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伝統的井戸掘り技術で世界の飢えと渇きを救おうとした日本人
5月4日は緑の日だったが、その「緑」に関連する人物として中田正一氏(1906~1991年)がいる。彼は「飢えと渇きに苦しむ人々に最も必要な命の糧は水だ!」と考え、日本の伝統的な手掘りの井戸で世界の困窮する人々に命の糧を与えようとした。
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戦後、農林省に入省し、1963年にアフガニスタンに派遣されて農業指導に取り組み、農業技術カリキュラムを小・中学校に普及することに貢献した。
1967年に農業を中心とした国際協力を行う人材を育てることを目標に「国際協力会」(後の「風の学校」)を設立し、自らの志を将来の世代に伝えることを考える。
1974年に農林省を退職し、1975年に独立してから間もないバングラデシュに農業支援のチームの指導者として赴任した。これはバングラデシュ政府の要請によって日本政府が派遣したものだが、中田氏は砂防や飼料に適したイピルイピルの木を植林し、その普及に成功した。
中田氏が伝えたのは、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を世界各地に伝えようとした。モノやカネに頼らず、現地の人々と協力して危機を乗り越えようとし、物資がない発展途上国でも応用できる技術の教化や難民などの困難な生活状態の改善に努めた。
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最初の海外での活動の地であるアフガニスタンには愛着があったようで、ソ連軍が撤退した1989年にモンゴル系のハザラ人に扮して3度潜入を試みて失敗したこともあったが、1991年にアフガニスタンでの農業支援から帰国した後、脳腫瘍に倒れて他界した。
「愛の反対は憎しみではなく無関心。自分さえ豊かに生活できれば、他はどうであろうと一切無関心、飽食を重ねて、マネーゲームに興じる時代。これは一番悪い社会だと思う」
―中田正一
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