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発掘エッセイ:お笑いエッセイの憂鬱

 アクリル絵具を買ってきた。
 最近どうも絵を描きたい気分だ。いったいどうしたわけか、さっぱり謎だと思っていたが、その理由がだんだんわかってきた。
 どうやら私は今、文章を書きたくないらしい。

 最近、いつものようにアホな感じの文章で、と依頼されるのが少々きつくなってきた(ちゃんとした文章書いてくれ、といわれると、もっと困るが)。
 もともと真面目なこと書いたら負け、という意固地なスタイルでやってきた私であるが、そうやって斜に構え続けるのも、ときにしんどくなってきた。お笑いエッセイばかり書いていると鬱になりやすいという話があって、私はまだそこまで凹んではいないものの、いずれそうならないとも限らない。

 なぜお笑いエッセイを書き続けると、鬱になるのだろう。
 お笑いエッセイはいくら書いても評価されないからとか、必ず誰かにつまらないといわれるとか、人格までなめられるとか、そういうこともなくはないが、私が思うに、疲れたときでも悩んでいるときでも、常にハイテンションを装わなければいけないからではないか。素でハイな状態のときはいいが、そうでないときも無理にハイにならないと笑いが書けない。それが苦しい。

 そこで私は、後ろ向きな精神状態のとき用に、ダウナー系のお笑いを開拓してみたりしたのだが、ダウナー系お笑いの理解者は少なく、昔のほうがよかった、もっと弾けよ、とか言われてますますダウン。
 これはもう、自分が自分の文章に飽きてきた証だから、いっそいつもと違った新しい文体にチャレンジだ、よおし、いったい何をしてくれようか、と戦略を練っているうちに、いろいろ面倒くさくなり、気がつけば絵を描いている自分を発見した。

 線を描き、色を塗っていると何も考えなくていいからいい。瞑想のような気分になって、セラピーにもってこいである。
 模写をするのも、題材すら考えるのが面倒だからで、頭なんか使わないで、ただただ手を動かしていたいという衝動ゆえであろう。
 模写セラピー。
 何を描くか考えるのも面倒くさい。
 塗り絵セラピーみたいなものか。

 私の場合、模写のほかに迷路セラピーも有効で、迷路を描いていると大船に乗った気分になる。そんな己の欲求に素直に従い『ポチ迷路』という迷路の本まで出したぐらいだが、全然売れなかった。迷路なら本一冊分ぐらいすぐ描けるから、これで売れたら苦労なくして大儲けだと思ったのに、さっぱりだった。

 それで今は模写である。
 模写で食べていく方法はないか。
 ただの模写じゃ本にはできないから、現地の風景を模写してイラスト旅行記というのをやってみてはどうか。
 現地の風景の模写とは、つまりスケッチのことかといえば、そうではない。私がそんな高等技術を持っていると思ったら大間違いである。現物を見て描こうとすると、立体感をどう表現すればいいかさっぱりわからない。なので写真を撮って持ち帰り、それを模写する。三次元を二次元に変換する一番難しいところは写真にやってもらうのである。
 そうしてあんまり躍動感のない私のイラストが出来上がる。これをたくさん本のなかにちりばめれば、カレル・チャペックの旅行記コレクションみたいにならないかと、大きな野望を抱いてみたりしている。

 チャペックの旅行記は面白い。なかでも『イギリスだより』飯島周訳(恒文社)はとくにいい。
 さほど明快な旅行目的があるわけでもなく、雑然とした紀行エッセイだから、どんどん読み進めるというよりは、チビチビ読んで、読んだはなから忘れていくような、しばらく放っておくと、どこまで読んだかもわからなくなるような内容だけれど、味わいのある本は大抵そうである。引き込まれてぐいぐい読み進んでしまうようなエッセイは、まだ青い。

 文庫本をポケットに入れて、気が向いたら適当なページを開いて読んで、ちょっとした言い回しにクスリと笑ったら、また本を閉じて、コーヒーでも飲んでまったりする。全部読んだかどうかなど、どうでもいい。本を最後まで全部読むなんてのは、特殊な事情がある場合に限ったことで、そうやって脈絡なく適当なページを読んで少し面白いのが、上等なエッセイである。愛玩用のエッセイとでもいうのだろうか。そうやって読むからこそ、本は紙がいいのだ。
 そういうわけで『イギリスだより』も最後まで読んだかどうか定かでない。できればそんな本を、私も書きたい。


「本の雑誌」2015年2月か3月頃から転載

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