土木

 私は目下、旅行エッセイなどを書いて生業としているが、もともとは土木工学科出身である。
 なぜ土木工学を捨てたかといえば、それほど興味がなかったからで、ではなぜ土木などやったのかといえば、それしか合格しなかったからである。
 私は受験前から少しずつ数学についていけなくなっていた。それまで得意だった数学が、だんだん不可解な存在に変容しはじめたのだ。
 定理や公式というものは、複雑な問題も結局はこの方程式を当てはめれば解けるという、ある種計算をサポートしてくれるパートナーとしてそれまで理解していた。ところが、だんだんそのパートナー自体が、正確な数値として答えを導き出すのではなく、10の何乗か桁だけわかればいい、残りは誤差として捨てるみたいな、ざっくりしたものになって、信用できなくなっていったのだ。

 さらに土木工学へ進むと、たとえば水の挙動を理解するための流体力学というものがあり、そこに港湾の設計には必ず使うNS方程式という長くて奇怪な式があって、そこに渦という項が入っていた。
 方程式に渦?
 もはやさっぱりわからなかった。どこかに数学でないものが混じっている気がする。

 そもそも橋ひとつ造るにしても、材料の強度だけでなく、交通量とか風とか、それによる部材のねじれとか、多くの条件を加味しなければならないわけで、それらすべてを数字に変換できるものなのだろうか。
 桁が合っていればいいというざっくりした方程式を見たときから、私の疑念は膨らむ一方である。
 まわりを見回せば、同期生たちも、そんな方程式の意味を理解しているようには見えなかった。しかし、彼らは何の迷いもなく、土木業界へと就職していった。その後OJTで、さらに学ぶのだろうが、あれはもうある程度から先は、勘と経験の世界であり、方程式で精密にやっていくことなどできないにちがいない。

 たとえば、ここにトンネルを掘って、それが崩れないかどうかなど、机上の計算で本当のところはわからないと思うのだ。
 料理でいえば、肉にちゃんと火が通っているかどうか、切ってみればわかるけれども、全部切るわけにいかないという、そんなとき、きちんと火が通っていると判断するのは勘と経験だ。それと同じようなことが土木の世界でも行われるのだろう。実は計算よりも、そっちのほうが技術なのであって、今の私ならそれもわかるが、現場に出ていない学生の自分には、これを全部計算するのは自分には無理だと感じられた。

 そうして今、自分なんぞが土木に進まなくて社会のために本当によかったと胸をなでおろしているのだが、最近、おかしなもので、巨大な土木構造物が気になるようになってきた。
 それは土木への郷愁ではなく、ただ風景として、その異様な大きさ、人間業とは思えなさが、不気味であり、その不気味であるがゆえに惹かれるという、そんな気分である。
 巨大構造物を見るたびに、ある種の崇高さに心打たれる。
 あれは、計算ではなく、勘と経験と、ひょっとしたら多少の幸運でその場に立っているのだと思えば、そこに奇跡を感じてしまうのも無理はないのかもしれない。

日本経済新聞2015.11.15 

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