザワザワしているところへのっそりと入っていくと、
「イエティ・・・・」
 おれの名を呼ぶ声が聞こえた。そちらへ目を向けると学長の姿があった。
「イエティ先輩・・・・」
 その隣にはツチノコの姿があり、他にも懐かし顔がチラホラと見えた。
「どうしたんだ、おい。葬式帰りか」
 学長が黒服姿のおれを見て心配げに訊ねてきた。おれは学長の隣に無言でドンと腰を下ろした。
「どうした? えっ、お前、どうして坊主頭なんだ? も、もしかして、ムショ帰りか?」
 おれは何から話せばいいか頭を整理するためしばらく黙って炎を見つめた。
「どうした? どうして黙っているんだ? しかも裸足じゃないか。もしかして、ムショから脱走したのか? どうした、お前、泣いているのか?」
 次から次へと質問が飛んでくる。大勢の目が、おれが話し出すのを注視している。
「おれはビッグフットに拉致されて、今戻ってきたところだ」
 おれが真面目な表情で重たい口を開くと、
「イエティーがビッグフットに拉致された? ずいぶん仕込んできたネタだな」
 一斉に笑われた。何か面白そうなことが始まったと、学生たちもゾロゾロとこちらの焚火に集まってきた。
「チツノコッ!」
 おれは、軽薄に笑っているツチノコのツラを睨みつけて一喝した。
「チツノコ? 何ですかそれは。それも新しいネタですか?」
「ネタ? おれがそんなツマラないネタを喋るとでも思っているのか」
「先輩はツマラない駄洒落で場をシラけさせるのが得意じゃないですか」
「小癪なことを言いやがる。お前はおれにどれほどか心配させておいて」
「心配? どうして心配したんですか」
「無事にドームに戻れたのか?」
「え?」
「長老に会っておれのことを上手く説明できたのか?」
 ツチノコはポカンとしている。
「まったくお前は向こうの世界でもこちらの世界でもどこか真の抜けたところがある」
「先輩に言われたくないですよ」
 ツチノコが間髪入れずツッコんできたので、おれは思わずフフフと笑ってしまった。
「先輩、歯・・・・、治したんですか?」
「治したって何が?」
「抜けてないじゃないですか」
「えっ?」舌先で前歯を確かめると、確かに風がスースー通り抜ける空洞がない。「あっ、そうか・・・・。ドリモンドで歯抜けはカッコよすぎると言われて、歯が生える薬を飲まされたんだ・・・・・」
 周りは皆んなキョトンとしている。
「それにお前、足が妙にデカくないか」
 学長がおれの足の異変に気づいた。
「これもビッグフットに拉致された痕跡ですよ」
 おれの巨大化した足の迫力に場がシンと静まった。
「じゃあ皆に、これらの不思議の全貌を語らねばならないな・・・・」
 話し出そうとしたとき、生ぬるい強い風がピューッと不気味な音をたてて吹いてきた。話は中断し、皆は埃が目に入らぬよう手で瞼を押さえ風が止むのを待った。風が止むと焚き火の薪が散乱し、皆はそれの始末に動き回りざわついた。そんな中、おれだけは慎重に辺りの気配を窺った。
「ん?!」
 数十メートル前方の木の陰に、こちらを見つめる黒服男の影があった。おれと目が合うと黒服男は小さく笑い、闇の中へ立ち去って行った。
                 (了)2019年作

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