イスラエルをジェノサイドで国際司法裁判所に提訴した南アフリカ
南アフリカがガザを攻撃するイスラエルを民族の大量虐殺の禁止を定めた「ジェノサイド条約」に違反すると提訴した。10月7日の戦闘開始以来、ガザのパレスチナ人の犠牲は2万2000人に近づいている。
南アフリカのシリル・ラマポーザ大統領は高校時代からスピーチや歌、踊りで南アフリカのアパルトヘイトを告発していた。彼は、ソウェト暴動後、6カ月間獄中生活を送ったこともある。1982年に全国鉱山労働者組合の設立に重要な役割を果たし、書記長に就任した。全国鉱山労働者組合は彼のリーダーシップの下で組合員30万人に成長し、1987年には南アフリカ史上最大のストライキを実施した。
イスラエルはアパルトヘイトの南アフリカと友好関係にあり、核兵器の供与も申し出たことが報じられたことがある。ラマポーザ大統領は10月7日のハマスの攻撃を激しく非難したけれども、パレスチナ人が75年間占領下に置かれ、イスラエルのアパルトヘイト支配を受けてきたことを強調し、パレスチナ問題の解決は2国家共存であることを確認している。
南アフリカのマンデラ元大統領は、
「人種差別は魂の病だ。
どんな伝染病よりも多くの人を殺す。
悲劇はその治療法が手の届くところにあるのに、
まだつかみとれないことだ。」
と言い続けて、およそ27年間の獄中生活を経て、アパルトヘイト撤廃という「治療法」をつかみとった。
マンデラ元大統領は、「真実と和解委員会」を立ち上げ、アパルトヘイトの警察国家が過去に行った人権侵害の調査、政治活動で投獄された者の釈放、政治的抑圧による犠牲者の復権を目指した。「真実と和解委員会」は懲罰や復讐を目的としたものではない。それは、過去の人権侵害を明らかにすることによって南アフリカだけでなく、国際社会にも教訓を残すものであった。「真実と和解委員会」は人種、あるいは民族的な対立に向かうものでなく、その名の通り国民の融和を目指した。
マンデラ元大統領はイスラエルの占領下に置かれるパレスチナ人にも強い同情や共感をもった人だった。
「パレスチナ人の自由なしにわれわれの『自由』も不完全だ」-ネルソン・マンデラ
ヨルダン川西岸ラマラには高さ6メートルのマンデラ像がある。
南アフリカでは、1994年に全人種による初の民主選挙が行われたが、その翌年の1995年に、ラグビーワールドカップは南アフリカで開催され、アパルトヘイトと勇敢に闘ったネルソン・マンデラ大統領が優勝した南アフリカのフランソワ・ピナール主将(アフリカーナ:オランダ系移民)に優勝トロフィーを手渡したことは、アパルトヘイト時代の終焉を象徴していた。クリント・イーストウッド監督はマンデラ元大統領とピナール主将を題材に映画「インビクタス」を撮った。
イスラエルは2002年にヨルダン川西岸の分離壁の建設に着手したが、この壁の建設のためにもパレスチナ人の土地が没収された。分離壁の85%がヨルダン川西岸の占領地内部に入り組み、イスラエルのヨルダン川西岸での入植地拡大を既成事実化することにもなっている。2004年に国際司法裁判所は分離壁が不当で、実質的には領土併合と変わらないという判断を下したことがある。